赤の星見草
――2017年8月14日、深夜。
私は旅行の下見に来た車云生町にある防波堤で、彼に告げた。
「……兄さん」と。
彼の驚いた顔は忘れられない。しかしこれで良かったのだ。これから起こる出来事に彼を巻き込まずに済んだのだから……。
…
……
………
――時は30年程遡り、1987年3月。
私は大阪市民病院で生まれた。2300g、五体満足で生まれた私がそれに気付いたのは6歳になった頃だった。
「陽ちゃん!それなぁに?」
「ん?小春ちゃん、何?何?」
お友達の小春とお風呂に入っていた時の事。手で触ると、お尻の上、尾てい骨の辺りに長い毛が数本生えているのを感じた。
「陽ちゃん!しっぽみたいや!ねぇ!これ本物なん?」
「え……?小春ちゃん!ちょっとタンマタンマっ!」
鏡で見ると、本当に長い毛の様な物が生えている。
その日の夜、母親にこの毛を見せて聞く。
「ねぇ、母さん!陽ちゃん、こんな所からお毛毛が生えてきてんねんけど……?小春ちゃんは生えてきぃへん言うてんのに、なんで?」
母親は私の方を振り向き、話始める。
「陽子ちゃん、今からお母さんが話す事は決して誰にも言うたらあかんで。約束出来るん?」
「う、うん……」
母親の見たことの無い鋭い眼光が怖かったのを覚えている。
母親の家系は代々伝わる狐族の末裔だそうだ。「何を馬鹿な事を……」今ならそう思うかもしれない。しかし当時6歳の私は、幽霊やお化けの話は苦手だが、皆と違うこの不思議な体験に心躍っていた。
母親の実家は島根県の車云生町と言う所にあるらしく、姉はそこで暮らしているとの事。そう言えば母方の実家の話は、その時まであまり聞いた事がなかった。そして狐族にはしきたりがあり、男児を産むと長として育てられ、次の世代に繋ぐ為に、人間を一人、いけにえにするという恐ろしい言われがあったそうだ。
「母さんはね。2度目の結婚やったのよ。1度目はちゃんと男児をもうけられたんやけどね。でもね……この狐の姿を前の夫の両親に見られてしもうて。それから気持ち悪がられ、最後は殺されかけたんよ……。そしてそのまま家から逃げ出した。息子は引き取られ、途方に暮れて故郷に帰ろうとしてる時にね、あなたの父親と出会ったの」
「そうやったん。母さん、大変やったんやね」
「せやね……」
「じゃあ、私のお父さんはそのイケニエとかいうやつになっちゃったん?」
「うぅん、あなたのお父さんは病気でね……」
「ふぅん……。そっか」
「お父さんが亡くなってから、私はあなたを連れて車云生町に帰ろうと思っとったわ。でもね、この南家工業所の皆さんが不憫でね。私が出来る限りの事をしてあげようと思うて……」
「そんで母さんがしゃちょーになったんやね!ふふっ」
「せやね。最初は大変やったわ――」
それから従業員と共に苦労し、南家工業所を立派に再建してみせたそうだ。
「そん時からずっと助けてくださっとるのが、神野さん……今では私の右腕やね」
「え!神野のおばちゃんて右腕にもなれんの!何て妖怪さん?」
「ぷっ!違うわよ!右腕って言うのはね――」
それから1年後、私にも立派な尾っぽが生えた。しかし決して嫌ではなかった。容易に隠す事も出来るし、何より母親と同じ姿でいれる事が嬉しかった。満月の夜には工場の一番高い場所で月明かりを浴びる。こうする事で、獣臭さが抜け、人間の姿でいる事が出来るそうだ。
高校に入る頃には、人間にも妖狐にも自由に姿を変えれる様になり、特段不便な事は無かったのだが、人間でいる容姿があまりに美しすぎると、毎日の様に告白され、毎日の様にナンパされ、それが面倒くさくてたまらなかった。そして人間ではあり得ない力と脚力がある為、セーブしないと簡単に人間を殺めてしまえる事も知った……。
私が南家工業所を継ぐ為の意思を持ち始めたのは大学生になった頃だ。機械工学科を選択した私は、そこでの学びが楽しく、幼い頃から工場で学んだ経験がどんどん生かされていく様であった。
そしてある日、偶然見かけた大学4年生の彼に目を奪われた。今思えば、それが兄との初めての出会いだったのだろう。まさか初恋の相手が兄だとは笑える。
しかし、母親は同じでも父親が違う。その時は兄だとは全く気付かなかった。ただ……彼から漏れ出すフェロモンを本能で感じ取ったのだろう。「あれは人間ではない、同種族だ」と……。それから彼の事を調べ、彼の友人達にも近付いた。そして母親に好きな人が出来たと相談したその日に……それが兄である事が判明した。数千、数万人の男がいる中で、偶然見つけた私の初恋が簡単に終わりを告げると、その日はあまりにショックが大きく、熱を出したのを覚えている。
それから数日間大学を休み、途方に暮れていると、彼の友人から連絡が入った。それが服部鉄工所の息子の服部君弥だった。
気晴らしに何度か会い、彼の優しさに少しだけ気持ちが和らいだ。半面……彼の話の中で、彼は家業を継ぐらしいことを知り、兄は卒業後に別の会社に就職する事を聞き、またショックを受けた。ようやく見つけた兄と、同じ業種で、将来仕事を一緒に出来るかもしれないと言う気持ちがどこかであった。しかし全く違う業種に就職が内定し、地元も離れてしまうという。そうこうしているうちに彼らは卒業し、兄と話す機会もなく、私は心に蓋をした。
それから数年が経ち、私も大学を卒業、実家の南家工業所へ就職する。社長の母親のもと、会社経営と工場勤務をこなし、時間はあっという間に過ぎていく……。
そして2016年6月。鉄鋼組合の懇親会で思わぬ再開となった。
「えっ!兄さ――」
「初めまして、工藤機械工業の工藤です。よろしくお願いします」
「あっ!初めまして!南家工業所の秋津と言います……」
名刺交換をしたのがまさかの兄だった。大学の頃の風貌とは打って変わって、髪はぼさぼさ、スーツもよれよれで、どこか疲れている様な感じを受けた。何かあったのだろうか?
「服部から南家工業所さんのお話は聞いています。確かお母様が社長をされて……」
「えぇ、そうなんです。母が社長をしておりまして」
「え……と。秋津さんがいずれは跡を継がれるのですか?」
「はい、そのつもりです。母からは早く孫の顔が見たいと言われるのですが、私はその気がなくて――」
「へぇ、そうなんですね。ご結婚されているのですか?」
「あっ!いえ、相手もまだいませんので!」
「そうなんですか。こんなにお美しいのに」
「そんな!お世辞でも嬉しいです。ありがとうございます」
「いえいえ!お世辞なんかじゃありま――」
「専務、お話の途中すんません。皆様にご挨拶の時間です。ご登壇下さい」
「あっ、小春。わかりました。工藤さん、それではまた」
「はい、ありがとうございました」
これが兄と初めての会話だった。どこかよそよそしく、だけれどすごく落ち着く……。私はまだ兄の事を……。
それから1ヶ月もしないうちに、再び兄と再会する事になろうとは思ってもいなかった。
ある日、社長から呼び出され相談を受ける。
「専務、この仕事なんやけど」
「はい。先ほど書面で確認しました。うちでは無理やと思います。特殊鋼が間に合いません。それに納品先が島根県では配送が翌日になります」
「やっぱりそうやね……。お得意様なんやけど、お断りするしか……」
「……何社か当たってみましょうか?」
「せやね。それで駄目ならお断りしよ」
「はい、社長。わかりました」
私は小春に片っ端から電話する様に指示をする。この仕事自体はそう難しい物ではないが、納期が今日を入れて4日……来週の火曜日には納品しないといけない短納期だ。おまけに……。
「専務、何社か聞いてみましたが、やはり納期とこの特殊鋼の取り寄せが間に合わん言うて……」
「せやな……うちで鋼材頼んでも2~3日はかかる……。小春、どないしようか。東家工業所さんは聞いてみたんか?」
「はい、真っ先に。せやけど、在庫はないいうてました」
「そう……」
私は名刺入れを取り出し、小春が電話をしていない取引先へと電話をかける。
「南家工業所の秋津と申します。お世話になります。あの、社長様はおられますでしょうか――」
小春と手分けして電話をしてみたが、やはり特殊鋼が間に合わないと、皆、同じ回答だった。
「あかん……こんなんお手上げやん……」
私が諦めかけ、名刺入れを机にしまおうとした時だった。名刺入れの裏に、1枚だけ別に差してある名刺に目が止まる。
「あっ、兄さんの名刺……そういえば別にしとったん……!」
名刺の裏を見ると、取り扱い品目の中に機械加工全般の文字が並ぶ。小春が心配そうな顔で私の顔を見ていた。
「心配せんでええ。前にも説明した通り、兄さんとは仕事上の話だけや」
「はい、社長にもその様に言われてますので……」
小春は、彼が私の兄だと言う事を知っており、そして工藤機械工業とは取引をしないように社長から言われており、重々理解はしている。
私は兄の電話番号を押そうと、携帯に手を掛けた。
「いや……ちょっと待てよ……。小春、ちょっと調べてくれへんか?工藤機械工業の調査が先や」
「はい。社長には何と……」
「後でえぇ。私が説明する」
「はい、わかりました」
私は小春からの報告を待つ事にした。




