第3話「朝食と贅沢」
「奏、起きれそうか?」
優しく体を揺すられて、そっと抱き起こされる。
「今、7時なんだけど……学校、何時からだっけ?」
「……ねむい……よぉ……」
「わり……つい、無理させちゃうな……」
え……何で……起き抜けに、こんな普通に抱きしめられてるの……?
「あ……あの……私……ごめ……」
「……ふっ、寝起き可愛いのな」
朝からそんなこと言われて、いっきに目が覚める。
「あ、あの……起きれるから!」
「ん。制服、乾いてるから。着替えたらリビングな」
……そうだった。
結局断れなくて泊まることになって、同じベッドに入って……また、キスされて……
寝れたのは、たぶん4時すぎ。
……なんて生活してるんだろ、私。
もう、自己嫌悪が押し寄せてくる……
顔を洗って、乾かしてもらった制服に袖を通し、リビングへ向かうと……
セナ君はぼんやりと朝の情報番組を眺めていた。
画面には、見慣れた顔。
信さんが、朝の芸能コーナーで元気よくコメントしている。
「……あれ、信さん?」
「んー。最近ずっと金曜レギュラーやってんだよ、あの人」
ソファにもたれたままそう言うと、セナ君はふっと立ち上がり、
「もうちょいでできるから座ってろ」と言って、キッチンへ向かった。
しばらくして、テーブルに並べられたのは、意外とヘルシーな朝ごはん。
ガラスの器には、色とりどりのフルーツとグラノーラが入ったアサイーボウル。
グリーンたっぷりのサラダに、小瓶のレモンドレッシング。
はちみつがかかったギリシャヨーグルトと、温められた全粒粉のパン。
どれも“ちゃんとしてる”感じで、ちょっとだけドキッとした。
「……朝からこんな、すごい……」
「いや、普段はやんない。今日は……お前いるし、一応な」
照れ隠しみたいにそっぽを向くセナ君の寝癖が、まだちょっとだけ残ってる。
そのアンバランスな感じが、胸の奥をくすぐるように愛しくて。
ふたり並んで、「いただきます」と声をそろえて食べ始める。
朝ごはんを一緒に食べるなんて、なんだか不思議で……
でもそれ以上に、幸せだった。
そのとき、テレビから信さんの声が響いてくる。
『あ、そうそう!今日セナの誕生日なんですよ!セナ~観てる~~??おめでと〜!』
信さんが、めちゃくちゃ嬉しそうに話していた。
『プレゼントは現金で受け付けてまーす!』
スタジオには笑いが起き、テロップには大きく「HAPPY BIRTHDAY セナ」の文字。
隣を見ると、セナ君が顔を覆って俯いていた。
「……やめろよ、マジで……」
「ふふっ」
「……あいつ、絶対観てるってわかってて言ってるわ……」
拗ねたみたいにヨーグルトをひと口食べる横顔が、いつもよりちょっと照れて見えた。
「オレさ、午後から仕事なんだけど、夕方には終わるから。お前、明日土曜だろ。今日も来いよ」
「今日は……課題もあるし、テストも近いし……ピアノの練習もしないと」
「ピアノ……か……」
登校の時間が迫って、カバンを肩にかけて玄関へ立つと、セナ君がスッと靴べらを差し出してくれた。
「行ってら。遅れんなよ」
「うん……ありがとう」
見送ってくれるその姿に、妙に名残惜しさを感じながらドアノブに手をかけようとしたそのとき……
背後から、セナ君がドアを押さえてきた。
「奏、忘れ物」
「え?」
振り向いた瞬間……
軽く、キスをされた。
「気をつけてな」
呆然としたまま外に出ると、朝の空気がひんやりと頬をなでていく。
さっきまでいた、あたたかな部屋の匂いが、コートの内側にふわりと残っていた。
ふと、足を止めて、静かに深呼吸をする。
冷静になって考えてみると……
制服のまま朝ごはんを食べて、テレビを一緒に見て、靴まで揃えてもらって見送られて……
し、しかも……あれって……
「いってらっしゃいのキス」……!?
「……これ……セナ君と一緒に暮らしてるみたいじゃん……」
小声でぽつりと呟いた瞬間、顔がじわじわ熱くなっていくのがわかる。
同棲って、こういうことなのかな……
朝起きて、同じ食卓を囲んで、「おはよう」って言ってくれる人がいて、「いってらっしゃい」って送り出される日常。
たった一晩のことなのに、胸の奥に、ぽうっと灯りがともったような、あたたかい何かが残っていた。
制服の裾が風に揺れて……
私はそのまま、駅へ向かって歩き出す。
背中に、まだセナ君の気配が残っている気がして、
何度も振り返りたくなるのを、必死でこらえながら。
『見せたいもんあるから、絶対来いよ』
昼過ぎ、セナ君からLINEが届いた。
課題もあるし、テストも近いし……ピアノの練習だってあるのに。
断る理由なんていくらでもあったはずなのに、足はセナ君の家へと向かっていた。
「上がって。こっち」
玄関で顔を合わせてすぐ、セナ君はいつものように何気なく言うけれど……
その目が、どこかそわそわしているようにも見えた。
案内されるままリビングに入って……私は、一瞬、言葉を失った。
そこには、見慣れたフォルムのキーボードが置かれていた。
88鍵のハンマーアクションタイプ。
私が自室で使っているものと、まったく同じ機種。
ちゃんとスタンドも椅子もセットされていて、まるでそこに置かれることが最初から決まっていたかのように、空間に馴染んでいた。
「えっ……これ……」
「今日、買ってきた」
「……嘘、でしょ……?」
本当に、同じだった。
鍵盤のタッチも、椅子の高さも……すべて、家にあるものと一緒。
「おまえさ、練習あるからって、今日来ないつもりだったろ?
だったら、ここにピアノあれば、もう帰らなくて済むじゃん」
セナ君は、照れる様子もなく。
むしろ「当然だろ」と言わんばかりの顔で、さらっと言ってのけた。
「こんな……お返しできないよ……」
思わずこぼれた私の声に、セナ君は少しだけふっと笑った。
「は?オレの家で、おまえがピアノ弾いてんの聴けるって、これ以上の贅沢なくね?」
言い切るようなその声に、胸がぎゅっとなった。
セナ君にとって、私の音を聴くことが“贅沢”なんて……
そんなふうに思ってくれるなんて。
「なぁ……なんか弾いてよ」
ソファに座ったまま、ぽつりとそう言った。
ちょっと不意打ちだった。
「え……今?」
「うん。せっかく置いたんだし。……オレさ、多分、世界一おまえのピアノのファンだぜ」
足を組み直しながら、見上げてくる視線。
その目が、さっきまでのからかうようなものではないことに気づく。
「……練習中のやつとかでいいから。オレに聴かせて?」
気を抜けば、またソファに押し倒される。
夜になれば、理由をつけて触れてくる。
でも今、目の前のセナ君は、ちゃんと“音楽家・奏”として向き合ってくれている。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
静かに椅子に座り、課題曲の一部を思い出しながら、鍵盤に指を落とす。
音が鳴る。空気が震える。
たったそれだけなのに、セナ君の視線が、どうしようもなく熱を帯びているのを感じる。
弾き終えると、セナ君は何も言わず、でも、じっと私を見ていた。
「……やっぱ、すげぇわ。おまえの音って……なんか、聴いてるだけで安心する」
どこか照れたように、でもまっすぐに伝えてくれたその言葉。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
“好き”だけじゃない。
“私”のすべてを、ちゃんと見てくれている。
それが、たまらなく嬉しかった。
「……このまま、練習してもいいかな?」
「ん」
背中越しにセナ君の視線を感じながら、私は藝大の課題曲に、そっと指を落とした。
繊細な旋律を、少しずつ、確かめるように。
何度も止まりながら、譜面を思い出しては、また弾き直す。
しばらくして、ひと区切りついたタイミングで、ふとセナ君を見ると……
ソファに座るセナ君は、静かに目を閉じていた。