第11話「Prisoner」
ライブ後、決意が興奮に負けないうちに、セナ君にLINEを送る。
きっと打ち上げがあるかもしれない…… 昨年と同じくらいなら、9時過ぎには帰宅するのかな。
セナ君は私が電車に乗るのを嫌がるけれど、私はライブ後の電車が大好き。
さっきまで同じライブを観ていた女の子たちの声が耳に入ってくる。
同じ幸せを共有させてもらった気分になれるから。
思い返せば……私はセナ君にもらってばかりだったな。
たくさんのプレゼントも、知らない感情も……
私があげられるのなんて、曲くらいだから。
どんな結果になっても、今までと関係が変わってしまっても、私の曲はみんなに。
心は、セナ君に届けたいんだ……
「ライブお疲れ様」
時間はもう23時。帰宅したセナ君を出迎える。
あまり近付くと絶対に抱きしめられてしまう気がして。
そうなるときっと冷静に話ができなくなるのがわかっているから、足早にリビングに戻る。
本当は、抱きしめて欲しいのに。
「……今、夏休みだろ?明日まではいるだろ?」
そんな、いきなり話し始めないで欲しい。
心の準備はずっとしてきたつもりなのに、これが最後かもしれないと思うと、心臓が張り裂けてしまいそうな気がした。
「あの……その前に、話したいことがあって。いいかな?」
「どした?」
決心が鈍らない前に、揺らがない前に、話をしないと……
荷物を置いてソファに座るセナ君の正面、床に座る。
なんとなく……隣に座ると距離が近くなりそうで。
昨年の誕生日にもらったハートのキーリングが付いた、この部屋の合鍵をポケットから取り出す。
「昨年もらった合鍵、返そうと思って」
そう言いながら、鍵をキーリングから外す。
「……は?」
「キーリングだけは、思い出にもらっておいてもいいかな?」
「……お前、何言ってんのかわかってんの?」
わかってる。わかってるよ。
こんな……曖昧な関係のままでいたくないんだよ。
「今のままは良くないと思ったの。今後もみんなの曲は作っていけたらとは思っているけど……」
本当は、返したくなんてない。
「受験もあるし、来年までコンペ参加はお預けかも」
泣くな。絶対に泣かない。
「……オレが聞いてんの、そんなことじゃねぇんだけど」
セナ君の顔が、怒っているように見える。
「何?お前、オレと別れたいってこと?」
「え……?」
別れる……?別れるも何も、付き合っていないのに?
「会ってない4カ月で、オレ以上の男でもいた?」
セナ君は何を言っているんだろう。
私にとってセナ君以上の人なんて、いるわけない。
言葉が出なくて、瞬きをするのも忘れて、セナ君を見つめる。
「オレ以外の男の所に行くなんて許さない。 絶対逃さない!
オレがお前手に入れるために、どんだけ我慢してたと思ってんだよ!」
映画のサンプルで観た演技とも違う、セナ君の言葉……
「お前を彼女にできて、付き合えて嬉しかったのはオレだけなのかよ!」
「え……?」
「絶対別れないし、手放してなんかやらない」
「ちょ……セナ君!?」
彼女にできて……?付き合えて?
突然、セナ君はソファから立ち上がり、私の手首を掴んで引っ張る。
そのまま寝室へ。ベッドの上に押し倒される。
「セ……ナ……君」
「こんなんなら、1年前にとっととオレのもんにしとけば良かったわ」
見上げると、セナ君が自分のシャツをゆっくり脱ぎだした。
襟元から覗いた肌が、部屋の灯りをやわらかく照り返す。
その声と動きから、目が離せない。
肌を撫でるような視線。耳に残る低い声。
「他の男になんて、絶対にやらない」
シャツが床に落ちる音だけが、静かに響いた。
「そんな……っ」
……ちがう、そうじゃない。
言いかけた言葉は、塞がれていた。
重なる唇。震える指先。
唇の奥から、彼の鼓動が伝わってくる。
「セナ君……待って」
「待たない。だってお前、オレのこと捨てようとしてんじゃん」
捨てるなんて……そんなこと、あるわけない。
あのとき、セナ君が私を見つけてくれた。
光り輝く景色を見せてくれて、私はまたピアノに向き合えた。
知りたくなかった感情にも、たくさん出会った。
嫉妬、欲望、独占したい気持ち。
全部、全部、セナ君が私に教えてくれた。
捨てられるわけないよ……
「違うよ……私は……セナ君の“ちゃんとした彼女”になりたいんだよ」
縋るように、願うように、気持ちが口からこぼれ落ちる。
言った瞬間、胸が熱くなった。
「キスしたり、抱きしめられたりするの、嬉しかったけど……
軽井沢で『好き』って言われたきりで、この関係が何なのか、わからなくて」
「オレが……お前をどんだけ好きだと思ってんだよ……」
あの時の“ちゃんと好き”が、もし否定されてしまったら。
そう思うと、怖くて返事が聞けなかった。
目が合った瞬間、冷たい指先が頬に触れる。
「……だって……」
「オレが奏のこと、どんな目で見てたか、まだわかんねぇの?」
だって……こんな人が、私を好きになるなんて、想像できなかった。
「……セナ君」
「ってかクリスマスから、彼氏になったつもりでいたんだけど」
「え!?」
「はぁぁぁー……くっそだせぇ」
さっき掴まれた腕に、そっと彼の手が触れる。 宝物みたいに、大切に。
「わり……さっき乱暴にした……痛くない?」
「うん……ちょっと驚いたけど」
唇が重なる。
さっきまでの怒りも、戸惑いも、すべてを溶かすようなキス。
「オレだって……彼氏になりたかったよ。
初めて会ったときから、ずっと、ずーっと、そう思ってた」
低く震える声。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
あの冬の夜、冷たい指先で私の手を止めてくれたこと。
軽井沢で、不器用に「好き」って言ってくれたこと。
ひとつひとつの記憶が、心の奥で静かに光り出す。
「なんでも言えよ……」
私を見つめる目が、切なそうに揺れている。
逃げ場なんて、もうどこにもない。
息が詰まる。
こんなにも真っ直ぐに見つめられたら、嘘なんてつけない。
「奏が……オレの彼女じゃなかったら、オレ、なんなんだよ」
そっと頬に触れる手。
冷たいのに、どうしようもなくあたたかい。
その指先に、今までの時間が全部宿っている気がした。
「オレは……どうやったって、お前を諦められねーんだよ」
震える声が落ちるたび、心の奥で何かがほどけていく。
張り詰めていた糸が切れて、涙が溢れそうになる。
「ごめんなさい……」
嗚咽に変わる寸前の声。
彼の目がわずかに揺れる。
「ごめんじゃなくて、他には? オレは奏が好き。……なんだけど?」
その言葉が、胸にまっすぐ刺さる。
ずっと欲しかった答え。
夢の中で何度も願った言葉が、今、現実の音になって届いた。
いいのかな。
彼女になりたいって、望んでも。
心臓が痛いほど鳴っている。
それでも、ちゃんと伝えなきゃ。
「……私も、セナ君が……好きです」
言った瞬間、世界が静まり返った。
息をするのも忘れるほどの沈黙。
そのあと、ふっと息を吸ったセナ君の瞳が揺れて、
あたたかい光が宿るのが見えた。
怖くて、届くはずがないと思っていたのに。
目の前の彼は、ずっと変わらず私を見てくれていた。
「……オレの彼女になってよ」
その言葉に、視界がにじむ。
涙で滲んだ世界の中、彼の顔だけがはっきり見えた。
光の粒が、ゆっくりと二人の間を漂うように見える。
この瞬間だけは、永遠に続いてほしいと思った。
「……はい」
気づけば、飛びつくように抱きついていた。
セナ君はしっかり受け止めてくれて、苦しいくらい強く、抱きしめてくれた。
その胸の奥で響く鼓動が、私の鼓動と重なる。
まるで名前を呼ばれているみたいに、優しく、確かに。
ようやく同じ場所に辿り着けたんだ。
「我慢してたんだよ、ずっと。
奏が“まだ”だってわかってたから、焦らないようにしてた」
キス。頬に、耳に、唇に…… 逃がさないように、何度も。
彼の手が私の髪を撫で、首筋に触れる。
その熱に、息が詰まりそうになる。
「……脱がすよ。イヤだったら、止めて」
囁かれた声に、心臓が跳ねた。 でも私は、首を横に振らなかった。
……いいよ。そう言う代わりに、そっと頷く。
ゆっくりと、セナ君が私のシャツのボタンを外していく。
一つずつ、丁寧に。 私の視線に気づいたのか、ふっと口元が緩む。
「そんな顔すんな。余計、我慢できなくなる」
ベッドに倒され、見上げる視界に映るのは、上半身を脱いだ彼の身体。 淡いライトの影が、美しく浮かび上がる。
「……触ってみる?」
「えっ……!?」
「……ウソ。今はオレが触りたい」
その言葉とともに、肩にそっと触れられる。
服の上から、優しく、確かに。
「全部、奏のタイミングでいいから」
そう言って、額に優しくキスを落とした。
「好きだよ、奏。……ずっと、オレだけの“彼女”でいて」
夜がゆっくりと更けていく。
部屋の明かりが柔らかく揺れて、カーテンの隙間から月の光がこぼれる。
言葉を交わさなくても、伝わる想いがそこにあった。
セナ君の指が髪を梳き、頬を撫でるたび、
胸の奥があたたかく満たされていく。
触れるたびに、心の距離がなくなっていくのがわかる。
その夜、どんな夢を見たのかは覚えていない。
ただ、彼の腕の中で眠ったことだけを、きっと一生忘れない。
ふと目を覚ますと、カーテン越しの光がまだ薄い。
静かな朝。窓の外から、遠くの鳥の声が聞こえる。
「おはよ」
隣には、微笑むセナ君。
上半身を少し起こし、朝日に照らされて……裸!?
「わっ……!」
自分の状態に気づいて、慌てて布団を被り、少しだけ顔を覗かせて尋ねる。
「……ひょっとして……見た?」
「寝顔、な。他は昨晩じっくり見たし?」
「!!!!意地悪……!」
思わず反対側を向いて、布団に潜りこむ。
……あれ?
ふと右手が、ほんのり重い。
目を向けた瞬間、心臓が止まりそうになった。
……キラキラと輝くリング。右手の薬指に。
「……な、に……これ」
「気に入らなかった?」
後ろから抱きしめられ、振り向く。
声はほとんど息で、震えていた。
「そんなことない!!けど、なんで?」
「別に、意味とかまだないけどさ」
“まだ”ってなに……
「これは普通に誕プレ。こっちは空けとけよ」
左手に指を絡めながら、薬指に唇が触れる。
「うん……」
セナ君の隣で目覚める朝も、これからの未来も、たぶんもう、ひとりじゃない。
そう思った瞬間、頭を撫でるような感触と、小さな囁き声が降ってきた。
「……なに考えてる?」
「え?」
目を開けると、セナ君がニヤニヤしてこちらを見ている。
「にやけてた。絶対なんか考えてたろ?」
「ちがうもんっ!」
「んー……まさか、もうオレの苗字で名前呼ぶ練習とかしてた?」
「名字?諏訪……奏ってこと?」
ニヤけていたセナ君が、みるみる真っ赤に。
「……おまえの……そーいう不意打ち……やばいんだって」
「?セナ君こそ、なにを想像したの?」
そう言うと、セナ君は嬉しそうに笑って私を抱きかかえ……
「オレの彼女は可愛いなって」
「……もう……」
彼はいつもの優しい顔で、ふわっと囁く。
「ちゃんと“彼女”って呼んだからな。逃げんなよ?」
「……うん」
少しだけ照れながら。でも、嬉しくて。
私はその胸に、そっと顔をうずめた。
……ねぇ、セナ君。 何度でも言うよ。
私の気持ちは今もこの先も……きっと、変わらないよ。
薄いカーテンの向こう、朝の光が静かに差し込んでくる。
白いシーツの上に、ふたつの影。
指先には、昨日まではなかった小さなリングが光を受けて、きらりと瞬いた。
その輝きが、まるで“これから”を祝福しているみたいで、胸の奥があたたかく満たされていく。
セナ君の寝息が、そっと隣で重なる。
同じ時間を吸って、同じ空気を吐いて、
こんなにも近くで、朝を迎えたのは初めてだった。




