第7話「愛と呪い」
インターフォンを押す指先が、震えていた。
事前に連絡もせず来たのは初めてで。
来るんじゃなかった……って、今さら思ってしまう。
ひょっとしたらまだお仕事でいないかもしれない。
むしろその方がよかったかもしれない。
そしたらこのまま帰って……
こんな最低な自分を、なかったことにできたのに。
頭の中で、ぐるぐる同じことばかり考えてた。
しばらくして、ドアが開く。
セナ君が、そこに立っていた。
「……奏?」
何も言ってないのに、全部バレた顔をしていた。
「……なんか、泣いた?」
声も、いつもより優しかった。
「ううん」と首を振ろうとしたけど、うまくできなかった。
「入れよ」
手を取られた瞬間、張りつめてたものがまた音を立てて崩れていった。
靴を脱ぐ間もなく、抱きしめられる。
何も言わずに、ただ、ぎゅっと。
「……来たくなったら、いつでも来いよ」
その言葉が、全部を溶かしていった。
私、ほんとにダメなやつだ。
でも、どうしてもこの手を……
離せなかった。
「……っていうかさ、お前、めちゃくちゃ冷えてんじゃん」
そう言って、背中をさする手が止まる。
「指、氷みたい」
セナ君の手が、私の手を包む。
ほんとだ……感覚がほとんどない。
「……ほら、風呂。入ってこい。今すぐ」
「え……だ、大丈夫……」
「いーから。風邪ひくだろ」
あっさり却下された。
「入ってる間に、なんか作っとく。適当でいい?」
「……うん」
頷くと、セナ君はすぐ衣裳部屋から着替えを持ってきてくれた。
「ほら。タオルここな。あ、あと下着は……適当に持ってきた」
ほんとは笑っちゃいけない場面なのに。
こんなに心がぐちゃぐちゃなのに……
なんでだろう、ちょっとだけ笑ってしまった。
「……ありがとう」
かすれた声で、それだけ言った。
セナ君は、
「いいから。入ってこい」
それだけ言って、背中を向けた。
私はそっとドアを閉めて、脱衣所に立ちすくむ。
服を脱いだ瞬間、肌がじんと痺れた。
どれだけ冷えていたんだろう。
湯気の立つお風呂に浸かったとき、ようやく、“泣き疲れた今日”が少しずつ洗い流されていく気がした。
お風呂から上がると、リビングにほんのり出汁の匂いが漂っていた。
「……作れた?」
「たぶん」
「たぶん……?」
ダイニングテーブルの上には、湯気の立った丼がふたつ。
「冷凍うどん、レンチンしてさ。鍋にぶっこんで、めんつゆと卵で煮ただけ。あと、白ごまふっといた」
「白ごま……」
「なんか、それっぽいかなと思って」
「……うん、ありがとう」
見た目は……思ったよりちゃんとしてる。
味は……まあ、想像の範囲内。
でも、それがなんだかすごく、あたたかかった。
「……セナ君、食べるの?」
「うん。……なんか、腹減った」
「……18時以降、食べないって言ってたけど、ちょこちょこ食べてるよね」
「……うん。言ってたけど」
少しだけ視線を逸らして、でも気まずそうでもなく、自然に。
「お前といる時は……まあ、いっかって思っただけ」
「……そっか」
うれしい、って言ったら重いかな。
でも、うれしかった。
「……うどん、美味しかった」
「だろ?味、適当だけどな」
「うん、本当に麺つゆって凄いんだなって……」
「それ、褒めてんの麺つゆのことじゃねーか」
そんな他愛ない会話をしながら、ふたり並んでソファにもたれる。
テレビはついてるけど、音量は小さい。
画面の中の人たちの笑い声が、少し遠く感じた。
セナ君は、何も言わずに自分のカップに口をつけていた。
中身は、白湯。……白湯……やっぱりアイドルって意識高いんだな……
さっきまであんなにバタバタしてたのに、変なことをぼんやりと考えてしまう。
「……なあ、今日、レオのレコーディングだっただろ」
「……うん」
「『Prisoner』よかった。ほんとに」
「ありがとう」
もう、「ありがとう」の言葉もサラッと出てしまう……
でもその次の言葉で、空気が変わった。
「……でも、お前、大丈夫か?」
「……え?」
思わず、聞き返してしまう。
セナ君は、テレビから目を離さずに言った。
「いや……事務所でもちょっと話題になって、“刺さった”とか“エグい”とか、いろいろ」
「うん……」
「俺は、ちょっと……苦しくなった」
やっとこちらを見た目は、どこか曇っていた。
「聴いてるだけで、しんどくなる曲だなって。オレ、明日歌うんだろ……?」
「……うん……ごめん……」
謝ろうとしたら、首を振られた。
「ちげーよ。ごめんってことじゃなくて」
「お前さ、どんな気持ちでこれ、書いたの?」
「…………」
言葉が出なかった。
たぶん、今さら全部を説明することはできない。
「……無理しなくていいけど。
ただ、ちゃんと……お前の曲、聴いてるよ。オレは」
まるで、それだけを伝えるために今日を待ってたみたいに。
私は、カップの中の白湯を見つめながら、その言葉を、ゆっくりと飲み込んだ。
翌日、セナ君のレコーディング。
スタジオに入ってから、彼はずっと黙っていた。
ウォームアップのボーカルも短くて、モニター越しに見える表情は、どこかいつもと違っていた。
「じゃあ、Aメロから通していこうか」
小暮さんの声に、セナ君は短く「はい」とだけ答える。
ヘッドホンをつけて立つ、その背中。
そこには、もう何の迷いもなかった。
伴奏が流れた瞬間……空気が変わる。
……声が、刺さった。
どこまでも真っ直ぐで、どこまでも熱くて。
なのに決して、怒鳴ったりしない。
ただ、感情だけが静かに音に宿っていた。
静かに。だけど確実に……胸を撃つ声だった。
「“誰にも渡したくない”の“い”で、少しだけ息を乗せて。感情が滲むとこだから」
「……了解です」
それ以外に、修正の必要はなかった。
誰よりも早く、誰よりも深く、この曲に踏み込んでいた。
モニター越しに見る彼の目は、真っ直ぐで。
まるで、誰かに“答えを返す”ような……そんな目だった。
演技なんかじゃない。
その声は、まるで本物の恋の証明だった。
私は、ただ座って聴いているだけなのに。
胸の奥が、ぐらぐらと揺れ続けていた。
曲が終わっても、誰もすぐには口を開かなかった。
「……OK。文句なし。めちゃくちゃいい」
小暮さんの言葉に、セナ君は静かに「ありがとうございます」と一礼する。
拍手が起きたなかで、私は小さく息を吸って、吐いた。
……もう、このままじゃダメだ。
怜央さんを傷つけたまま、
セナ君との関係も、はっきりさせないままで。
逃げてるのは、全部、私だった。
こんな曖昧な関係を続けているのは、私がいちばん卑怯だ。
ちゃんと、言葉にしなきゃ。
もう一度だけ、ちゃんと向き合いたい。
……あの夜、セナ君が言っていた。
「ちゃんと、お前の曲、聴いてるよ」
……あれは、こういうことだったんだ。
誰よりもまっすぐに。
誰よりも、私の感情を拾い上げてくれて。
誰よりも、それを抱えて……歌にしてくれた。
ひょっとしたら、もう抱きしめてもらえないかもしれない。
私に、微笑んでくれなくなるかもしれない。
でも、それでも。
このままではいられない。
私も、ちゃんと答えを出さなきゃ。
誰のためにこの曲を書いたのか。
誰に、心が向いているのか。
セナ君の歌が、それを……
まっすぐ突きつけてきた。




