雨降って、死、あつめる
「凄い雨だなあ、これは」
達夫は夏のまだ夕方5時だというのにあまりにも暗くなった空をジッと見つめていた。
「お父さん、これは俗に言う【ゲリラ豪雨】ですよ。雷も光っていますし。でも、大丈夫ですかね?翔太は?」
圭子は達夫と違って地面で勢いよく跳ね返ってくる雨粒を見ていた。
「なあ、圭子、一応翔太に携帯鳴らしてくれないか?さすがにこの雨は。それに、今日初めてあの車を運転したんだから」
達夫は圭子に振り向くと、圭子も不安げな顔をして、コクリと頷いた。
その時、突然店の固定電話が鳴った。
この音で二人とも驚いて体がビクッと跳ねた。一瞬、意味もなく圭子は立ち止まって躊躇したが恐る恐る受話器をゆっくり取った。
「大山モータースさんでしょうか?」
圭子が答える前に先に相手から声が出てきた。
「あ、はい、そうです……が、どちら様で?」
圭子は少し不安げな声で答えた。
「私、警察の者ですが。大山翔太さんの件で」
「え、警察?翔太?」
圭子は大きな声で達夫を見た。もちろん、圭子の声で真っ黒な空を見詰めていた達夫も警察と聞き、びっくりして圭子を振り向き見つめた。
「あ、あの、うちの翔太が?」
急いで達夫も圭子の傍に近づいた。
「お宅のお子さんの大山翔太さんで間違いないでしょうか?」
「は、はい、翔太はうちの息子ですが」
圭子はこれ以上怖くなって、受話器を達夫に渡した。達夫も圭子の雰囲気を感じて受話器を一瞬受け取ることに躊躇ってしまった。
「あ、私、翔太の父親です。何かあったのでしょうか?」
「お父さんですか?大変言い難いのですが、翔太さんが事故を起こしまして、今、上中病院へ搬送されています。すぐに来ていただけないでしょうか?」
「ええ!翔太が事故!」
達夫は大きな声で圭子を見詰めると、圭子はその言葉を聞いて放心状態になっていた。
「もしもし、お父さん?聞こえますか?翔太さんが、余り状態が良くないので直ぐに上中病院、あの大きな病院なのでよろしくお願いいたします。私、事故係の森といいます。よろしくお願いいたします。」
「あ、ああ……家内と一緒に……行きます……」
とは答えたが、自分自身も放心状態にあることに気が付いていた。
「あ、お父さん……お父さん、とりあえず行きましょう」
「あ、ああ……。」
正気に戻っていた圭子の声を聞き、達夫は圭子と共にすぐに車を走らせた。
病院に着き受付で話すと直ぐに救急救命室を教えてくれた。そこには制服姿の警察官2名が待っていた。我々の姿を見つけると、
「あのう、大山さんですか?私、先ほど電話をした森です。」
「どうも、すいません。で、息子は?どんな事故で?」
達夫の不安な顔見て、もうひとりの警察官と顔を合わせると言い難そうに、
「今処置をしているのですが昏睡状態のようで意識がありません。具体的には医者から説明があると思うのですが、肺に水が入っていて、つまり、水死状態のようになっています」
警察官同士で顔を合わせ不思議そうな顔をしていた。
「水死状態?どういう事故なんでしょう?車で川や海にでも落ちたのですか?」
圭子も食い入るように警察官に寄って行った。
「いえ、一般道で……ええ、事故は、ガードレールに左前をぶつけた様で、でも、決して大きい当たりではないのです……が、それが……」
言葉の言い方がはっきりせず、奥歯に何かが引っ掛かった感じがして思わず、
「一般道で水死状態?どういうことですか!はっきりと言ってもらえませんか?」
達夫は声を大きくしてしまった。圭子はその大声を聴き、すぐに達夫の服を引っ張った。
「ええ、まだ事故検証をしている途中ですが、想像ですが、事故でフロントガラスが割れ、このゲリラ豪雨により大量の雨水が意識を失った口から入り、水死状態になったのでは、と。あまり、ありえないような感じなんですが……たまたま後続車が気付いて通報してくれたので、という事なんです」
「雨水で水死状態?」
達夫は目を丸くして思わず声を上げてしまった。
「それと、不思議なんですが……」
更に、二人の警察官は、お互いに一瞬、言葉を詰まらせて顔を見合わせ、
「つい、この前も同じ所、そのガードレールに当たり二人が同じように水死のような状態で亡くなっているんですよ。その場所で事故した車は、いつも似たような車なんですよ。どういう訳か……」
不思議そうに言った。
「いつもと同じガードレール?そして、似たような車?」
達夫も圭子も納得と理解がまだできていなかった。
その時、処置室から医者が出て来た。
「大山翔太さんのご両親ですか?今、処置をしているのですが、正直危険な状態です。まずはICUに入って様子を見ようと思います。今のところはこれしか……最善は尽くしますので」
そういうとすぐにまた戻って入って行った。
「今医師から聞いた通りです。まだ事故検分が終わっていないので我々も現場に行きます。ただ、ブレーキ痕が見当たりませんでしたので、もしかしたら居眠り、あるいはブレーキに問題?いずれも状況が分かると説明させていただきます。先ずは翔太さんが回復することを願います。それでは」
2名の警察官はさっさと病院を出て行った。
「ねえ、お父さん!翔太が居眠りなんて考えられないわ!そうでしょ?」
圭子は達夫の腕を引っ張りながら涙を浮かべ叫んだ。
「そ、そうだな、翔太が居眠りだなんて……」
その時、圭子が思い出したように、
「ブレーキ?そう、あの車、問題があったんじゃないですか?だって、あの怪しい営業マンみたいな人から買った車でしょ?だって妙に安かったじゃないですか!ねえ、そうじゃないですか!」
圭子は責めるように達夫を睨んでいた。
「何を言うんだ!俺は整備士だぞ!プロだぞ!ハンドル、タイヤ、ブレーキ全て確認している!」
「だって、警察がブレーキの可能性も」
「いえ、ブレーキの故障ではありません!」
突然、横からスーツ姿の男が現れて声を出した。
「あ!あなたは!」
達夫と恵子は驚きながら同時に声を上げた。
「いつの間に!お前から買った車のおかげで、うちの翔太が!」
達夫はいきなり男の胸ぐらをつかんだ。達夫もどこかで怪しんでいたようだった。
「ちょっと待ってください!私が売った車に問題はありませんよ、それに大山さん自身点検して問題は無かったんでしょ?」
男は達夫の手を振りほどこうとしていた。圭子も達夫の手を引っ張っていた。
「た、確かに…問題は無かった…申し訳ない。気が動転して」
達夫は手を離した。男はスーツの襟を整え小さく咳払いをして話を続けた。
「いえ、大丈夫です。でも、この車を売った時に説明はしましたよ。幸せの件と併せて」
「ちょっと、何それ!ねえ、お父さん、どういう事?翔太を殺してそれで幸せになるつもりなの!」
圭子の目は吊り上がってきて、今度は達夫の胸ぐらを掴みだした。
「違う!話が違うぞ!俺は息子を死なせてまで幸せなんて望んでないぞ!お前、噓を言うな!」
胸ぐらを掴まれたままで、達夫は男を睨んで叫んだ。
「奥さんも、まずは落ち着いて最後まで話を聞いてください。」
「落ち着ける訳ないだろ!息子が死にかけてるんだぞ!」
男は達夫と圭子の肩を軽く叩くと、不思議と二人とも静かになった。
「息子さんを助けることができます!私には方法があります!」
男はキッパリと言い切った。男の顔には自信がみなぎっていた。
「お父さん、この人は何なの?大体、あなたたちはどういう話をしていたのよ!」
圭子には全く理解ができていなかった。圭子には二人ともに不審なままでしかなかった。
「実は」
達夫は男と一度、目を合わせて話を始めた。
「ひと月ほど前に店にこの男があの車に乗って来て、この車を買ってくれないかって話だっただろう?お前も見ていただろ?」
圭子は、確かに、と頷いた。
「でも、話はお父さんとの話でしょ?あとの事は、私は知らないわ」
圭子はチラッと男の方を見た。
「ああ、それを説明する。あの車は市場でだと150万はする車だ。でも、この男は10万でいいと言ったんだよ。もちろん怪しいと思ったよ。事故車と思ったが見たところ、軽い凹みはあったが大きい事故っぽい所も見当たらなかった。」
達夫はそう言うとその男を見た。すると、男も大きく頷いていた。
「それに翔太が免許を取って車が欲しいって言っていただろ?だったら、親なら何とかしてやりたいじゃないか!でも、実際には経営も悪く博打の借金もあるし、店兼住宅のローンも残っているし」
達夫は少し俯きながら声のトーンが下がっていた。家計の状態は圭子も理解していただけに、達夫の説明に何とも言えない気持ちだった。ただ、博打については自業自得だとも思っていた。
「そんな時、この車が来たんだよ。翔太には良い車だと思ったんだ!ただ、この車には問題があったんだよ……」
達夫は言い難くなり、男の方へ眼をやった。すると男は頷くと、その続きを始めた。
「奥さん、この車はある種事故車になります。もちろん、大山さんにも説明をしました。ただ、事故車と言いましたが、車内で亡くなった訳ではありません。この車に関した人が亡くなったのです。」
「どういうことですか?」
圭子も意味が分からず、ただ、その男の顔を見詰めた。
「今日のような強い雨の日でした。前の持ち主だった二人は軽い事故を起こし、この車の外に出たところ、後続車に跳ねられました。後続車はそのまま逃走。その時、二人は跳ねられて意識を失っていましたが死んではいませんでした。しかし、意識を失ったままで雨水が口から入り、結局は水死状態で亡くなりました。」
男は圭子を見詰めて何度も小刻みに頷いていた。
「でも、車に問題はありません。それに、大山さんに理解していただいたのは、この後に必ず【幸せ】が来る、という事なんです!この車は【幸せ】を呼ぶ車なんです!」
「いい加減にして下さい!何が幸せよ!翔太は死にかけてるのよ!お父さん、あなた、何考えているのよ!幸せなんていらない!翔太を返してよ!」
圭子は半狂乱になって男に掴みかかった。男はすぐに逆に圭子の両肩を掴み、
「信じて下さい!ある種の事をクリアすれば確実に翔太君は助かり、その後に大きな幸せが来ます!信じて!私には分るんです!」
男は必死に圭子の目をじっと見つめていた。
「俺は元々『いわく』なんて信じていなかったし……なあ、そのある種の事ってなんだよ。あの時具体的には言わなかったよな」
達夫はポツリと声を出した。
「お父さん、こんな話を信じて車を買ったの?おかしくなかったの?」
圭子に言われ、自分でも、その時の事がよくわからなかった。
「確かに、こんな話を信じる方が可笑しいと思うが、あの時はどういう訳か何故か信じたんだよ、ずっと幸せを求めていたんだよ……今考えると不思議だが」
達夫自身、一番不思議だった。しかし、今、達夫が一番不思議だったこと、それは!
「大体、あんた、何でここに来たんだよ!どうしてここって分かったんだよ!もしかして、お前、やっぱり、あの車に何か仕掛けたのか!」
不思議でしかなかったからだ。もちろん、圭子も同じでキッと男を睨んでいた。
「分かりました。その説明の為に、ここに来たんです!先ずは聞いて下さい。」
男は二人を交互に見ながら話を始めた。
「ここが分かった理由、それは私が生きた人間ではないからです。」
「ふざけるな!息子が死にかけているんだ!もしかしたらお前のせいかもしれない!そういう中でお前は!」
達夫はふざけていると思いながらも我慢をこらえて拳がブルブルと震えていた。
「いえ冗談ではありません。基本的に生きている人は私が見えないはずです。だって、警察がいた時、そして、医者がいた時も私はずっと大山さんの後ろに立っていたんですから。」
達夫と圭子はお互い目を見て呆れたように頭を傾げた。男は直ぐに何をか言わんやと思い、
「その証拠に携帯のカメラで私を見て下さい。そこに私は写っていますか?確認してください」
真面目な顔で言った。
達夫は嫌々ながら携帯を取り出しカメラで男を映してみた。すると、
「え?」
達夫は一言声を出すとカメラレンズと男を交互に見ていた。
「写っていない……、レンズ越しでは見えない……。」
それを聞いた圭子もすぐに横から達夫の携帯を覗いた。
「あ、写ってない……どうして……あなた、いったい何者?」
二人の反応を見て男はようやく安心したようだった。
「今は生霊となっています。ただ、あなたたちには肉眼で見えるし、私に触れることもできる。」
「お前は生霊の死神なのか!だから、俺を騙して車を使い翔太を連れて行くつもりなんだな!」
達夫の言葉を聞いて男は慌てて直ぐに反論した。
「いや、違います!私は生霊であり、死神ではありません!私と大山さん達の幸せの為に来たんです!」
「私の……幸せ?」
圭子はポツリを言った。それを聞いた男はそれを遮るように、
「私の事は後で。それより大山さんの幸せ、いわば翔太君の回復ですよね!」
男は二人の顔を見ながら大きく頷いていた。
「そ、そうよ!まずは翔太の事よ!」
「そうだな、まずは翔太の事だな。中々、子供が長年出来ない中でようやく授かった息子だ!俺の命と取り替えてもいいんだ!だから、頼む!」
達夫は心底そう言うと懇願するように男に頭を下げた。
「大山さん、大丈夫です。翔太君は助かります。その方法を説明します。」
レンズ越しでは見えない、でも、触れることが出来る不思議な存在を目の当たりにした二人は、例えこの男が死神であっても翔太を助けるのなら、と信じて大きく頷いた。
「では、これをどうぞ」
そう言うと男が達夫に渡した。
「え、これって車検証じゃあないですか?確か、車に入れて置いたはずだが……」
達夫は不思議そうに手に取って見つめていたのは普通の『車検証』だった。
「いえ、違います。確かに似ていますが中を見て下さい」
そう言われて中を見ると、
「え、何ですか、これ?あ!車検証じゃなく【死者検証】と記載されてますが、どういう事?」
達夫はジッと男を見た。
「説明をします。先ず、この死者検証の下に5つ枠があります。今はそこに2つ押印がしてあります。」
「この押印の意味は?」
圭子は気味悪がるように言うと、男は、
「死んだ数です。つまり、この車に関した方が今は2名……つまり前の持ち主が亡くなったという事になります。」
「ちょっと待ってくれ、この枠は5つ……で残りはあと3つ……5つ押印が済むとどういう事が……」
達夫は恐ろしくなり男に顔を向けた。男は一瞬、ニヤッとし、
「その通り5つ埋まると幸せがやって来ます!もちろん、翔太君も助かります。ただ、もし、先に翔太君が亡くなれば1つ押印になり、残りが2つになります。」
達夫の顔に近づいた。達夫は逆に顔を引いて声を震わせながら、
「じ、じゃあ、ど、どうすればいい?」
息が少し切れかけているように聞こえた。
「翔太君が死ぬ前に、事を起こします!直ぐに!」
男は拳を握って二人の前に突き出した。
「どうやって?」
圭子は食い入るように男に近づいて言った。
「今回の事故では、事件ではなく単独の事故で、尚且つブレーキにも問題もない。ですので検分が終われば単なる不注意事故で車は返してくれます。そこで、やることはまず車を直ぐに修理し、車の色も変えて下さい。」
「え、色も変える必要が?」
「必ず必要になります!」
男はキッパリと言い切ったため、達夫は渋々頷いた。
「そして、誰でも構わない他人の3人に、この車を使わせることが必要です」
「他人の3人?」
「そう、翔太君を助けたいなら、これも一つの方法ですよ。しかも、大山さんは既に車の売買契約も済んでいますから」
「え?車の契約はしたが、こんな人が死ぬ契約なんて……俺には……。」
そう呟くと達夫は全身が震えていた。
「お父さん、やりましょう!翔太の為ですよ、翔太を死なせていいの?」
圭子は達夫にしがみ付いて懇願した。
「う、うん……、でもな、誰かの犠牲の上で……」
達夫は躊躇っていた。
「何言っているのよ!どれだけ子供が欲しいと願っていたじゃないですか!ようやく授かった子供なのよ、翔太は!私たちの宝なのよ!」
圭子の目は真っ赤になって達夫を見詰めていた。達夫もこの言葉に踏ん切りがついた。
「そうだな、確かに俺たちの宝だよな、翔太は!よし、やろう!」
その言葉を聞き、男は大きく頷いた。
「それが正解です。もし、あの契約を破棄したなら、残念ですが翔太君は助からず直ぐに死ぬ事になるところでしたよ。よかったです。他人の事など気にせずに自分ファーストでないと幸せは来ません!」
男は達夫と圭子の手を軽く握り頷いた。
「では、大山さん、3人のターゲットの目ぼしいのはありますか?」
達夫は目をつぶって考えていた。すると、圭子が思い出したように達夫の肩を軽く叩き、
「お父さん、いるわ!先週、車検で来た山口さん!」
達夫は急に目を見開き圭子を見ると、
「そうだ!確かに山口さんがそうだ!夫婦とその奥さんのお母さんの3人でお母さんの田舎に帰る為に、急ぎで車検を通したんだ。明後日夕方には車を取りに来る。」
「なるほど、ちょうどいいターゲットがいますね」
男はニヤッとすると、
「じゃあ、明後日に取りに来た時、『車検は間に合いませんでした、でも、申し訳ありませんので代わりにこの車を無償で貸します』というのはどうですか?」
提案をすると、達夫も圭子も笑顔で頷いた。
「ただ、1日で塗装を変えるのも難しいし、車の破損が少し気になるなあ。明後日夕方には貸そうとするには明後日昼には全てを終わらせないと。でも、警察官も言っていたフロントガラスの替えも手に入らないのでは……」
一瞬顔が曇った。が、男は笑顔になっていた。
「全然大丈夫です!私が明日、手配しますから心配せずに」
「え?そんな手配もできるんですか?」
「私は何でもできますから、だって私にも幸せが……あ、いや、大山さんが幸せになるには、ですね」
一瞬男の目が泳いだのを圭子はジッと見ていた。
「では、明後日に私も大山さんの工場に行きますので、塗装と車修理よろしくお願いいたします。」
「ああ、では、明後日に……?え?」
頭を下げて顔を上げた、そう言った瞬間、男の姿が消えていた。達夫も圭子も周りを見たが何処にもいなかった。
「夢……なのか?これは?」
「いいえ、お父さん、私も見ていたんですから夢ではないですよ。だから翔太は助かるんですよ、これで!」
ただ、真っ白い病院の廊下でただ二人は顔を見合わせて手を握り立っていた。
「どうですか?車は?」
「あ、どうも。フロントガラス、助かりました。左前の凹みも奇麗になったでしょ、事故車には見えないでしょ、車の色も変わったでしょ?必死でやりましたよ。」
達夫は凹みを直したボディを手で軽く触って見せた。男は黙って満足そうに頷いた。
「では、そろそろ山口さんも来ることでしょう」
「ええ。18時頃には車を取りに来ます。一応、代車の件は伝えています。」
その時工場の電話が鳴った。すぐに圭子が電話を取りに行った。
「多分、車を取りに来る連絡でしょう。」
達夫は普段通りに言った。
その時、電話で話していた圭子の驚いたような大きな声が聞こえた。その声を聞き達夫は不安になり圭子を見詰めていた。しばらくすると圭子が戻ってきた。
「どうした?山口さんから何かあったか?」
圭子の顔を覗くように見た。
「い、いや、何もありません。予定通り、山口さん一人で車を取りに来ます。」
男は驚いて達夫に尋ねた。
「三人では?一人で取りに?」
「ええ。山口さん一人で車を引き取り、奥さんと奥さんのお母さんを迎えに家に行って、その後、田舎に向かう予定なんですよ。」
「なるほど、そういう段取りだったんですね。」
男はそう言うとホッとして、再度圭子をチラッと見た。圭子も男と目が合った。が、圭子はソソクサと工場の奥へ入って行った。
しばらくして30代前半のサラリーマン風の男がスッと傘をたたみ入って来た。
「ああ、どうも、山口さん。今回車検が間に合わず申し訳ありませんでした。昨日お電話をした」
達夫は横にある車を指さした。
「代わりのこの車を使って下さい。」
「ああ、結構いい車ですね。これを使っていいんですか?」
山口は結構気に入った様子で外観や内装をジックリと見ていた。
「ええ、どうぞ。車検が出来なかったのは私の責任なんで。代車費用はサービスにしておきますので」
達夫はニッコリとしていた。
「助かります。明後日には返しに来ますので。」
「いえいえ、もう全然気にしないでください。なんでしたらズッと使って貰ってもいいですよ」
達夫は嬉しそうに山口のすぐ横に立っている男に顔を向けて頷いた。
一瞬、山口が自分の顔を見るのではなく自分の横に顔を向けたので誰かいるのかと振り向いたが、そこには誰も見えていなかった。山口も頭を傾げたが、その後には特に気にしなかった。
達夫は男に目を向けたことは余計だったな、と思ったが、同時に、この男はやはり我々にしか見えないんだと確信した。つまり、この男は普通の人間ではない、だからこそ、翔太を助けることが出来るんだと。今の我々にとっては人間だろうが化け物だろうが、翔太を助けてくるのならどんな事もする!達夫は強い意思を持っていた。
「では、鍵をお渡しします。今日も強い雨ですので気を付けて、どうぞご安全に!」
「では、お借りします。」
山口も丁寧に頭を下げると車を発進した。達夫は雨が降っている道路まで出ると車が見えなくなるまで見ていた。
「さあ、どうすればいい?」
横にいる男に声を掛けた。
「まずは事故のする場所へ行きましょう」
「え、それは決まってるの?どこ?もしかして……?」
男は達夫を見詰めて、
「そう、翔太君が事故をした場所になります」
黙って頷いていた。
「え?やっぱり、そこが……」
「ええ、この車はこの場所で事故るんですよ、いつも。そして、今日も雨ですよねえ」
男の顔に表情が見えなかった。達夫は初めて気味が悪く感じてしまった。が、翔太の為に、そう自分に言い聞かせた。
「あ、でも、あの場所だと山口さんの田舎には通らないんじゃないかな?」
「あ、大丈夫です。多分、その人もナビを使うと思います。あのナビは自動的に事故現場にうまく誘導しますから。」
「え?もしかしたら翔太も誘導……」
急に男はハッとして達夫を見た。
「あ、で、でも、翔太君はこれで助かりますから。」
達夫は一瞬、納得できない気持ちもあったが、現状を理解するようにした。結果、助かり、そして、幸せになれば……そんな気持ちに切り替えた。
「じゃ、じゃあ、事故をする所へ行きましょうか?」
「そうですね。あれ、奥さんは?」
言われてみれば圭子が見えなかった。
「おーい、圭子。行くぞ、どうした?」
達夫は部屋の奥に声を掛けた。すると、
「あ、ごめんなさい、ちょっと探し物があって、でも、見つかったので!さあ、行きましょう!」
「何を探していた?」
「いや、大した事じゃなくて。それより、山口さんの件よね。」
横に立っていた男は、圭子が話を変えたように思えた。
「そうだな、山口さんには申し訳ないが、やはり、人の事なんて考えられないよ、翔太が助かればいい!たとえ、山口一家が犠牲になっても!」
達夫はそう言うと自分の車に向かって行った。男も後ろをついて行った。圭子も少し遅れて微かに笑みを浮かべ車に乗り込んだ
「この場所でいいのか?」
達夫は周りを見ながら助手席の男に尋ねた。
「ここで大丈夫です。この場所だと事故がよく見えますね」
「そうだな……翔太が事故った所だな……」
達夫の言葉を聞いて後部座席から圭子も事故現場を見詰めていた。
「雨が結構きつくなっているなあ。周りも暗くなっている……」
車内でも雨粒が当たる音が響いていた。
達夫はハンドルに腕を置き、フロントガラス越しに暗い空を見ていた。
「そろそろ、あと10分で事故が起きます」
静かに男が言うと、
「どうして分かるのですか?」
圭子が不思議そうに言うと、
「私には分かります。何もかも……全てが!」
男が後ろを振り返り意味深に圭子をジッと見た。
「あ、そうですか」
圭子はすぐに雨の降る景色に目を向けた。
すると、雨が降りしきる暗い道にライトが見えた。
「あれが……山口一家の車……。」
達夫はポツリと呟いた。
「あそこのガードレールに当たり衝撃でフロントガラスが割れ、そして、雨水が横から車内に降り込み、暫くして肺に水がたまり、俗に言う水死に近い状態で死にます。」
男は淡々と説明を続けた。
「事故が起きると、まず、私たちがすぐ事故車の後ろに着けてハザードを点けて止まって下さい。そして、事故車のヘッドライトを消して下さい。その時」
急に男は達夫の顔をジッと見つめ、
「中の人間が苦しんでいても決して見ないで、決して声を聞かないで下さい!」
脅すような声で話した。
「わ、分かりまし……た。で、でも、なぜ?」
「大山さん、あなたは優しいかもしれませんので。翔太さんを助けるためだけを考えて下さい。あの人たちが助かると翔太さんは助からないですよ。」
今度は、男は妙な笑顔で達夫を見詰めた。達夫はもう何も言わなかった。ただ、前をジッと事故を起こすのを待っていた。すると、車が前のガードレールに当たった音がした。ただ、達夫が聞いた音はあまりにも小さいような気がした。
「た、大したような事故ではないですね……これで大丈夫ですか?」
達夫は不安になって男を見たが全く余裕の笑顔で、
「全然問題はありません。事故の衝撃の大きさは問題ではなく、その場所で事故をする事に意味があるので。さあ、行きましょう!」
男の声で達夫は直ぐに車を走らせ事故した車の後ろに止まりハザードを点けた。そして、雨降る中、車を降り、山口さんの車へ行くとヘッドライトを消しにドアを開けた。奇麗にフロントガラスが割れた薄暗い車内にはどういう訳か真横から、かなりの雨が降り込んでいた。
車内に微かな声は聞こえたが、車のボンネットを叩く雨の音でハッキリとは聞こえなかったのがせめて、だった。
達夫は逃げるようにサッと、ボトボトになった体で車に戻ってきた。
「こ、これで、い、いい……ですか?」
達夫の声はかなり震えて聞こえ難い状態だった。
「ええ、大丈夫です。ご苦労さんでした。嫌な声は聞こえましたか?」
達夫は何も言わず首を振った。
「では」
そう言うとあの【死者検証】を取り出して開けた。
「こ、これは」
達夫の質問に男は大きく頷いた。
「下の枠には今は二つ押印があります。おそらくあと10分もすれば亡くなるでしょう。この押印の枠を見ていてください。」
男は静かに達夫と圭子に見えるように見せていた。すると、順に一つ、一つと押印が増えた。
「あと、一つですね」
そう言うと圭子をジッと見つめた。圭子は、ただ無表情に死者検証を見詰めていた。
しかし、何分経ってもあと一つが増えなかった。いつしか、雨が止んで静かになっていた。
「おかしい!どうしたんだ!」
達夫はイライラとして、ついに車を飛び出し事故車に向かった。男も圭子も車を出て達夫の方へゆっくりと行った。
「どういう事だ!あと一人は!あ!二人しかいないじゃないか!」
今度は、達夫は車内を隈なく見て叫んだ。
「奥さん、分かります?」
男は意味有り気な顔で問うと、雨がすっかり上がった道路で小さく頷いた。そして、圭子はカバンから何かを取り出して、
「お父さん」
圭子が言うと達夫は振り向いて顔を上げた。その時、いきなり鉄の棒のようなもので達夫の額を思い切り叩いた。おおきな鈍い音が響いた。達夫は声を出す間も無くその場で崩れて落ちた。圭子の手には大きな鉄のレンチがあった。
男は眉も動かさず、
「これでいいんですか?」
一言、言った。
「ええ、これが最良な方法だと思ったんです。お父さんには悪いけど。」
圭子に悲しみの感情は見えなかった。
「いつ、思いついたんですか?昨日はあなたの頭の中にはこんな事は無かったはずですが。まあ、ここに来るときには、私には全てが分かっていましたが」
少し俯き、
「さっきです。そう、さっき工場を出る前に考えました。」
スッと、顔を上げた。そして、続きを話した。
「工場を出る前に電話がありました。山口さんでした。私が田舎行きの件を尋ねると山口さんから、今回はお母さんの認知症でひどくなり田舎に行く前に病院へ入れたあと、夫婦だけで行きます、との事でした。」
男は静かに圭子を見ていた。
「困りました。だって、3人じゃないと翔太は助からないんでしょ?翔太の時間を考えると今更変更はできない、その時に思い付いたんです!何もかもが全て幸せになる方法を!」
圭子は嬉しそうに男に話す、いや、聞いて欲しいような感じだった。
「まず、お父さんを含む3人の死で枠は埋まり翔太は助かる!そして、大きいのはお父さんが死ぬ事で町工場兼家のローンが完済する事!」
圭子は飛び上がるほどに喜んでいた。男はその様子を見て軽く首を振った。
「私が言うものどうかと思いますが、奥さん、あなたはかなりひどい人ですね。まあ、私には関係はないのですが。これで私も助かるのですが」
圭子の表情に変化はなかった。
「自分ファーストですから。それより、あなたが助かったと言ったのは何?だって、私たちの幸せなんてどうでもいいんでしょ?ほんとは!それよりも自分が助かるんでしょ?それは」
男は圭子に見透かされたように頭を少し掻いた。
「流石ですね。言いますよ。本当は誰でもよく、単に5人の魂が必要なんです。この死者検証の押印が埋まれば私は復活できるからです」
「復活……とは?」
「私は、2年前、そう今日のような大雨の日、この場所で、あの車で事故を起こしたんです。その時、もし、誰かがこの事故に気づいてくれたら助かったのですが……。誰も通らず、私が助かるよう車外に出たところで意識を失い、その雨で口から水が入り水死状態で今の翔太君のように昏睡状態になりました。」
「2年間も……だから、山口さんも、翔太にも、前の二人にも口に水が。」
「ええ、皆、できるなら私のように水で苦しんで欲しくて。ただ、絶対、水死である事ではないです、大山さんのようにどんな死でも死ねば大丈夫ですから。ただ、私の希望ですから」
男はワクワクするような弾んだ声だった。
「でも、どうしてそんな事ができるようになったんですか?」
「それは私にもよく分かりません。ただ、意識の中で『生きたい!生きたい!』と望んでいたら、突然そこから離れて気が付いてみれば、この【死者検証】を手に持っていました。あとは、その中に書いてあるようにしました。」
「なるほど。では、これであなたは2年ぶりに目覚めるんですね。退院した後、もし、お会いできたなら最高の食事に誘いたいですよ。だって、こんな幸せな方法を教えてくれたんですもの!」
圭子は満面の笑みを浮かべていた。
「いえ、おそらくこの件の全てが終われば、お互い記憶が無いような気がします。だから、退院して、もし、大山さんの奥さんに会ったとしても分からない、奥さんも分からないと思います。」
「そうですか……残念です……。仕方がありませんね」
圭子はキッパリと言い切った。
「大抵の生きている方々は私が見えませんでした。でも、大山さんは工場の前で私を見たんです。絶対に見えない私が!大山さんは【煩悩の犬】のように私には見えました。だから、私は取引を持ち掛けることが出来たのです。」
「なるほど仏教でいう【煩悩の犬】ですか……。そうかもしれませんね。お父さんもいつも金が欲しい、仕事が欲しい、良い生活がしたい、など欲が必要以上に切りが無かったですから。常に言っていたし、こうなっていたのかもしれませんね」
圭子の言葉を聞き、男は一瞬、首を傾げた。圭子には良心の呵責もなかった。男は、それより気になることが出てきた。
「大山さんの死が山口さん達と違っていて、このままでは不自然に死んでいるように見えます。下手をすれば、誰かが殴って、殺人事件……なんて事になり大ごとになりませんか?」
そう圭子に尋ねた。
男にそう言われ、少し、俯いていたが、急に顔を上げると、スタスタと達夫の傍に行き、死んだ達夫の額を車のボンネットに凹むほど強くぶつけた。鈍い大きな音が響いた。
「翔太の事故現場にお父さんが来て、そこを山口さんが、雨が良く見えず間違って跳ねてしまった!ほら、ボンネットの凹んだ所にも血が着いていますし。そして、私が達夫を探しに、ここに来て事故を見つけた、というのはどうですか?」
男は呆れてしまった。が、頷くしかなかった。
「確かに、これで話はできますね。やはり、【煩悩の犬】は大山さんではなく、あなたが【煩悩の犬】であって、私は、どうも、あなたがいたから見えていたのかもしれませんね。」
これを聞き、圭子は、フッと笑った。
「ところで、」
圭子は話を切り替えた。1点不安があったからだ。
「この車ですが、二日前にもこの車が事故を……この車から足がついて」
そういう圭子の、その不安な言葉を遮るように、
「車の件ですね、大丈夫です。この車は警察が調べても所有者、占有者が分からないよう、そして車の色も変わっているので二日前の事故車には思わない、いわば、全く所有者が分からない盗難車、という感じにしておきます。私の力で!私の最後の仕事です!」
男がいわんやとする答えを圭子は貰った。
「やはり、そんな事もできるんですね。ありがとうございます。残った山口さんのおばあさんも認知症、つまり、今日の事すら分からない……車の事も。」
大きく男を見て頷き、にっこりとした。
「そう、考えれば、あなたは元々自分の為に種を蒔き、それをお父さんが見つけ育て、あなたと私が実りを刈り取った、いわば『マッチポンプ』だったという事ですね。結果、あなたのおかげですね。これで全て、完璧です。私は幸せです!」
圭子は満足するように再び大きく頷いた。
「さあ、私も自分の体に戻ります。なんだか、呼ばれているような気がしますので」
「そうですか。重ね重ねありがとうございました。これで翔太も助かり、借金も無くなります。感謝いたします。」
圭子は深々と頭を下げた。そして、頭を上げると、もうそこには男はいなかった。
車も通らない道路に、雨も上がった周りで、ただ、虫が五月蠅く鳴いていた。
「ああ、魂が体に戻ったんですね。幸せになったんですね。じゃあ、私は」
そう言うと暫く目を強く閉じながら、カバンから携帯電話を取り出し、
「あ、警察ですか!い、今、事故があり、うちのお父さんが、お父さんが……事故の場所は……」
大げさに鳴き声で叫んで連絡をした。電話を切ると直ぐに、
「これで大丈夫よね」
そう呟くと、携帯電話をカバンに入れ、圭子は死んだ達夫の傍により、
「ねえ、お父さん、これで翔太も大山家もこれで安心よね。お父さんがいないのは残念だけど、しょうがないよね。でも、お父さんが望んだように翔太は助かりましたよ。これ全てお父さんのおかげだね。あ、そうだ!」
急に、圭子はカバンから何か紙のような物を取り出した。
「お父さん、これもあったんですよ。ほら!死亡保険金、二千万の保険証書!急いで箪笥の引出しから探し出しましたよ!」
そう死んだ達夫の耳元で囁き、顔を撫でながら微笑んで立ち上がると、圭子は達夫を上から優しく見詰めた。
「……お父さんを殺したことは恨まないでね。だって、これらは私と翔太の為、そう、そして、お父さんの望み……だから、全ては……水に流してね」
圭子は暗い中、警察を待ちながら、目を凝らし保険証書と死んだ達夫を交互に、うれしそうに見つめていた。
了