第19話
ティゼルとヴァネッサは部屋に到着するまで、一言も口を利かなかった。
「失礼します」
使用人がティゼルの部屋の扉を開け、二人は中へ入る。
「それで、用件はなんだ?」
扉が閉まった瞬間、ティゼルが開口一番そう言った。
「私に言いたいことがあったのだろう? 遠慮なく申すがいい」
「……では、お言葉に甘えて。――――まずは窓の外をご覧ください」
ヴァネッサが窓辺へ移動し、促す。
「窓の外に何が見えると言うのだ?」
ティゼルが彼女の隣まで歩み寄った、その瞬間――――
ヴァネッサは素早くティゼルの背後へ回り込んだ。
「っ――⁉」
ティゼルが背後から殺気を感じ取る。
恐るべき反応速度で身をひねり、自身の首へ打ち込まれようとしていた手刀を受け止めた。
ヴァネッサが反対の腕をティゼルの首元の隙間へ滑り込ませる。
そのまま前進して彼の身体を壁へ押しつける。
「これを防がれるとは、さすがですね」
「……なんの真似だ、副隊長?」
ティゼルが問う。
ヴァネッサは恐ろしく冷たい目で彼を見据えていた。
「殿下。――――〝愛と憎しみは紙一重〟という言葉をご存じですか?」
「……」
「そのまま動かないでください。――――私は本気です」
彼女の手には、いつの間にか魔弾の銃が握られていた。
死角から、冷たい銃口がティゼルの脇腹に押し当てられる。
「副隊長……。そなたは……」
「殿下。私の指示に従ってください。――――魔刃の剣を捨て、寝台へ」
「……」
ティゼルに魔弾の銃を向けても、〝例の症状〟は出ていない。
彼は観念してヴァネッサの指示に従い、ベッドの前まで移動した。
その瞬間、ティゼルは彼女に押し倒される。
「殿下。私の質問にお答えください。――――今の私をどう思われますか?」
「今のそなたは著しく冷静さを欠いている。とても正気の沙汰とは思えない」
「お言葉ですが、今の私は恐ろしく冷静です。冷静であればあるほど、殿下への憎しみが体の奥からふつふつと湧き上がってくるのです」
「……」
ティゼルはヴァネッサに両腕を押さえられ、身動きが取れない。
反撃しようと思えばできなくはない。
だが今は、彼女の言葉を最後まで聞くべきだと判断していた。
「先日、私は人生において大切なものを殿下にお捧げしました。それについて後悔はありません。ですが、殿下はその価値に気づいておられないご様子」
「……」
「殿下にとって私とは、一体なんなのですか? 返答によっては、私はここで貴殿を殺し、そして私自身も……」
ヴァネッサの、ティゼルの腕を押さえる手に力がこもる。
「私を重く冷たい女だと思われますか? しかし、私をそうさせたのは殿下の方です。殿下は私を一番大切な部下だとおっしゃった。しかし、私にはそうは思えない。私は――――私を置いて一人で先立とうとされた〝あなた〟が憎い。行き場を失った私が、その後どんな目に遭わされるのか――――殿下は一度でもお考えになりましたか?」
主を失ったヴァネッサを、他の貴族どもが放っておくはずがない。
ルキウスの庇護下に入ったところで、結末は似たようなものだ。
アルゼリウスの後継者たるルキウスと彼女が結ばれる可能性は極めて低い。
ヴァネッサ自身が、ルキウスとの結婚を望むこともない。
ならば必然――――彼女は別の男と婚姻を結ばされる。
「私の質問にお答えください、殿下」
その瞬間、ティゼルがすっと目を細めた。
「そなたにここまでさせてしまっては、私も腹を割って話すしかあるまい」
「……」
「副隊長。私は王族だ。ときには非情な決断を下さねばならない。私個人の事情が王族の使命を上回るなど、決してあり得ない」
ヴァネッサの手がぶるぶると震え出す。
彼女は必死に怒りを抑え、涙を堪えていた。
「――――と、少し前まではそう思っていたのだがな……」
ティゼルがわずかに顔を背ける。
「〝あの二人〟を見て、私の中で何かが変わった」
ヴァネッサの震えが収まった。
彼女には、その二人に心当たりがあった。
「キース・ブラウンとメリー・ルークのことですか?」
「あの二人の絆は、我らにも決して劣らない。それがどうにも悔しくてな。そなたを置いて先立つのが、急に恐ろしくなった」
「……」
「元より私は、そなたと釣り合っていたのか……。私や兄上の立場が、そなたの言動を縛りつけていたのではないか……。そのような考えばかりが頭の中を巡るようになった」
ティゼルの口元に笑みが浮かぶ。
「――――まさかミス・マドールの予言が、こんな形で的中するとは……。まことに恐れ入ったよ」
ティゼルの心に最も影響を与えたキースだからこそ、彼の心を変えられる。
学院長の判断は正しかったということだ。
「故に私は計画の最終段階を修正し、醜くも生き長らえる道を選んだ。……その計画も途中で断念せざるを得なくなったが、父上たちに真実を打ち明ける気には終ぞなれなかった」
「……」
「――――言えるわけがない。私は王族としての使命感ではなく、私個人が愛した女性のために生き長らえる道を選んだのだからな」
「……殿下」
「私に失望したか、副隊長? 王族の使命より私情を優先した、この私を」
「いえ……。…………いいえ……」
ヴァネッサはゆっくりとティゼルの腕の拘束を解き――――
そっと彼の仮面を外した。
「殿下は……、今でも私を愛しておいででしょうか? ――――あの頃のように……」
「そなたに対する私の想いは、あのとき以上だ。私は副隊長としてではなく――――〝女としてのそなたが欲しい〟」
「ああ、殿下……!」
ヴァネッサが泣き顔のまま、ティゼルの胸元に顔をうずめる。
「お許しください、殿下……! 私は……、あなた様を……!」
「言うな。私を殺す気がないことは最初からわかっていた……。魔弾の銃を突きつけられたとき、そなたの殺気が薄れていくのを感じた……。――――引き金に指をかけていなかったのだろう?」
「くぅぅ――!」
最初から見抜かれていたことに、ヴァネッサは悔しさすら覚えた。
「私が殿下を嫌いになれたら、どれほど楽だったか……。――――殿下は卑怯者です!」
「長い間、待たせてすまなかった……。私には、そなたに触れる勇気がなかった……。全てを投げうってでも、女としての君を迎え入れる自信が……」
ティゼルが彼女を強く抱きしめる。
「だが今は違う。兄上が私に気づかせてくれた。王族の使命を捨てずとも、そなたを女として側に置ける。私個人の〝わがまま〟というヤツだ」
「……」
「――――ヴァネッサ。私の恋人として、これから共に道を歩んではくれぬか?」
「はい、殿下……。殿下のお側にいられるなら、私はどんな形でも構いません……。いつまでも、あなた様のお側に……」
「……」
二人の唇が、ゆっくりと重なる。
ティゼルとヴァネッサの心が通じ合い、初めて一つになる瞬間だった。
―――――――――――――――――――
「……」
レミの表情は優れなかった。
生徒たちはルキウスの案内で、アイネスヴェルグの街を観光中だ。
「やっぱり、あの二人が心配かい?」
ルキウスが問いかける。
「どうしても――――万が一って考えちゃうんです……。大人の世界じゃよくある話ですけど、両想いの男女が立場の違いで離ればなれになるなんて、やっぱり悲し過ぎます……」
他の生徒たちもレミと同じ気持ちだった。
「――――その点、ティゼルはまだラッキーな方だよ。想い人と同じ国に生まれたのだから」
「「「……」」」
ルキウスの一言で、生徒たちは察した。
「ルキウス殿下は――――ご自身の想いを叶えられなかったのですか?」
レミが問う。
「両国の関係性も含め、お互いの立場上どうすることもできなかった。彼女は私より使命感の強い子でね……。この先も自分の仕事に操を立て続けると、そう言っていたよ」
ルキウスが悲しげに微笑む。
「殿下は後悔されているのですか? その人を手放してしまったことを……」
「……後悔はしていない。そのとき我々に選択の余地はなかった。自分の運命を呪いたくなる時期もあったが、それもすぐに止めた」
「……どうしてですか?」
「一つでも何かが違っていたら、私は彼女を手放さずに済んだかもしれない。だが、一つでも何かがズレていたら――――私は彼女と出会うことすらできなかった」
その言葉に、生徒たちは目が覚めるような感動を覚えた。
「私は、彼女という存在に巡り合わせてくれた運命の女神に心から感謝している。婚姻の契りは結べなかったが、彼女は今も私と同じ世界、同じ時間、同じ星のもとで生きている。手紙で近況を伝え合うこともできるし、その気になればいつでも会える。――――これ以上の幸せが他にあるだろうか?」
生徒たちは思った。
どれほど年を重ねても、自分たちは彼のようには振る舞えないだろう、と。
そして彼は幸福な最期を迎えるべき人物だと――――心の底からそう思った。
「ルキウス殿下。私は貴殿という人物に巡り合えた我が運命に、心からの感謝を捧げます」
フラットが深々と頭を下げる。
「貴殿のおかげで、私は自分の人生の見方を変えられそうです。私の人生は決して不幸ばかりではなかった。母は地獄を見せられても尚、五体満足で今も健康に生きている。そしてカイネル殿下や貴殿のような素晴らしい主君とも巡り合えた。――――私もまた、貴殿と同じ想いです」
「右に同じく」
「私たちは、これからもルキウス殿下に付いて参ります」
フラットに続き、ゲイルとエニスが頭を下げる。
他の生徒たちも同様に、次々と頭を垂れた。
「演説のつもりで言ったわけじゃないんだけど……。街中でこれは、さすがの私も少し恥ずかしい……」
周囲の注目が彼らに集まっている。
当のルキウスよりも、生徒たちの方がよほど堂々としていた。
「(ティゼルは今ごろ、何をしているのか……。 うまく、仲直りできているといいんだけど……)」
ルキウスは現実逃避するかのごとく、別のことへ思考を滑らせた。