第17話
彼女が目を覚ましたのは翌朝。
王族であるティゼルの部屋――――寝室のベッドの上。
ヴァネッサは白いバスローブに着替えさせられていた。
「(服も髪も乱れていない……。殿下お一人の手際ではない……。誰かに助けを仰いだはず……)」
そのときである。
隣の執務室から男二人の声が聞こえてきた。
この部屋は、執務室と寝室に分かれた造りだ。
「そうか。昨夜そんなことが……」
「技術的な問題はありません。十中八九、精神的なものです。しかし、ただのイップスとも違うようです」
話しているのはティゼルとルキウス。
昨夜の訓練の件だ。
「もしや彼女は例の事故がきっかけで、人を撃てなくなったのでは?」
ティゼルの声。
ヴァネッサは足音を殺し、そっと身を移す。
「あり得ない話じゃない。しかし、本当にそうなら――――お前は彼女をどうする?」
ルキウスがたずねる。
ヴァネッサは壁に背をつけ、二人の会話に耳を澄ました。
「人が撃てない魔銃使いを戦場に立たせるわけにはいきません。――――当然、部隊から離れてもらいます」
「っ――!?」
その一言に、ヴァネッサ胸の奥が冷たく沈む。
「……本当にそれでいいのか? その選択がお前の本心だとは思えない」
「……どういう意味です?」
「お前は彼女に個人的な感情を抱いている。――――違うか?」
「……」
沈黙が肯定に変わる。
ヴァネッサの指先がわずかに震えた。
「お前もそういう年頃だ。あれだけの美人が側にいれば、惚れても不思議じゃない」
「……兄上は一体何がおっしゃりたいのです?」
「ドレッドノートの隊長はお前だ。彼女の処遇を決める権利はお前にある。――――だが今回は、お前一人で決めていい話ではないように思う」
「部隊に残るかどうかは本人に決めさせろと――――そうおっしゃるのですか?」
「ティゼル。お前は昔から聞き分けのいい子だった。お前のような弟を持って、兄として誇らしい」
「……」
「だが、もう少し自分の気持ちに正直になってもいいんじゃないか? 弟のわがままを聞くのも、私や父上の役目だ。――――お前はあまりに優しすぎる」
ルキウスがティゼルの肩に手を置く。
「本心を聞かせろ。お前は彼女をどうしたい?」
「……」
ティゼルが窓際に移動し、外の景色を眺めながら言った。
「私は――――彼女をドレッドノートに加えたことを後悔しています」
「……」
「彼女には自分の手で幸せを掴み取ってほしかった。故に彼女をドレッドノートに誘ったのです。――――しかし、私は何もわかっていなかった」
ティゼルが拳を強く握り締める。
「ドレッドノートの訓練は常に命懸けです。事故の被害者が仮面を付けた私だから良かったものの、場合によっては彼女自身が取り返しのつかない傷を負っていたかもしれない。私は彼女を幸せにするどころか、危うく女性としての幸せを奪うところだった」
「……」
「今回の件と事故が重なり、神は私に機会を与えたと思いました。彼女が傷つかないうちに、彼女を現場から離せ、と……。彼女ほどの器量なら、前線以外での活躍の場はいくらでもあります」
ティゼルの声は苦悩に満ちていた。
「(殿下……)」
ヴァネッサが胸の前で手を握りしめる。
「お前の中で彼女の存在はそれほど大きくなっていたんだな……。さっきの結論も、お前なりに悩み抜いた末だったわけだ」
ルキウスが腕を組み、部屋の壁にもたれかかる。
「……なら、彼女の身は私が預かる」
「――⁉」
「――⁉」
空気がひやりと張る。
「このまま部隊から離せば、彼女はお前に切り捨てられたと自棄になるかもしれん。あるいは、お前に遠慮していた貴族どもが無体を働くかもしれない」
「……」
「それはお前の望むところじゃないだろう? ならば私の手元に置く方が安全だ」
もっともな理屈だが、ティゼルは心のどこかで受け入れがたい様子だ。
故に、すぐには返答できなかった。
「つまりは、それが本心だ。お前は彼女を誰にも譲りたくないと思ってる」
「……」
「自分のわがままで周りに迷惑をかけるのが嫌なんじゃない。本当は彼女に失望されるのが怖いだけだ。年上の部下を持つのは楽じゃないからな……」
ルキウスが言った。
そしてヴァネッサは悟る。
自分が彼に失望されるのを恐れたように、彼もまた部下に失望されるのを恐れているのだと。
「兄上……。私は、どうしたら……」
大粒の涙がティゼルの頬を伝う。
「どうしたら兄上や父上のような立派な王族に……」
「おいおい、泣くな。お前は十分に務めを果たしている。その年で今の会話を成立させているだけで十分立派だ」
この頃のティゼルは十三歳。
ルキウスは十七歳。
遊びたい盛りの子どもが感情を殺して王族の責務に苦悩する姿に、ヴァネッサは胸を押さえる。
「しかし、私は王族でありながら、彼女への未練を断ち切れない……」
「だから本人に決めさせろと言ったんだ。彼女自身が部隊を離れる決断をしたなら、お前も諦めがつく。――――直接本人に聞いてみるといい」
ルキウスの視線が向く。
彼はヴァネッサが起きていることに気づいていた。
ヴァネッサはそっと寝台へ戻り、毛布を肩まで引き上げた。
「それに彼女が本当に人を撃てなくなったとも限らない。事実を確かめもせず、悪い方へ転がすのは賢いとは言えない」
「……兄上のおっしゃる通りです」
ティゼルは涙を拭い、呼吸を整える。
「さて、どう確かめるか……。彼女は“お前を照準に入れた瞬間”に倒れた――――で合ってるな?」
「はい。それまでは普通に訓練を行っていたのですが、私を照準に入れた途端に……」
「ふむ。――――なら、協力してもらうしかないな」
ルキウスが寝室の扉を開けた。
「兄上、何を――?」
「何って、彼女を起こすだけだ」
「し、自然に起きるのを待った方が――――」
「――と言いつつ、心の準備が欲しいだけだろ?」
「っ――!?」
図星。
ティゼルが言葉に詰まる。
「ときには勢いも必要だ。――――ヴァネッサ隊員、いい加減に目を覚ませ」
「……」
ヴァネッサは寝たふりを続ける。
ルキウスはその手に出ると見抜いていた。
「……起きないな」
「どうやらそのようです」
ティゼルは、ほんの少しだけ安堵の息を漏らす。
「ふむ……」
いたずら心がルキウスの口元を緩ませた。
「それにしても、きれいな寝顔だ。昨日に続いて、私はとてもラッキーだ」
「……?」
「……?」
「昨日はバスローブを着せるときに、すごく良いものを拝ませてもらったからね」
「なっ――!?」
「なっ――!?」
ティゼルは素直に驚き、ヴァネッサは反射で跳ね起きる。
「はい、眠り姫のお目覚め。――――私がここにいる理由はわかるな、ヴァネッサ隊員?」
からかわれたと悟り、ヴァネッサは耳まで赤くなる。
「……はい、ルキウス殿下」
「よろしい。着替えを用意させる。すぐに準備を。――――ティゼル、一旦部屋の外に出るぞ」
「……」
ルキウスが出ていき、ティゼルが振り返る。
「まさかとは思うが……、私たちの話を聞いていたのか?」
口調はいつも通り。
だが、頬はほんのり赤い。
「……いえ、殿下。私は何も――ヒックッ! ……知りません」
話を盗み聞きしたバチが当たったのか、ヴァネッサはしゃっくりが止まらなくなってしまった。
「……そうか。もちろん、私も何も見ていない。無論、そなたがしゃっくりするところなど――――」
「ヒック!」
ティゼルの肩が小刻みに震える。
「あの、殿下……」
「……」
「できればすぐにでも部屋から出ていただけると……(ヒックッ!)。このような姿を、お見せするのは……」
ヴァネッサがシーツをぎゅっと握りしめる。
「……そうだな。私は部屋を出る。そなたのその姿は、墓場まで持っていこう」
ティゼルが外に出ていき、寝室の扉が閉まる。
ヴァネッサもまた、先ほど盗み聞きしたことを墓場まで持っていくと心に決めた。
――――――――――――――――――――
「あの……、副隊長さん……」
現在へ戻る。
レミがおずおずとヴァネッサに言った。
「墓場までって……、私たちに思いっきりしゃべっちゃってますけど……?」
「……」
「……」
「――――話は、ここまでとしましょう」
立ち上がるヴァネッサの袖をレミが慌てて掴む。
「ちょ――――副隊長さん! さすがにそれはないですって!」
「……」
「シンクには内緒にしますから! もう少しだけ……ね?」
ヴァネッサは小さく息を吐き、席に戻った。
――――――――――――――――
「ヴァネッサ隊員。魔弾の銃を」
「……はい」
着替えを終えたヴァネッサは、腰のホルスターから魔弾の銃を引き抜いた。
「ふむ……。抜くこと自体には抵抗はないようだ」
「はい。銃口を“人”に向けない限り、何も問題ありません」
「では、さっそく試してみよう」
ルキウスは銃口を軽くつまみ、自分の胸元へ向けさせた。
その時点では、何も起きない。
続いて銃口をティゼルの方へ向ける。
「っ――!?」
ヴァネッサの手が震え、銃を取り落とした。
「大丈夫か、ヴァネッサ隊員!?」
「……なるほど。そういうことか」
ルキウスが銃口を下ろす。
「これは特定条件下のみで発症するイップスだな……。彼女は人を撃てないんじゃない――――お前に銃を向けらなくなったんだ」
そう言ってルキウスがティゼルを見る。
「……やはり例の事故が原因ですか?」
「それ以外に考えにくい。以前は『お前に銃を向けても決して傷つかない』という絶対の安心があった。だが今は違う。彼女はお前を、尊い命を持つ一人の人間として認識してしまっている」
魔弾の銃は、一発で人を殺し得る強力な武器。
絶対に当たらない相手に向けるのと、“当たり得る相手”に向けるのとでは、まるで違う。
「……それで、どうする?」
ルキウスが問う。
「彼女が撃てなくなったのはお前だけだ。部隊に残しても運用はできる」
「……」
ティゼルはまだ決めきれない。
ルキウスがその背中を押した。
「一つ、いいことを教えよう。彼女が事故をきっかけに“お前に銃を向けられなくなった”という事実は、彼女がお前の身を誰より案じている証明だ。王族は常に命を狙われる。身内すら信用できない中で、心から信じられる部下を得たのはこの上ない幸運だ」
「……」
「逆に、もし彼女が再び“お前に銃を向けられる”ようになったとしたら――――それはお前が彼女の期待を裏切り、失望させた証でもある」
「……」
「私に言えるのはここまでだ。あとは二人で話し合え。これはピンチにもチャンスにもなる。絶対にこの機を逃すなよ、ティゼル」
ルキウスは去った。
気まずい沈黙が二人の間に落ちる。
「……ヴァネッサ隊員。そなたはこれからも我が隊の一員であることを望むか?」
「無論です。私は殿下から賜った恩をまだ返せていない」
「……恩?」
「〝身売り〟を考えていた私に手を差し伸べてくださった恩です」
「……」
「殿下が恩返しをお望みでないことは重々承知しております。故に、これは私個人の願い。お望みとあらば、この身のすべてを殿下に捧げる覚悟です」
それは言葉どおりの覚悟だった。
「そなたは私を買いかぶり過ぎている。私も一人の人間に過ぎん。己の欲に振り回される、小さき男だ」
「……」
「そもそも、そなたに近づいたのも下心ありきやもしれぬぞ?」
「いえ、殿下に限ってそれはあり得ません」
「何故、言い切れる?」
「殿下は、たとえ私が男であっても同じように手を差し伸べてくださっていた――――私の勘が、そう告げています」
ティゼルは苦笑する。
「どうやらそなたは男を見る目がないようだ」
「恐れながら。私は殿下以外の男性を〝男〟として見たことがありません」
「……ならば、そなたには男運がなかったということだ」
「それは否定させていただきます。私は殿下と出会えた。――――この上ない強運の女です」
「……」
やがて、堂々巡りの応酬は終わりに近づく。
「そなたはもう己の手で未来を切り開ける。選択権のない選択肢を選ばされていた頃とは訳が違うのだ。この私を主として選んだことを、そなたはいずれ後悔するかもしれない」
「殿下がお望みとあらば、すぐにでも部隊を離れます。そして、いずれどこの馬の骨とも知れぬ輩に嫁がされ、跡継ぎを産まされることになるでしょう」
「……」
「私は自分の容姿それなりに自覚しています。その運命からは決して逃れられない。――――殿下は、それでよろしいのですね?」
ティゼルは背を向け、執務机に両手を預ける。
「……そなたに一つ頼みがある」
「はっ。なんなりと」
ヴァネッサがひざまずく。
「勘違いするな。これは命令ではない。私個人の願いだ。判断は全てそなたに委ねる」
ティゼルがゆっくり振り返り、告げる。
「――私の背中をそなたに預けたい。ドレッドノート隊の部隊長である私の補佐役として」
「――⁉」
ヴァネッサが驚き、顔を上げる。
「この私が、副隊長に……?」
「そうだ」
言葉が遅れたヴァネッサは、やがて深く頭を垂れた。
「身に余る光栄にございます。このヴァネッサ・ランズドルグ――副隊長の任、謹んで拝命いたします」
「ならば、新たな副隊長に最初の任を与える。これより我が部隊は、戦闘訓練および作戦行動中、常に私と同じ仮面を装着するよう総員に通達せよ」
「……?」
「同じ事故を二度と起こさないためだ。部下たちの顔に傷一つ付けさせたくない」
それはヴァネッサを守るための命令でもあった。
隊員全員分の仮面を用意するには手間や材料費がかかる。
――知る人ぞ知る、ささやかな職権乱用である。
「ご命令、承りました」
ヴァネッサが立ち上がる。
「殿下。私からも、一つだけ」
「なんだ、副隊――」
言葉の続きは、強く抱きしめられて消えた。
「副隊長、何を――!?」
「ご無礼をお許しください。……これは私の決意表明です。これからも殿下のお側でお仕えしたく存じます」
「……」
「……」
「……それについては、先ほど聞いたばかりだ」
「これは私の決意表明だと申したはず。――――私は殿下の決意表明をいつまでもお待ちしております」
ティゼルもまた、腕を回す。
「そなたのその想い――しかと受け取った」
その一瞬の全てを、ティゼルは彼女に委ねた。