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異世界恋愛短編

殿下は義妹を選ばれましたので

挿絵(By みてみん)

イラスト作:貴様 二太郎様

 心地よい陽の光が差し込む、真昼時のテラスにて。

 色鮮やかな花々に囲まれる中、しかしなんとも言えない空気が漂っていた。


 若手執事のセレスがテーブルの上にカップを置いたが、誰も手をつけようとはしない。

 「ごゆっくり」とだけ言い残して彼はテラスから姿を消し、見えなくなる。そしてその直後に口火が切られた。


「アンジェリカ。俺は真実の愛を見つけたのだ。よってお前との婚約を破棄し、ここにいるカトレンと新たに婚約する」


 そう告げられた時、アンジェリカは自分でも冷淡だなと思うほどに動揺していなかった。

 テーブルを挟んで向かい合う婚約者、否、たった今まで婚約者だった第三王子ダフィットを見遣る。彼の腕にはふわふわと軽くウェーブしたアプリコットの髪の少女――カトレンが抱き着き、優越感を隠せない薄紅の瞳でアンジェリカを見つめている。


 ――きっとカトレンは、わたくしに勝ったとでも思っているのでしょうね。


 この先の自分の立場の厳しさも全く考えないで、なんと愚かなことか。

 そう思いながらアンジェリカは、じっと彼らを見返した。


「真実の愛、ですか。殿下は、カトレンを愛してしまったと?」


「そうだ。生意気で可愛げのないお前より、彼女の方が百倍可愛いからな」


 確かにカトレンは可憐だ。

 庇護欲そそる小柄な体型。瞳は丸く、顔は童顔。それでいてドレスから溢れんばかりの豊満な胸を持っている。異性にはさぞ魅力的に映るだろうそれは、可憐でありながら妖艶だった。


「殿下のお気持ちは理解いたしました。本当に殿下は、それでよろしいのですね?」


 アンジェリカは静かに問いかける。

 もちろんこれで彼の気持ちが変わるなど、思っていない。ただ確認したかっただけなのだから。


「当然だ。この選択を後悔などするわけがなかろう」


「そうですか。それなら殿下のおっしゃる通り、この婚約は破棄としましょう。殿下、今までありがとうございました。カトレンとどうぞお幸せに」


 柔らかに微笑み、二人を言祝いだ。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 キャロウ家の一人娘であったアンジェリカは十歳の時、ダフィットと婚約した。

 王家に打診され、キャロウ伯爵家が受けるという形で結ばれた婚約は、完全に政略的な思惑によるものである。


 第三王子との婚約ということで周囲には羨ましがられはしたが、しかし全く嬉しく感じなかった。


 ダフィットは当時はかなり可愛い男児だった。ブロンドの髪に碧眼、顔立ちは整っており、愛嬌がある。

 ならなぜ嫌だったかと言えばそれは当然の話で、婚約者との初顔合わせの折、いきなりダフィットに言われたのだ。


「お前、黒髪だしなんだかパッとしないな。こんなのが俺の婚約者か」


 ずいぶん失礼な発言をされたと思う。

 アンジェリカはストレートの黒髪に琥珀色の瞳。人形のように美しいと称されたことはあれど、母以外から可愛いなんて言われたことは一度もない。それでも、出会ってすぐに相手に容姿を貶されるのはなんだか納得がいかなかったのをよく記憶している。


 それから度々似たような発言を繰り返され、ダフィットとの関係はギクシャクした。


「お前は人形めいていて気持ち悪いな。もっと可愛らしさを持て」

「どうして俺はお前なんかと婚約を……」

「俺をもっと引き立たせることさえできないのか」


 そんな風に言われ続ける日々だった。


 しかしながら当然、アンジェリカなりに努力はしていたのだ。

 ダフィットより目立たぬよう努めたり、ダフィットの公務の手助けをしたり。しかし何をしても反感を買うばかりで、やがて関係改善を諦めた。

 それでも婚約は婚約。いずれ夫婦にならなければならないし、愛はなくとも閨を共にするつもりではいたのだ。


 だが、そのような未来は永遠に訪れなくなった。

 なぜならダフィットが、カトレンという名の少女に出会ってしまったから。


 カトレンはキャロウ伯爵家次女であり、アンジェリカの義妹だ。

 と言っても彼女がキャロウ家に入ったのはアンジェリカが十六歳の時。アンジェリカは十五歳にして病で母を亡くし、その一年後に父が平民の娼婦――母の死後、入り浸っていた娼館の中でも一番お気に入りの女を身請けしたのだ――を後妻に引き入れるという形で義妹を得たのだった。


 アンジェリカの継母になる人物はなかなかに色っぽい、しかしそれだけが取り柄の女性だったが、カトレンは彼女によく似ていた。


「せっかく伯爵令嬢になったんですもの、いい男見つけて嫁入りして贅沢しなきゃ損よね!」


 そう言って、やたらとフリルのついたピンク色のドレス姿で舞踏会へ繰り出していったカトレン。

 可愛らしい演技が得意なのか仲の良い男性は数人できたようだが、そこそこ身分の高い令息には皆婚約者がおり、なれてもせいぜい遊び相手まで。わざわざ今の婚約者を捨てて平民上がりの伯爵家の娘を娶ろうと思うわけがなかった。


「あーもうどうしてなのよ! そうだわ、きっと全部お義姉様が悪いのよ。お義姉様、社交界では人形姫だなんて呼び名で揶揄われているそうね? だからよ、きっと!」


「確かにわたくしをそう呼ぶ者もおりますが、あなたの婚約者として相応しい男性が現れないのはわたくしの責ではないはずです」


 そう言ってもカトレンはまともに聞き入れようとしない。

 彼女は継母に溺愛され、父にも愛されている。母の他界後、父にろくに顔を合わせてもらえないアンジェリカと違って。

 だから屋敷の中ではこのような物言いを平気でしているのだ。


 ――まあ、別にいいのですが。


 こちらの悪口を言われても大した実害はないので、放置していた。


 しかしある日、第三王子であるダフィットがキャロウ伯爵家を訪れると聞きつけたカトレンは、アンジェリカとダフィットのお茶会に無断で突撃するという暴挙を働くことに。

 普通それは重大なマナー違反で、軽蔑される行為だ。いくら平民上がりといえど貴族になる際に厳しく教えられることなので、そこまで非常識な行いをするとはさすがに少し想定外だった。


 けれどそのおかげで、彼女はダフィットと出会った。

 美形かつ、身分もこの国の中では上から数えた方が早い第三王子であるダフィットと。


「なんだ、きみは。花の精か、それとも女神か」


「……そ、そんなっ。わたしはお義姉様の、アンジェリカお義姉様の義妹(いもうと)のカトレンです。すみません、割り込んでしまって。お邪魔でしたか?」


 申し訳なさそうに目を伏せたり、体を縮こめるその動作一つ一つが色香を放ち、男を誘う。

 そしてそれらにダフィットは一瞬で骨抜きにされた。


 アンジェリカが彼にとって全く魅力的ではなく、二人の関係は最悪に近い状態だったので、ダフィットがアンジェリカを簡単に蔑ろにしてカトレンに傾倒するようになったのは当然過ぎる結果と言える。


 そういうわけで行き着いたのが、婚約破棄という結論。

 アンジェリカとダフィットの婚約が結ばれてから七年目になろうという頃のことだった。


「良かったんですか、あれで」


 婚約破棄を終えてテラスから戻ると、こっそり一部始終を見ていたらしい執事のセレスがやって来てアンジェリカに尋ねた。


 彼は幼少期にアンジェリカの母である前伯爵夫人のツテでやって来てからというもの、かれこれ十年ほどキャロウ伯爵家に仕えている若手執事だ。

 年齢はアンジェリカより三つ上の二十歳。スラリとした長身をした美青年で、女性使用人たちから密かな人気を集めているのだとか。


 そんな彼はアンジェリカにとって幼馴染同然であり、母亡き今、屋敷の中で最も親しい人物だった。


「良いも何も。それが殿下の望まれたことですから」


「アンジェリカお嬢様は、今回のことがキャロウ伯爵家の存続に関わるかも知れないとおわかりで?」


「父上はきっとカトレンとダフィット殿下との婚約を認めるでしょう。そうなればどうなるかくらい、予想はできています」


 故にこそあえて、ダフィットに本当にこれでいいのかと確認したのだ。

 彼が後悔しないと宣言した以上、アンジェリカが言うべきことはもう何もない。


「いずれ彼らも自分の行いの意味を理解できるようになるでしょう。その時きっと、わたくしはこの屋敷にいませんが」


 アンジェリカは、ドレスやらネックレスやらをありったけ売って、その資金でどこか適当なところに嫁ごうと思っていた。

 貴族なら皆婚約者がいるだろうが、商家であればその限りではないからと。


 しかし――。


「アンジェリカお嬢様、僕から一つ提案が」


「何です?」


 自室へ向かおうとしていた足を止め、振り返るアンジェリカ。

 彼女の視線の先に立つセレスは、どこか楽しげな笑みを浮かべていた。


「どこかへ姿をくらますおつもりでしたら、駆け落ちなどはいかがでしょう?」


 アンジェリカはただ唖然とした。




 お嬢様と執事の恋物語。

 恋愛劇ではよく聞く話だ。大抵最後は身分差を理由とした悲恋。心中するような結末のものさえある。


 執事というのは男主人、つまりその貴族家の当主に雇われ、右腕として働く身。それが貴族令嬢との恋にうつつを抜かせば、辞職は当然、首が落ちかねない事態になる。

 なので現実ではそんなものはあり得ない。


 だというのにセレスは今、なんと言った?


「駆け落ちですか。誰と誰がでしょうか」


「決まっています。僕と、アンジェリカお嬢様が」


「冗談なら笑える程度になさい。それともこれ以上、わたくしに恥をかかせるつもりですか」


 執事と駆け落ち。一体どんな醜聞だ。

 それにアンジェリカはセレスのことをそういう目で見てはいない。見られない。だって、今は破棄されたとはいえ、たった数時間前まで彼女にはダフィットという婚約者がいたわけだし。


「冗談ではありません、僕は結構本気ですよ。

 お屋敷に長くいないつもりということは、どこかへ嫁ぐわけですよね。しかしそれではいつ旦那様に連れ戻されるか、わかったものではないでしょう。嫁ぎ先が伯爵家より格上ならともかく、それは難しいのではないですか?」


「…………」


「その分、僕ならアンジェリカお嬢様を守って差し上げられると、そう自信を持って言えます。それに、アンジェリカお嬢様のいなくなったお屋敷なんている意味がないですしね」


 セレスが冗談を言っているようには見えず、戸惑いながらもアンジェリカは言った。


「首が飛びますよ」


「それでも構いませんとも。――アンジェリカお嬢様、聞き入れてくださいますか?」


 セレスはいやに恭しい手つきでアンジェリカの色白の手を取る。

 ただそれだ。ただそれなのに、アンジェリカはドキッとしてしまった。


 そして、思う。

 どうせ自分は婚約破棄された身。どちらにせよ醜聞が付き纏うのだから、今更一つや二つ増えたところでどうということはないのかも知れない、と。

 それにセレスをこの屋敷に置いていくのも少し申し訳ないような気はしていたのだ。


 だから。


「わかりました。そういうことなら、付き合ってあげます」


「ありがとうございます」


 セレスは安心したような、それでいながら悪戯が成功した子供のような笑みを見せた。


「では、早速今夜に出発しましょう。善は急げと言いますからね。あのクソ平民女……もといカトレンお嬢様に気づかれぬうちにしなくては。夜までに僕がしっかり準備しておきますから安心してください」


 ――と、いうわけでその夜、荷物をまとめたアンジェリカは、セレスと共に屋敷から姿を消すことになったのだった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「しかしまさかこんなことになるとは思いませんでした」


 駆け落ちから数日後、豪華なベッドで横たわりながら、アンジェリカはため息まじりに呟いていた。




 駆け落ち。

 普通、人目を忍んで行われるであろうそれはしかし、アンジェリカの想像を遥かに超えるものだった。


 まず、屋敷を出た途端、一目でただ者ではないとわかる馬車が停まっていた。いつもキャロウ伯爵家にダフィットが乗り付けてきていたものと同じかそれより上等な馬車だ。

 わけがわからないままそれに乗せられ連れられた先は、思わぬ場所だった。


 ――ランドクリフ公爵邸。

 この国において王家に次ぐ権力を持ち、現在当主である公爵が宰相を務めているという筆頭公爵家の屋敷に連れて来られてしまったのだ。


「セレス、これは一体どういうことですか」


「これからの定住先ですよ」


「定住先……?」


 まさかセレスは、アンジェリカの知らぬうちにランドクリフ家の執事もしていたとでもいうのだろうか。

 そう思ったのだが、どうやら違ったらしい。


 メイドたちがぞろりと並んで出迎え、セレスとアンジェリカは共に客間へ通された。

 そこで待っていたのは、ランドクリフ公爵。しかも――。


「ようやくこちらへ来る気になったか、セレス」


 などと、セレスに向かって親しげに話しかけてきたのである。


 アンジェリカはさっぱりわけがわからず、視線を向けることでセレスに説明を求めた。

 それからの話は色々とややこしかったのだが、端的にまとめると。


「実は僕、ランドクリフ公爵家の分家の生まれで、養子であり嫡子でもあるんですよね。幼い頃に事故で両親が死んで、亡き母のツテで執事見習いという形で一時的に預けられたのがキャロウ伯爵家でして、アンジェリカお嬢様……いえ、アンジェリカに出会ってしまったわけです」


 ――。

 絶句せざるを得なかった。だって、十年以上一緒にいながら、初耳の話ばかりだったのだ。


 筆頭公爵家の嫡子ということは、つまり次期公爵ということ。そんな人物がすぐ身近に、しかも執事としていたなんて信じられない。

 信じられないが、ランドクリフ公爵との関係を見れば、嘘ではないとわかってしまった。


「一年くらいして、ちょうどいい具合にお子がいなかったランドクリフ公の養子になることが決まったのですが、その頃にはもうアンジェリカから離れるなんて考えられなくなっていて――クズみたいな婚約者にも尽くそうとするどこまでも健気なあなたに強く惹かれてしまっていて、無理を押してキャロウ家の執事を続けていたんです」


 アンジェリカがダフィットと結ばれた姿を見ればどうにか諦めがつくだろうと思っていたところ、婚約破棄という好機が舞い込み、駆け落ちを提案してしまったのだと彼は語った。

 つまり。


「セレスはわたくしに好意があるということ……?」


 考えてみれば確かに、利害関係があるという理由だけで駆け落ちを提案するのはおかしな話ではある。


 だが、それからしばらく何やら話してくれていたらしいランドクリフ公爵の言葉は全て耳に入って来なかった。それほどまでにセレスに言われたことは衝撃的だったのだ。

 呆然としている間に何だかよくわからない書類にサインをさせられて、セレスと共に客間を出ていた。


「アンジェリカ、これで安心ですね。ああ、今日から主従ではなく婚約者同士になったのだし、敬語もやめようか」


 セレスの声にハッとして、アンジェリカは顔を上げる。

 そして思わず足を止めた。


「婚約……? 今、婚約と言いましたか、セレス」


「言ったけど」


 聞き間違いではなかったのだと思い、琥珀色の瞳を見開いて呟く。


「いつの間にわたくしたち婚約を……?」


「さっきサインしたのは僕とアンジェリカの婚約に関する契約書だよ。ランドクリフ公が説明していたはずだけど」


「えっ。あれが」


 てっきりしばらくこの屋敷で匿ってもらうために必要なものだと思って、ろくに考えることもせず署名してしまったらしい。

 でもそうか、よく考えてみれば婚約者でもない限り、ランドクリフ公爵邸にアンジェリカが滞在するのは不自然だ。それに、セレスの想いが本当であれば、セレスは本気でアンジェリカを花嫁にするためにここへ連れて来たわけなのだから当然だった。


「……嫌だった?」


「いえ、全然そういうわけでは。ただ、あまりに急な出来事ばかりで驚いてしまっていて」


 あの婚約破棄の時には予想していなかったことばかりだ。

 しかし、断じて嫌ではなかった。恋愛感情を寄せていなかったにせよ、一緒に屋敷から逃げ出してしまおうと思えるほどに信頼しているのだから。


「これから、よろしくお願いします」


「そんな改まらなくていいよ、アンジェリカ」


「……はい」


 なんだかセレスからタメ口で話されるのはすごく違和感があるが、婚約者になるなら慣れていくべきだろう。


「使用人たちにアンジェリカの部屋を用意させてある。今日からはそこで寝泊まりしてもらおう」


「セレスと共同の部屋ではないのですか?」


「まだ僕らは未婚だからね。まあ、僕としてはできるだけ早くアンジェリカと一緒になりたいけど」


 楽しげに笑いながらのセレスの発言に、アンジェリカは思わず頬を赤くした。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ――それから、一年。


 アンジェリカはランドクリフ公爵邸に滞在し、与えられたやたらに豪華な部屋の中で静かに読書をしたり、たまにお忍びで街へ出てひっそりとオシャレを楽しむなどして、のんびりと日々を過ごしていた。


 キャロウ伯爵家では絶対に謳歌できなかった自由。その尊さを毎日噛み締めるばかりだ。


 セレスは長く執事を続けていた分、次期ランドクリフ公爵としての勉強が不足していたらしく、勉強漬け。

 その合間を縫って、本人曰く癒しを求めにアンジェリカの元へやって来る。


「アンジェリカ、会いたかった」


 セレスの両腕にギュッと抱きしめられ、心臓が跳ねる。

 婚約当初はせいぜい手を繋ぐ程度の触れ合いだったのだが、最近は抱きしめ合うことが増えた。


 もちろん、嫌な気はしない。

 いや、それどころか最近、彼のことが魅力的に見えて仕方ない。アンジェリカへ向けられるまっすぐな愛情を感じる度、彼に抱きしめられる度、どうしようもなくときめいてしまうのだ。


「……本当、セレスはわたくしのことが大好きなのですね」


 セレスの気が済むまでアンジェリカは彼に身を委ねる。

 そんな風にして二人きりの時間を過ごしていた時のことだった。


 少し慌てた様子でメイド三人がアンジェリカの部屋へやって来たのは。


「セレス様、アンジェリカ様、失礼いたします!」

「アンジェリカ様にお会いしたいと、お客様が」

「お引き取り願おうとしたのですが、我々だけでは力が及ばず……」


 そっとセレスから身を離し、アンジェリカはメイドたちへ目を向ける。

 彼女らの戸惑いぶりは尋常ではなく、その客人がただびとではないことが窺えた。


「どなたですか、そのお客様とやらは」


 そう言いながら、アンジェリカはこの時点でわかっていた。

 アンジェリカを目的に訪ねてくる人物などほんの少数だ。そしてメイドたちだけでは追い返せないことを考えるに相手は一人に絞られる。


 その考えは的中した。


()第三王子のダフィット様でございます」




 アンジェリカの元婚約者にして、今はカトレンの夫となった人。()第三王子、ダフィット。

 それが今頃になってやって来たわけだ。


 セレスは力ずくでも拒もうと考えたようだが、アンジェリカは違う。


「面倒ごとは引き延ばさない方がいいものです。先方の用件をお聞きしましょう」


 渋々ながらセレスも頷いてくれ、ダフィットと久々に言葉を交わすことになった。

 アンジェリカ的には一対一でも良かったのだけれど、セレスがどうしてもと言うので、彼も同伴だ。


 そうして二人で向かった客間には――。


「アンジェリカ、アンジェリカか!! ようやく……ようやく見つけた! ああ、今はお前の人形めいた顔が女神のそれに見えるぞ!」


 目の下に隈を作り、綺麗だったかつてと比べ物にならないガサガサのブロンドの髪を振り乱しながら、入室したばかりのアンジェリカの方へと身を乗り出してギラギラとした目つきを向ける、ひどくやつれた男の姿があった。


 あの美形王子とはとても思えない。今の彼の姿を見てダフィットだと気づける者がどれほどいるだろうかと首を傾げたくなるほどの変わりように、さすがに驚いてしまう。


「……ごきげんよう。一年ぶりですね。わざわざここまでお越しになるなんて、一体何のご用ですか?」


 彼の隣にカトレンの姿がないのを確認しながら、アンジェリカは問いかける。

 すると一気にダフィットの表情が険しくなった。しかしやがて口を開き、重々しい口調で告げられた。


「カトレンに、あの女に騙されていた。だからアンジェリカ、戻って来てくれないか」


「――――」


「キャロウ家に婿入りするという話になっていることも、カトレンが次期当主になることも、あの女に何一つ学がないことも、知らなかった。知らされていなかった。

 知ったのは彼女と結婚したあとだった。仕事は全て俺に押し付けられて、あの女は当主の勉強から逃げてばかり!」


 彼はひたすらに愚痴をダラダラと垂れ流し続ける。

 カトレンの無に等しい能力を知らないで次期当主に任命してしまったキャロウ伯爵の無能ぶりについて。常にカトレンの味方をする義母や、次期当主としての責務を投げ出して男遊びに勤しむようになったカトレンについても。


 ――「結婚なんてしなければ良かった」と、後悔の言葉をこぼした。


「もう、耐えられないんだ。お前にしてきた今までのことは全て謝る。頼む、俺を助けてくれ……!」


 血反吐をこぼしそうなダフィットの必死の懇願に、しかしアンジェリカは冷めた目を向けることしかできない。

 だって――。


「『その選択を後悔するわけがなかろう』。わたくしと婚約破棄し、カトレンとの婚約を誓った時、ご自身がそうおっしゃっていたことをお忘れですか?」


 こうなることはわかっていた。


 伯爵家を継ぐべく、幾年も勉学に励んでいたアンジェリカ。

 それとは反対に、何も知らず知らされぬまま、ダフィットの妃になれると思い込んで――もちろん本当は妃になるのも相当な知識が必要なわけだが――彼をアンジェリカから奪うことしか考えていなかったカトレン。


 カトレンが父から自分がアンジェリカの代わりに次期当主になるのだと知らされ、勤めを果たせず逃げ出すことは明白だった。

 ダフィットの言っていた真実の愛とやらが実在するなら夫婦で乗り越えていたはずなのだが、そうではなかったらしい。


「カトレンと父、そして義母のことは間近で見続けていましたので、あの方々がどんな風に考え行動したかはわかります。きっと近いうちにキャロウ家は破綻することになるでしょう」


 領主としての仕事にまるで興味がなく、母の死後は女遊びに耽っていた父。

 それでもキャロウ伯爵家がやっていけていたのは、アンジェリカ、そして当主の秘書としての役割を兼任する執事のセレスがいたおかげだった。


 そしてアンジェリカもセレスも伯爵家にはもう戻らない。だから、キャロウ家は近いうちに没落すると思う。


 それでも良かった。だってもうアンジェリカは、嫡子として責任を負う必要はないのだ。

 もちろん、もうダフィットの婚約者ではないので、彼に手を差し伸べる理由も義理も、全く存在しない。


「わたくしは手をお貸しできかねます。――殿下は義妹を選ばれましたので」


 にっこりと微笑んで言ってやる。これはあなたの行動の結果なのだと。

 ダフィットはわかりやすく狼狽えた。


「だ、だが! そうだ、もし戻るなら王家から金を――」


「ああ、間違えました。今はただのキャロウ伯爵家の婿殿でしたね。ダフィット元殿下」


 言外に王家からの支援は受けられないだろうと現実を突きつける。


「アンジェリカ、俺を見捨てないでくれ。俺はこのままではカトレンに潰される! どうか昔のよしみで!」


 アンジェリカがはっきりと拒絶を示してもなお、醜く縋りつこうと必死なダフィット。

 しかし彼を制したのはアンジェリカではなく、彼女の傍のセレスだった。


「僕の婚約者に下手な口説きをするのはいい加減やめてもらおうか」


「お前は……あっ、あの時の執事か? アンジェリカに姿をくらませるよう唆したのはお前らしいな。お前、ただじゃ済まないぞ」


「僕はこう見えても次期ランドクリフ公爵なんだ。言葉遣いには気をつけた方が身のためだよ」


「……っ!!」


 ギョッとした顔をするダフィットを見て、アンジェリカは思わず冷笑を浮かべそうになってしまう。アンジェリカがこの屋敷に身を寄せている理由を考えれば、ランドクリフ公爵家と親密な関係を持ったことが察せられそうなものなのにまるでわかっていない。

 だからこそ、自分が妃を娶る側ではなくキャロウ家に婿入りするのだと理解していなかったのだろう。


「お引き取り願えますか、元殿下。救いを求めるなら他をあたってくださいませ。わたくしは、セレスを選んだのです」


 セレスに腕を絡め、身を寄せた。

 そして――はしたないのも承知で、彼の首筋へと迷いなく口付ける。


 突然のアンジェリカの行動にセレスが目を丸くした。


「驚いた。まさかアンジェリカの方からされるとは思わなかった。それにさっきのは僕への告白?」


 アンジェリカはこくりと頷く。余計な言葉は要らない気がしたから。


「じゃあ、僕からもお返し」


 ほんのりと口紅の色を残して唇を離した途端、顔を上へ向けられる。

 ぐんぐんと距離を縮めてくるセレスの顔面へ、アンジェリカは口先を突き出し、軽く互いの唇を触れ合わせた。


「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だぁ……!」


 絶叫とも悲鳴とも言える叫びを上げて、よたよたとした足取りで部屋を飛び出していくダフィット。

 しかしアンジェリカたちはその後ろ姿に声をかけることすらなく、しばらくの間触れ合いを続けた。


 本来ダフィットに見せつけるための行為だったはずが一度始めたら愛おしくてたまらなくなり、止まらなくなってしまったのである。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 あのあと、ランドクリフ公爵邸を飛び出して行ったダフィットは行方不明となったらしい。

 キャロウ伯爵家の者による捜索が行われたというが、見つからなかったのだそう。どこかで平民に紛れて生き長らえているのかのたれ死んでいるのかは知る由もない。


 一方でキャロウ家に残されたカトレンとその父母は経済的に困窮しはじめ、おまけに婿に逃げられたことで他の貴族たちから白い目で見られている。没落するのも時間の問題だった。


「お義姉様! なんとかしてよっ!!」


 セレスと共に久々に出席した夜会にて顔を合わせたカトレンに、そんな風に迫られたことがあった。

 カトレンはおもちゃのような安物のドレスを身に纏っており、髪もボサボサ、化粧もろくにしていないという有様で、申し訳程度も着飾れないほどに貧しいことがひしひしと伝わってきた。


 しかしもちろんアンジェリカはろくに取り合うことはなく、セレスがささっと追い返してくれたので問題ない。


 まあ、自滅して転がり落ちて行った彼らのことなど、もはやアンジェリカにとってはどうでもいいことだ。

 おかげでかつて婚約破棄され駆け落ちしたアンジェリカの悪評は消えてなくなったので、それは良かったと思う。


 ランドクリフ公爵邸に身を寄せるようになってからちょうど二年目、セレスが次期公爵としての勉強を終えたので無事に結婚することができた。


 アンジェリカは晴れて次期公爵夫人というわけだ。


「ようやく、アンジェリカとまともに触れ合える」


「何度か一線を踏み越えそうになりましたものね。長かったです」


「一年どころじゃない。僕は出会ってまもない頃にアンジェリカに惹かれてからずっとなんだから」


 人形のようだと称され、婚約者からも疎まれていたアンジェリカに惹かれたなんて、セレスは本当に物好きな人だと思う。

 そのおかげでアンジェリカは今こうして幸せを掴めているのだけれど。


 二人の体が折り重なりながらベッドに倒れ、直後、熱烈なキスの雨が降り注ぐ。

 アンジェリカはそれを全身に浴びながら幸せを噛み締めて、そっと目を閉じた。

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[一言] まったくぅ。 アホばっかやなぁ……こういう職場は離れるが吉ですね!(そういう話か? なんにせよブラックなところから逆転できてザマァもできてスッキリだぜ!
[良い点] 主をフォローするのが執事の役目。 その方法が素敵でした。 また、口調が変わるのも。 慕ってくれているのが伝わっていただけに、ドキッとしました。
[良い点] 爽快な話で、楽しく読めました。 [気になる点] 貴族の婚約って、家同士の契約ですよね? 令嬢自身がどんな書類にサインしようと、当主である父親の承諾なしに成立するものなのか謎です。 駆け落ち…
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