第二十一話 出会いの日2(過去編④)
母が死んだ。
それが、自分とは違う生き物であることを幼すぎる彼は知らなかったし、だんだん冷たくなっていく姿が死を意味するという事も分かっていなかった。
ただ彼は本能でこのままだと自分も死ぬということを察して、餌と温もりを求めて――そして、何となく、自分と似たような生き物に寄っていった。
それだけだった。
それだけだったけれど。
この自分よりもずっと大きな、自分とは形の違うその温もりの側にいたいと、そう思った、それが、“二人”の始まりだった。
『おきた?』
ふと、自分よりも幼い声が聞こえた気がして、ネロはドアの方を見た。
「今の――」
「ああ、そういや忘れていた。お前が落ち着いたら聞こうと思っていたんだ」
聞き間違えかとも思ったが、同じように扉を見たソルが立ち上がったため、そうではないらしい。
少年が開けた内開きのドアの先には、尻尾を振る小さな黒犬がいた。
愛らしい目をした子犬はネロと眼が合うとベットの側まで駆け寄ってきた。
「なに、お前犬見るの初めて?」
「いや、あるけど……」
目を丸くするネロを揶揄うソルに、一応首を振る。飼い犬に馴染みはなくとも、森の中の野犬と遭遇したことはあった。どちらかといえば怖い存在ではあったが、時折人懐こいものもいたため、犬そのものに全く馴染みが無いという訳ではない。
だが。
『おきてた!』
「……でもしゃべるの見るのははじめてかなあ」
「初めてっつうか、普通、犬はしゃべらねえんだよな」
――人の言葉、あるいはそう聞こえる音を話す動物が、まったくいないという訳ではない。ただ真似るだけなら、何種科の鳥がその光景を見せてくれるだろう。
だが。
『よかった。おきてくれなかったから、こわかったんだよ』
「ええっと……君は?」
『?』
「ああ、えっと、とりあえず、なまえは?」
『なまえ、ないよ。その人にもきかれたけど』
「そうそう、名前が何かも分かっていなかったんだよ、こいつ」
――単純に言葉を理解していないのではなく、概念として、固有名詞として呼び名があるという事を知らない。
幼いのだから当然だ。そもそも人とは違う生き物だ。
にも拘らず、意思疎通そのものはあまりにもスムーズだった。やり取りを丸ごと覚えさせたとしてもこうはならないだろう。
彼は明らかに、「人の言葉を聞いて」「理解して」「人の言葉で」応答していた。
ただ口が開いているわけではなく、その言葉はまるで頭の中に直接響かせているような音だったが。
それはもう、確認されている既存の生き物ではありえない。
つまり、完全に新種の生き物か、あるいは。
(魔物。心臓があるから、半魔)
両親は言わなかったが、それはソルも理解していた。
ちら、と子供の方を、正確にはその頬を見る。その上で、虫を振り払うように頭を振った。
まだ、踏み込むときではない。
「お前が森の中で倒れていたの見つけたときにさあ」
何でもないように呟かれた言葉に、ネロが高い声を上げた。
「え、あ、もしかして、君が助けてくれたの――?」
「ん、ああ」
今更な確認に、ソルは軽い調子で頷く。
「あ、ありがとう……」
最後の記憶が倒れていた時なのだから、誰かが運んでくれた、ということまで考えが及んでいなかったネロは少しだけ恥ずかしそうに頭を下げた。
「んー。別に気にしなくていいよ。おかげで帰るの遅くなったのごまかせたし」
本当に気負うことなくそう返してやった少年は、それより、と本題に戻した。
「でさあ、その時にこいつがお前の側を離れなくて、それで一緒に連れてきたんだよ」
「そ、そうなの?」
「お前ん家のやつなのかなーって思っていたんだけど、こいつの話だとよくわかんなくてさあ」
「ボク動物飼っていないよ……。君、何でボクといたの?」
ソルに摘み上げられた子犬がネロの腕の中に収まる。
眼を合わせれば、きゅうんと愛らしい鳴き声を出した
『あったかかったから、いっしょにいたかったんだよ』
「へ?」
『よかった。あったかいままだ――』
当然の疑問に、返ってきたのは思いがけない言葉で。
すりすりと身を摺り寄せる小さな命に戸惑ったような声を出す幼い少年、という光景を全てひっくるめて、ソルは笑う。
「今まではちがっても、これからそうなるのは確定だよなあ、これ」
まあ父さんも母さんも大歓迎っぽいけど。
小さな野良犬の先を予測していたソルの耳に、小さな声が届いた。
「あのとき」
「ん?」
「ねむっちゃう前、少しだけあったかいなって思ったんだ」
少年はいつの間にか顔を伏せていた。腕に力がこもっている。
「あれは君?」
『? 分からないけど、ないていたから……』
問われた側は、そっとその目元を嘗める。
その時と同じように。
『もうないていないね』
ふにゃり。
笑ったその姿に、ネロは何度か口を開いて、ようやくそっか、と零した。
――心細かった。
痛くて、不安で、なぜかとても苦しくて。
このままどうなってもいいとすら思っていた。
それでも、何か暖かいものを感じたことは覚えている。
そばにいてくれたことを、嬉しいと思っている。
「――ありがとう」
力を抜いて、自分から頬を寄せた。
「あったかいね」
「一つ、思いついたんだけど」
交流とネロの精神が落ち着いたと見做して、ソルは一つの提案をする。
「名前、お前が付けてやれよネロ」
「え」
「ペットの名前は飼い主が付けるもんだろ」
「ペットじゃないんだけど……。なまえなんてつけたことないよ」
それに戸惑うネロだが。
『ぼくも、ネロにつけてほしい』
本人に追撃されてしまっては逃げがたい。
眉間に皺を寄せながらも考えていたカニスがふと思い出したのは、かつて父が呼んでいた呼び方だった。
「犬」を種として、変わった呼び方をしていた。それが妙に頭に残っていたのだ。
その呼び方は――。
「カニス」
それがそのまま口から零れ落ちる。
『カニス』
瞬きをしながら、子犬自身がそれを繰り返す。
「そう、だろう……?」
不安そうな声に、子犬は花が咲くように笑った。
『ぼくはカニス。よろしく、ネロ!』




