第十九話 地獄の日(過去編②)
森の中をローブを翻し歩く黒ずくめの男の前に、一つ軽い影が落ちた。
「良かったの?」
「何がだ」
それは、若い女だった。
無闇矢鱈と膨らんだ短いドレスの女は着地時の姿勢のまま、眉をひそめて青年を見上げる。
「……あの先には、魔物がいたでしょう」
言われた青年は目を逸らした。
彼らの職業倫理に基づけば、それは間違いなく咎められる行動だ。
だが。
「仕方ないだろう。子供の前で親を殺せとでも?」
木にもたれかかりながら青年は息を吐く。その視線は来た道に向けられていた。
「狩人の決まりより人としての倫理観を優先させたまでだよ」
「……まったく」
「それに――本題は、あの村の方だろう」
ふと、その声が低くなった。鋭くなった目線が、また別の方を向く。
「噂は本当だった――ってことね」
「――恐らくは。人手が欲しい。一度王都に戻って報告したら、もう一度来よう」
「ネロ!」
走って、走って。
開けたところに出た瞬間、欲しかった声が聞こえた。
「お母さん……」
「一人でどこに行っていたの!」
心底焦った表情の母に抱きしめられながら、ネロは、あ、と出そうとした声が上手く形にならず、何度か息継ぎをする。
「勝手に遠くに行ったらダメってあれほど……ネロ?」
「ご、めんなさ……」
何で出かけたはずの母がいるのだろうとか、勝手に出歩いていた事がバレたとか。
普段なら頭に浮かぶことが何も出てこなかった。
「ごめんなさい。ごめんなさい……!」
ほとんど本能のままに逃げてきた少年は、今になって、大人の力の強さとか、詰められた距離とか、瞳孔が開いた肉食獣のような眼とか、そういったものに与えられた恐怖と、母に抱きしめられた安堵が一体になって、ただただ涙を流していた。
「……忘れ物しただけだったけど、タイミングが良かったみたいね……。無事でよかった」
「うん。ごめんなさい……」
家の中まで連れられ、抱きしめ頭を撫でられながら拙く話すうち、ネロは次第に落ち着いてきたが、反比例して母の顔は険しくなっていく。
「それで、その人はリトアーレ村の場所を聞いてきたのね?」
「うん。答えちゃダメだった……?」
恐る恐るといった様子で母を見上げる息子に、少しだけ苦みの残る顔で笑い、手を握った。子供の柔らかい肌と、固い鱗の感触が返る。
「それは大丈夫。でも……予定が早まったな」
「え?」
「本当は、今日カロに話してからにするつもりだったけど」
抱きしめていた体を離し、手は握ったまま、エレシーナはしゃがみ込んで目を合わせた。
「ネロ。私たちは、お引越しします」
しんとした空気でそれを告げてきた母に、ネロは耳慣れない言葉に、まずその意味を考える。
「おひっこし? あたらしいおうちにいくの?」
そういう絵本を読んだはずだと、問いかければ、母は頷く。
「そう。お母さんの、お友達のいるところにね。写真、見たことあるでしょう?カロとナナ。二人のところよ。――このおうちから離れなきゃいけないの」
まだあまり理解していなさそうな息子に彼女は一度口ごもり、それでも告げた。
「しばらく、お父さんとも会えなくなります」
「え、やだよ!」
反応は劇的だった。きょとんとしていた少年が、いっそ噛みつくように叫ぶ。
元々、泉から離れられない父とはずっと一緒にいられるわけではない。それでも、毎日のように会いに行って、褒められたり叱られたり、そういう時間が好きで――父のことが好きだった。
「ごめんなさい。けど、そうするしかないの」
「やだ……。お父さん……」
「ネロが強くなったら、また会えるから……」
縋りつく子供を抱きしめて、頭を撫でて宥める
実のところ、距離だけで言うなら会えないというほどというわけではない。子供の足で毎日というのは難しいが、少なくとも大人にとっては、ここが山に囲まれた場所にあり、かつ森の中、整備もされていない道まで踏まえても日帰りで行って帰ることに難のない、その程度の場所だ。
だから、問題は距離ではない。
「お父さんに会おうとするのは、ネロもお父さんも危険なの。ここから逃げて、村の人たちに見つからないようにしないと……。あの人たちに知られた以上、ここにいるわけにはいかない。もしここに留まったり、戻ろうとして見つかったりしたら、二人が何をされるか分からないから……」
最後はほとんど独り言だった。
それでも子供は、その言葉をしっかり聞いて、自分なりに咀嚼して、そうして。
「ぼくのせい……?」
瞳を揺らして肩を強張らせる少年に、母の方がハッとなる。
「あの人たちに知られたから、って、つまり、ぼくがあの人に会っちゃったから……・?」
「違う、違うのよ、ネロ。元々、お引越しはしなくちゃいけなかったの。父さんとその話はしていたし、いつかは来る日だった。それが今日になっただけ。そうしなきゃいけなかったのは……お母さんのせい。ネロのせいじゃない」
強く胸に引き寄せる。
「ごめんね、ネロ……」
まだ幼い少年は、なにも飲み込めないまま、ただこれ以上何かを言っても困らせるだけで何も変わらないのだと、そう悟って黙って母の服を掴んだ。
「持っていきたいもの、ある?」
「……えほん」
ただその願いだけは、はっきりと口にした。
『そうなったか』
まもなく荷物をまとめて龍の元に来た母娘に、龍は静かに応えた。
「ええ――。思っていたより、早くなったけど」
『前に言った通りだ。私のことは気にしなくていい。これが今生の別れというわけでもない。――ネロ』
「……お父さん」
優しく、だが淡々と話を進めながら、彼は縋るような眼をする愛息子に首を寄せる。
『大丈夫だ。お前が、一人で問題なくここに来れるくらいの力を付ければ、また会える』
「……だって、それって、いつ」
詰まらせながら、それでもネロは問い返した。ここで、黙ったままで別れたくはなかった。
『私の息子だ。あっという間だろう。だから』
――泣くな。
まだ六歳になるかどうかの子供には、あまりにも厳しい言葉。
それでも少年は鼻をすすり、目に力を入れ、嗚咽を噛み殺そうとする。
『逃げなさい、ネロ。――お前が、お母さんを守るんだ』
「……うん」
健気に頷く男児に、彼はそっと耳打ちした。
『一つだけ、私のとっておきを教えてあげよう』
流れるように告げられた言葉を、なんとか覚えて、復唱する。
「――――――」
『ああ、それでいい』
そんな父と子を見守っていた母は、やがてそっとネロを抱き上げた。
「じゃあ――行くわね。愛しているわ」
『私もだ。我が愛しの家族――。エレシーナ。ネロ』
軽く手を振り、互いに背を向ける。
これが最期ではないと、そう信じて。
愛する二人が完全に去ったのを見てからそう経たないうち、龍は表情を険しいものに変えた。
力を最大限立ち昇らせる。
(気配……複数……)
どう好意的に見ても味方ではないと判断できる、その気配がもたらす悪寒。
構えていれば……泉に続く道の一つから、影が二つ現れた。――人の形をした、影が。
『……人間が何の用だ』
「ああ――主よ――!」
そのうちの片割れ、若い男が、龍の言葉に答えもせず感極まったような声を上げた。
両手を組み主と呼ぶ、と書けばまるで敬虔な信徒のようだが、その声や表情からはそんな言葉とは到底紐づかないだろう。
強いて言うならば、狂信者か。
「祖母を迎えに来て、まさかこのようなお方に会えるとは」
頬を紅潮させ、まるでよだれを堪えるような動きをする男の横に、老婆が並ぶ。恐らくは彼女が男の言う祖母であり、そして。
⦅ネロの会った……エレシーナの故郷の者か⦆
妻の言葉を思い返しながら、龍は自分の体を伸ばした。多くを水中に沈めていた胴体をあえて晒し、明確に見上げる構図を作る。
『何だ、お前らは』
その、意図するものに気付いたのか、男はすっと龍に向き直り、静かに怪しい笑みを浮かべた。
「ああ、大変失礼をいたしました。あなた方、魔と呼ばれるものに仕える一族ですよ」
その答えは龍にとっては想定通りのもので、だからこそ内心で舌打ちをすることとなった。
「できれば、あなたにもわが村に迎えたいのですが……」
『あいにくだが――私はここからは動けない。それに、お前らのようなものに関わる気はない』
見ての通りにな、と前足を広げてやれば、男は思案気に首を傾げる、ふりをする。
「動けないのでしたら、都度こちらから赴きますよ? ああ、それと――祖母が会ったという御子も迎えたいところです」
こてんと、横に倒した首は人形のような角度を保ったまま、男は何も変わらぬ声色で返した。
『……何の話だ』
その声に、感情は混ざらなかったはずだ。
「やはり……あの子供はそうであったか……」
にもかかわらず。
重い口を開けた老婆は、そう口にしたのだ。
「魔法などという神の領域に手を伸ばした愚かものが、あろうことか神の遣いを誘惑し独占しようとするとは。ああ、だが、腹がそうであれ、神の遣いを降ろした子は守らねばなるまい」
『貴様……!』
男とは異なる静かな声色で、老婆が紡ぐ声。
普通に聞けば意味が分からない戯言だろう。
だが、その村がどういう村であるかを知る龍には、伝わっていた。
その内容は――エレシーナを侮辱し、ネロを保護という名目で監禁するものである、と。
「ああ、祖母は心を読めるのですよ。尤も、相手の言葉を聞いた時のみなのですが」
故の激昂に、若い男は全く見当違いの補足を入れる。
龍は奥歯を噛み締めながらも一旦息を吸った。
『お前らの村の者は魔法を使えないのではなかったか』
あえてその補足の方に言葉を挟めば、彼は心外そうに「何をおっしゃいます」などとのたまう。
「これはあなた方の御業ではありません。巫女があなた方の声を聞くための――」
『御託は結構だ。興味もない』
反論を一言で切って捨てられたことに男は僅かに鼻白んだが、すぐさまにっこりと笑って見せた。
「幼子が魔の者の特徴を持ち、その心に領域を犯した者があったと――。村に早馬を飛ばして、私たちは先んじてきたという訳ですよ」
もってまわった言い回しだが、要約すれば、子供が魔物の特徴を持っていて、その心 を読めばエレシーナが……かつて村から追放された女のことを思い浮かべてきたから追ってきたということだ。
『“魔物を神様の使いと捉え信仰し、魔物を村で匿い、村人は魔法を使わない、使える者は追放する村”――というのが人の間での噂で、エレシーナはそれを概ね事実だと言っていたな』
「そうですね。それのどこに問題が?」
あっけらかんと答える相手に龍は鼻を鳴らす。
魔物を敵とするこの国の人間ならば様々な問題がある発言だが、今ここでは関係ない。
重要なのは、そこがエレシーナを迫害し、追放した村であること。
そして、そんなところに息子を連れていかれれば、どう甘く見積もっても自由はないだろうということ。
村では魔物を祀っている。その一つとされる、というのが一番高い可能性だ。
そんな道を、親として望まない。
『あの子に手を出すな』
「手を出すなどと。丁重に神子としてお迎えいたしますよ」
告げた言葉は素通りした。
そして龍は、それを最終通告とした。
「dypt<」
耳慣れない、どころか人では発音できない言葉が、その場を支配した。
雲が立ち込め、雨が降る。
風が吹き、雷が鳴る。
「嵐……! 急に……!?」
「まさしく御業か……」
急速に力が奪われるような感覚に、男は膝をつく。
『この雨は、一粒一粒が毒となる。降る対象は、こちらで選別できる』
熱のこもらない瞳で見下ろす龍は、宣告する。
『対象はお前らと……あいつらだ』
大きな羽音がし、森から、空から、鳥や巨大な蜂が落ちてくる。
「ああ――。なんてことを」
それはいずれもどこか歪に飾り付けられており、自然界のものとしては不自然に汚れが少ない、綺麗な様子をしていて。
そして外見では判別できずとも……そのすべてが、この国の人間が魔物と呼ぶ存在であることを、龍は判別していた。
「申し訳ございません。――我らが神よ。」
隣で倒れ込んだ祖母を支えながら、それでも男は笑っていた。
「ですが今……あなたたちの使が参りました」
『……!』
その、上がった口角に背筋に何かが這い上がる感触を覚えると同時、地面に堕ちた魔物たちに彩る腕輪や首輪、羽飾りが光を帯び、一つの線となり、光の膜となり――そこから人影がいくつも飛び出してきた。
その誰も彼もが剣や、あるいは斧や鍬を構えている。
『あらかじめ装飾品に手を入れていたのか。時間で発動するように。自分たちではなくそいつらにつけさせたのは、あくまで魔の者が使った技……としたいわけか?』
「したい、も何も、彼らの力ですよ。我々が祀る神の使い達が、我等の願いに応じて戦うために共に来てくださり、我等の仲間が来る道を作ってくださっただけのこと」
ぼんぽんと言葉を吐く男に軽蔑の眼差しを向けると、彼は何ということもないように返して、祖母を他人に預けると揺らめきながらも立ち上がった。
「申し訳ございません、少しだけあなたをここに留めさせていただきます」
『……足止めか。つまり、エレシーナとあの子をもう追っているという事だな』
「ええ、ですから、大人しくしていただけると助かります。そうですね。できることならば、その力を見せていただけると――……カッ……?」
「esyrt deptf」
つらつらと話す男に、どこまでも冷たい目を向けて、龍は言葉を放つ。
「ftshpm smhrt」
どうあがいても、龍は家族の危機をどうすることもできない。
できるのは、せいぜいここの人間を一人も逃さないということくらい。
「+ptf pg yjr gpimysom <slr s kifhr<rmy」
嵐が強まる。
「Fobomr `imodj<rm yeo++ vp<r」
その毒も。
「Fodsdyrt nrgs++d `imodj P`rm yjr esu」
人間たちはあちこちから血を流し、倒れ伏す。
それでも襲いかかってこようとする人間は、その毒性を持った水の塊をぶつけられ、のたうち回る。
「勝てる、などと思い上がったつもりはありませんでしたが……。ここまで一方的になりますか」
地面に沈みながらも、顔を上げて笑う最初の男は、よほどの根性の持ち主なのかもしれない。
『龍神の天罰だ』
静かな低い声が場を支配する。
『我が名はテンペスタース・サン・ドラクーン! 望む通り――我が名を持って、今、裁きを下す。この地には厄災を、汝らには罰を、愛しき我が子には道を!』
五分後、そこに生きている人間はいなかった。
「日が落ちてきたわね」
「うん……」
はじめは自分の足で歩いていた少年だったが、次第に限界を迎え、今は母に背負われていた。不安そうに目の前の襟を摘む息子を母はあやし、呼吸を整える。
暗くなった山道は人からは見つかりづらいが、動くには危険だ。完全に動けなくなる前に少しでも進もうと気合を入れなおし、一歩進んだ、その時。
「よう、エレシーナ」
氷水を浴びせられたかのような感覚が、その足を止めさせた。
振り返った先にいたのは、ナイフを持った同年代の男。エレシーナは、その男を知っていた。
「ギア……」
「久しぶりだなあ、おい。まさかガキ作っているとは」
意識せずこぼれた名前に男はニヤついて、ナイフの柄で肩を叩く。
「にしてもつれないねえ。そんなに睨んでくるなんて。同じ学び舎にいた仲だろう?」
「ええ、そうね。――あなたのせいで何度死にかけたことか」
その男に冷たい視線を返しながら、エレシーナはそっとネロを下ろした。見えぬように、紙を二枚ポケットにねじ込みながら。
「お母さん……?」
「ネロ」
男から目を離さぬまま、彼女はネロにしか聞こえない程度の声で告げる。
「行きなさい。あなた一人で」
「え」
それは、いつになく鋭い声をしていた。
「カロとナナに会ったら、その紙を見せなさい。きっと、力になってくれるから」
少年の目が揺れる。
そんな子供に、母は少しだけ笑ってみせた。
「あなただけなら、逃げられる」
その笑みは、しかし何の安心ももたらさない。
「だめだよ、だってぼく」
お父さんと約束したのに。
言い返そうとした少年の体を、エレシーナは力いっぱい押した。
「わっ!?」
「おいおい、逃がすとでも思ってんのかあ!?」
その行動に、余裕そうだった男は顔に狂気を載せて一気に二人に迫ってきた。
「風よ!」
その男の前に立ちふさがり、女は強く唱える。
それに応じるように、子供の体は浮き上がり、風に流されていった。
「チッ……」
舌打ちした男は、改めて女に向き直った。
「追わせない!」
「……なら、まずはテメェからいたぶってやるよ」
「ひっ、う……」
目指す場所は遠いが、朝に出かけて夜には戻って来られる程度の場所だ。
大人の足ならば。そして、道を知っているのならば。
「あし、いたい。立てない」
ポケットに入れられた紙のうちの一つは、行き先までの地図だったが、風に飛ばされ、もはや自分がどの方向にいるのかもわからない状態では意味がない。
無闇矢鱈と動き回った少年は、派手に転んで、そしてもう、動けなかった。
「たすけて……お母さん……」
ポロポロと零れてくる涙を拭うこともせず、少年はただ地面をひっかく。
クゥン。
「あ……」
気が付けば、何か小さい生き物がそこにいた。
逃げないと、と反射的に思う。
目はかすんで、よく分からなかったけれど、ここには味方なんていないのだと、彼は既に理解していた。
なのに、散々追われて、体は言う事なんて聞いてくれなくて。
抱きしめてくれる人は、側になくて。
もう一度会えるかも、分からなくて。
(……もう、いいかな……)
ふ、と体の力が完全に抜けた。
まだ生死なんて漠然としていて、それでも森の中の家で暮らし、死ぬという現象は知っている子供は、それを受け入れた。
閉じてしまった目の上を、何か暖かいものが撫でていった。
「おい、お前、大丈夫か? ……意識ないなこりゃ。まいったなー。放ってもおけないよなあ。とりあえず連れ帰るか? なあ、お前、こいつの飼い犬だったりする?」




