第十八話 幼き日(過去編①)
これは、少年の、優しい記憶と、悲しい記憶の話。
――十年前。
「ねえ、お母さんみて!」
子どもの高い声に、女は振り返ってぎょっとした。
小さな水の塊が一つ、自分の目線の高さでふわふわと浮いている。
「え、ネロ? これ……」
「すごいでしょ!」
まだ幼い子供はふふんと胸を張って、持っていたスプーンを掲げた。
「前に聞いたおはなしのマネをしたらできたよ!」
ねえ、みてて、と言いながら、彼は拙い声で聞き覚えのある言葉を紡ぐ。
「でぃふ、みでぃ、ふぁい、ふぉーるま、あくあぼーる」
それは、確かに女がこの愛息子に読んで聞かせた、寝物語に出てくるものだった。
応じるように、空中からにじみ出るように水滴が現れ、一つの塊となる。
「ね!」
得意げな少年の頭を母親は抱き上げた。
「ええ、すごいわ。ネロ」
「へへっ」
撫でられたことでふにゃりと子供が笑うのと同時に、ぴしゃ、と音を立てて弾けた水の塊がそのまま落ちて床を塗らす。
「あ……。ごめんなさい……」
「あら……。今度からお外でやりましょうね」
途端にしゅんとした少年に母親は苦笑して、それからそっと下に降ろす。
「それ拭いちゃうから、ちょっと待っていてね。後でお父さんにも見せにいきましょう?」
うん、と頷く少年が外へ向かったのを確認して、母は、はあ、と息を吐いた。
「まだ何も教えていない、見せてもいないのに」
古布を手にしながら、暗い顔で呟く。
弾けてしまった水の塊を拭き取りながら、彼女はそこにこの先を重ねてしまう。
「あの子にちゃんとした未来をあげられるのかしら。私たちは……」
「えい」
家の外に出たネロは空中に手を翳した。
「でぃふ、みでぃ、ふぁい」
空中から水分が集まり、水滴という形を持って少年の手を濡らす。
「ふぉーる……あれ?」
それらが複数の小さな球体になるイメージをしていたのだが、うまくいかずにただひたすら大きい塊になっていく。
やがてそれらはパシッという擬音と共に弾けた。
「つめたっ!?」
失敗した、と思うと同時に聞こえてきた声に顔を上げた。
水しぶきは思いのほか広がっていたのか、ネロから少し離れたところに、その主はいた。
若い男だ。ネロからは大人に見えるが、大人からなら少年と呼ばれる、そういう年頃の、黒いローブを纏った男。少年とは真逆の、闇のような髪を持つ青年。
それは――ネロにとって初めて目にする、自分と母以外の「人間」だった。
森の奥深くに一軒だけ建つ小さな家に誰かが訪ねてくることなど、これまで一度としてなかったから。
「えっと……、ごめんなさい」
「いや、勝手に近づいたオレが悪いな」
ごめんな、と彼は水滴を払い、少年に近づいてくる。
「おにいさん、村からきたの?」
「村には寄ってきたが、村に住んでいるわけではないよ」
屈みこんだ青年は、そっと幼子と視線を合わせた。
「何をしていたんだ?」
「えっと、れんしゅう?」
「練習か」
水の魔法だな、と青年は頷く。彼が右の手のひらを上に向けると、そこから水滴が滲みだした。
「君から聞こえてきたのはディフ、ミディ、ファイ。これは、だいたい空中から水分を取り除く……というときに使われているな」
そしてそれらは複数の塊に分かれ……まさしくネロが思い描いた通りに、小さな水の球がふわふわ浮かんでいる光景が生まれた。
わあ、と幼い歓声が上がる。
「フォールマは形成……形を作るとき魔法によく選ばれる言葉だ。この言葉を言うときに、自分がどういう現象を起こしたいのか強く念じてみるといい。というか、魔法に本来言葉はいらないんだ。そのイメージをどう出力するかという話で……」
「?」
「ああ、いや、なんでもない」
つらつらと言葉を並べられる言葉に首を傾げると、青年は頭をかいた。
「とにかく、失敗するなら魔力の生成方法かイメージの問題だろうから、とりあえずどういう形にしたいのかをよりしっかり考えられるようにするべきだよ」
「う、うん。ありがとう……」
ぎゅ、と小さな手を何度も開閉し、イメージ、と呟く。その仕草を見守っていた青年は、僅かに眉間に皺を寄せた。少年に気付かれないように息を整える。
「その肌、鱗があるな」
その結果、吐かれた音は平静だった。
「うろこ?」
「オレとは違うだろう」
青年が自分の頬と甲を指さすのにつられて、彼のそれと自身のものを比べたネロは、ああ、と頷く。確かに、彼とネロの手は違う。青年の傷だらけの手とは異なり、また幼く、小さい、綺麗な、手の甲側はわずかに固く薄い透明なものが重なっている、そういう肌。
「これのことでしょう」
その重なった、手の甲の鱗を少しだけ捲って見せる。
「おにいさんもなんだね。お母さんもこれはないんだよ。お父さんとは、同じなんだ」
それが意味することなんて知らないまま、少年は無邪気にそう答えた。
「そうか。……少し触ってもいいか」
「え、うん」
その様子に、青年は少し目を伏せ、幼い手に触れた。すぐ剥がれそうな薄いそれを撫でて、滑らせた内側、手首に指二本を当てる。
「おにいさん?」
「……半魔か」
黙ってしまったことに不安になって声をかけると同時に、彼はそう呟いた。
「え?」
呟かれたそれの意味が分からず首を傾げた少年に、男は、いやと首を振る。
「何でもない。悪かったな」
立ち上がり背を向けた青年は、何歩か歩いた後、首だけで振り返った。
「……それは、その鱗は、他人には見せない方が良い。普段から、外に出る時は隠しておけ」
「え?」
「お父さんとお母さん以外に会うときは、見せるなよ」
髪と同じ漆黒の眼に真剣な光を宿らせた青年は、そのまま去っていった。
「……へんな人」
子どもの素直さで思ったまま言葉にしたネロは、そのままその姿が見えなくなるまでぼんやりと目で追い続けていた。
『水魔法か。さすが私の息子だな』
少年と母親が住む家からさらに奥深くまで進んだ場所。滝が流れ落ち、泉となっている人が訪れることのないその場所に、深く低い笑い声が響いた。
「えへへへへ!」
それに応える幼い声の持ち主は、その泉の主に手を伸ばす。
「すごいでしょ!」
『ああ。素晴らしいぞ、ネロ』
甘やかすような表情で口元を幼子に触れさせるそれは、当然ながら人ではない。
蛇のような長い身体に、鬣と二本の髭を貯え、角と鋭い爪を持つ、青い生き物。
この泉に棲む魔物。
魔物に名を付けないルナステラ王国に適切な呼び名はない。
だが、例えばそう、遠い異星の島国の呼び名を借りるなら、こう呼ばれる存在が、最も近いだろう。
――龍。
それが、ネロの父だった。
『エレシーナ。お前が教えたのか?』
「違うわよ。というか無理なの分かっているでしょ。気が付いたら一人で覚えていたの」
『そうか。天才だな』
ネロの母――エレシーナが腰に手を当てて言う言葉に、父はさらに褒め言葉を足す。
「まだこれしかできないけどね、いつか、おはなしのゆうしゃさまみたいにいろんなまほーをできるようになりたい!」
『はっはっは、そうかそうか。ならば私のとっておきを……』
「待ちなさい」
頬を紅潮させ、一生懸命に語る息子の頭を爪を当てないように撫でた父は内緒話でもするように途中から声量を下げて提案し、子供が何かを言う前に女に叩かれていた。
「それはネロがもっとちゃんとコントロールできるようになったらよ。息子にこの一帯を更地にさせるつもり?」
『むう……』
ぐうの音も出ない、というような態度をするがそれ含めてお互い分かりきったことだ。
じゃあれんしゅうする、と水で遊び始めた子供を眺めながら、エレシーナはほとりに腰を下ろした。
「……あの子は、きっと普通の子供が魔法を使うときよりも数倍気を付けなければいけなくなる。ちゃんと教えないとだけど、私もたいがい特殊だから、そのうちナナのところにでも連れて行こうと思って」
『ああ、あの夫婦か。確かに彼らならば問題ないだろう』
「……遠いって問題があるけどね」
友人であり、ネロを取り上げてくれた医者のことを思い浮かべて、女は嘆息する。
「彼らが側にいてくれたら……って何度思ったことか。でど、こんなところまで何度も呼ぶわけにはいかないし、あの子がある程度成長するまで人里に連れていくわけにもいかないし」
人の形をしながら、人とは異なる特徴を持って生まれてしまった少年は、大半の人間にとってどう見られるか。まっとうにこの国で育った人間にとっては、それは想像に容易い。
『あの村に連れていくよりはマシだろう』
「……あの村は論外、らしいわね。ナナ曰くだけど」
頬杖をついて、泉の水を浮かばせ始めた子供に聞こえないように、声を潜める。
「何も教えないまま、絵本の言葉だけであの子は魔法を使った。あの程度ならともかく、あなたの力を引き出して使うようになったら、あの子自身が危ない。だから……さっきは連れていく、なんて言い方したけれど」
『分かっている。……ナナ―シャとカロシーたちとすぐ会えるところに住んだ方が良いという事だろう』
「……ええ。カロにも前からそう言われていたの。魔法のことはもちろんだけど、もし魔法が使えなかったとしても、あの子がある程度成長して見た目を誤魔化せそうなら――人の中で暮らせるようにした方が良いって」
いずれ人の中で暮らすしかないのだから。
膝の中に顔をうずめた女は、だから、とだけ続けた。
『ああ――そうだな。私のことは気にするな』
「――ありがとう」
そうなれば、きっと今のようにここに来ることは出来なくなる。
けれど子供の為を想うならばそれが正しいはずだ。
だから、母は近いうちにここを離れるという決断をして、父はそれを受け入れた。
「お母さん、お父さん、見て!」
それを、その理由を、水を操ろうとする少年は、まだ知らなかった。
父はあの泉から出られない。
母子二人暮らしで頼れる者もないので、エレシーナはたまに森の中の珍しいものや魔法で作った小物を売りに出かけていく。
一番近い村には行くことが出来ないし、行ってはいけないから、遠くの友人の元に行くのだと、ネロは白黒の写真を見せられたこともある。何かあったら頼りなさいという言葉と共に。
そして母が不在の時、ネロはこっそり家を抜け出していた。
家でじっとしていられるほどおとなしくはなくて、ついでに親が帰ってくる前に家にいて、おもちゃで遊んでいましたよという顔をするくらいには小賢しかった。
「ぼうけんだ」
無地のシャツと半ズボンと簡素な靴で、鳥や虫の声を聞きながら慣れた森の中を歩き回る少年の気分は、絵本の中の勇者だった。その辺りで見つけた木の棒を剣のつもりで振り回し、呪文を唱える。
ごっこ遊びではあったけれど、それは少年の夢だった。
いつか、それくらい戦えて、魔法がつかえるようになりたかった。
ただそれだけの、子供の姿だった。遠くから見る分には。
「もし、そこの坊や」
急に自分以外の声がしてネロが辺りを見渡すと、木と木の間から老婆が現れた。
「え」
「すまない、坊や。リトアーレ村がどっちか分かるかい?」
思わぬ、道ではないところから現れた知らない人物と、その言葉に少しだけ驚く。
それは、母に行ってはいけないと言われている村だったからだ。
「あっち……だったと思う。いったことないからわからないけど」
「そうかい。それでも助かるよ。ところで坊やはどこの子……」
ただ純粋に子供に道を聞いている、それだけだった老婆は少年の顔を覗き込み、くぼんだ目をガッと見開くと少年の頬を掴んだ。
「わ!?」
「お主……これはまさか……!」
そのしわだらけの手が少年の頬を、鱗をなぞる。
「はなして!」
悪寒が走り手を振るが、意外と強い力に上手く逃げ出せず。
「あくあぼーる!」
咄嗟に叫んだ瞬間、顔と顔の間に不格好な水の塊が現れ、それが想像以上の力で弾けたことで老婆の手から離れた少年は、そのまま駆け出した。
「魔の力……。そしてあの姿……!」
老婆は追いかけては来なかった。ただ、その不気味な呟きは、少年の耳にはっきりと残っていた。
大人が子供に道を聞いてはいけません。




