序章 それは、ただのよくある出来事
“ついに、ゆうしゃはまおうをたおしました。
せかいにあながあくことはにどとなく、かれのなはみらいえいごうかたりつがれたのでした。”
レンガ造りの家が立ち並ぶ昼の港町は、今日も活気に溢れていた。
多くの人たちが行き交い、その隙間を縫って幼い子供たちが駆け回る。それらを屋台から店主が呼び止め、そのあちこちで笑い声や時には怒号が響き、静かな時など一瞬たりともない。
「ほら、そこのお兄さん! そんな恰好で大丈夫かい? これ食べていきな!」
今上がったのもそんな中の一つ。だが、その言葉を向けられた相手は、この人ごみの中においてもいやに目立った存在だった。何せ、何もしなくとも汗がじんわりと滲んでくるような夏の只中に、深い黒色に青い刺繍が入ったローブを纏い、頭にはしっかりとフードが被せられていたのだから。その足元にはローブと同じ色の大型犬がぴったりと寄り添っていて、言葉は悪いが暑苦しい。
屋台の女は商魂半分善意半分で絞った果実水を差し出したが、ローブの男は緩く首を振った。
「大丈夫だよ。悪いな、あんま金持ってねえんだ」
苦笑混じりのその声はまだ若い。背も小柄で、恐らくは少年と呼べる歳だろう。大きい荷物を肩にかけ、腰に剣を差しているあたり旅人だろうか。そのまま彼は裾をひらりと揺らし、また歩き出した。
いや、歩き出そうとした。
実際には、一歩踏み出したところでその足は止まったのだが。
彼の視線の先にあるのは、町の中央にある大きな噴水。
人が特に集まっているその場所で、ジジッという虫の声のような音と共に、空間に亀裂が走った。
「――逃げろ!」
男が叫ぶと同時に亀裂は上下左右に引っ張られるように開く。
ボタンの穴のように広がったその向こうは何も見えない、暗黒。
甲高い悲鳴が上がった。
それを合図に、人間はみな一様に青ざめ、少しでも遠ざからんと走り出す。
「くそ、デカいぞ」
「討伐隊はまだか!?」
ただそこにある動揺は、見たことが無い、不可思議な現象などではない。
この地に生まれた人間で、今起こったことの意味を知らない者など誰もいない。だからこそ、彼らは正しく恐怖し、逃げ惑う。
「おい、アンタ!」
「大丈夫だ」
その中で一人、穴の方へ走っていくローブの男に、果実水の屋台の店主は慌てて手を伸ばそうとしたが、彼はあっさりと人波を抜けていった。
宙にぽっかりと浮かんだ黒い空間から、鋭い足をふちに引っ掛けるように臙脂色の足が出てくる。続けて、蛇のような顔とうろこに覆われた体が外に出され、落ちる寸斬に羽が広がった。
その体が火を纏った。
――魔物。
本来この星には存在しない、この宙に突如穴が開くこの現象の時にしか現れることのない生き物を、人はそう呼んだ。
「キャッ」
人は押し合いながら走り続け、その波の中で逃げ遅れていた少女が一人派手に転んだ。
「……あ」
その時、ようやく全身が現れた魔物が大きく嘶いた。
体を起こそうとした彼女は、その魔物の琥珀色の眼を見てしまう。
「や、だ」
口からは自然とそんな言葉が零れる。
どうしたって理解してしまう。
今、自分は獲物と定められた、と。
「死にたくない……」
魔物の首が振られ、少女の方へ炎が飛ぶ。
咄嗟に避けることなど出来るはずもなく、少女はただ、目の前に迫る死に目を瞑るしかなかった。
だから。
「泡の剣! 」
少年の声に目を開き。
次に見るものが剣が火を切り裂くその瞬間になるなんて、思いもしていなかった。
「え」
「カニス! 」
フードが落ちたローブの男は、後ろでくくった長髪を揺らして身を翻すと、鋭い声で何かの名前を叫んだ。
それに応じるように、黒い犬が魔物へと嚙みつく。少なくとも象程度はあるその生き物と犬とのサイズ差は歴然だが、その攻撃は大きなダメージを与えたらしい。喉から悲鳴を上げた生物は仰け反り、その合間に犬は跳躍して距離をとる。
「よくやった、カニス! 」
ローブの男はカニスと呼んだ大型犬に並ぶと、再び剣を構える。その周りにふわふわと無数の水の塊が浮かんだ。銀色の髪が太陽の光と水滴できらきらと輝く。
少女の瞳は捉えていた。先程彼女を助けた時、水を纏った剣で炎を散らし、その水の塊で炎を消し去った、その光景を。
「穴がデカいから警戒したが、雑魚だな。こりゃ」
少年はにっと笑い、大きく跳躍する。
宙にいる相手に剣を向ければ、剣先から水が溢れ出した。
「ってわけで――とっとと死にやがれ!」
強い水流が魔物の炎を抑えこみ、弾けた火花は泡が消し去り、そうして剣が鱗を捉える。
やがてその水に流れが消えた時、巨体が揺らめいてそのまま倒れた。
その上に少年が軽い音と共に降り立つ。
「――討伐完了!」
その鮮やかな戦いに、まだ逃げ切っていなかった者たちは、座り込み、呆然と少年を見上げた。
「……お兄ちゃん、討伐隊の人?」
その中で少女が声を上げる。
「俺? 俺は一応、『狩人』だよ」
まだ新人だけど。
フードを被り直した少年は、青というには薄い、空色の眼を細めて笑う。
誰かが枯れた喉を引きつらせながらも、助かったのか、と呟いた。
それは少しずつ伝播し――やがて歓声へと変わった。
ルナステラ王国。魔物による被害に悩まされるこの国では、当然いくつもの対策を生み出した。被害が出れば国から騎士団を向かわせ、それで間に合わない場所の為に魔物専門の討伐隊と呼ばれる部隊を各地に置いた。だが、ありとあらゆる場所に出現する魔物に対してはそれでも追いつかない。
その中で約三十年前、現在の王がまだ王太子であった際に発案したのが、どこかに拠点を置くのではなく、あらゆる町を見て回り、魔物が発生すれば対処する警邏部隊の設置である。管轄や優先順位などなく、職務も純粋な魔物の討伐のみである彼らは通称、「狩人」と呼ばれた。
「本当に助かったよ。ありがとうね」
遅れてきた近くの拠点の討伐隊に魔物を引き渡し、報酬を受け取った少年は酒場で町の人間に囲まれていた。カニスは既に飽きたらしく彼の足元に丸まって鼾をかいている。
「どうも。まあ、仕事だしな」
ここは奢るからと言われ、渡されたものをとりあえず飲み食いしていた少年は、果実水の店の女の言葉に苦笑した。
「俺は狩人になったばっかりだし、倒せるやつで良かったよ」
「新人って言ったって、あんなのを倒せるなら立派なもんだろ。それにほら」
少年の肩を叩いていた女は、ふと手のひらを横に向ける。
流されてそちらを見れば、そこには七、八歳ほどの少女がいた。
「ああ、あの時の」
「お兄ちゃん、あの時、助けてくれてありがとう」
魔物の火に襲われかけていた子供だ。無邪気な笑みで頭を下げる少女に、少年もひねた態度は取れず、おう、と頬を掻きながら答えた。
「あとね、これ、お礼!」
少女は少年の手に何かを握りこませる。
そっと開けば、いくつかの小さな貝殻だった。
「私の宝物なの! お兄ちゃんにあげる!」
「――綺麗だ。ありがとな」
「うん」
少女は笑顔を浮かべ、それから決意を秘めた眼で少年を見上げる。
「それでね、わたしもいつか狩人になりたいな」
「……そっか」
まだ憧れられるような存在じゃない。
そんな言葉を飲み込んで、被ったままのフードを引いて、少しだけ頬を赤くしながら、少年は素直に笑った。
「じゃあ、世話になったな」
「何言ってんだい。助かったのはこっちの方さ」
あれから宿の手配等々もしてもらい、一晩を町で過ごした少年は、翌朝には荷物を持って町の入り口に立っていた。
「お兄ちゃん、またね」
「おう」
もう出ると聞いて駆けつけてきたという少女の手のひらに、彼は自分の手を合わせる。
それを微笑ましそうに見ていたあの店の店主が、今思い出したようにアンタ、と呼んだ。
「そういや名前を聞きそびれていたね。何て言うんだい?」
「あー、そういや言っていなかったっけ」
少年も、今更の質問に頭を掻く。
「俺はネロ。ネロ・ドラクーン」
少年は最後に水を意味する名前を告げ、彼女たちに背を向けた。
「じゃあまたいつか、機会があれば」
――これは近い未来、この少年が世界を救うまでの物語。