ファーストキスに挑む
それから一時間後、空がすっかり夜に染まったころ。
「ごめん……ほんっとにごめんな……」
「そんなに真剣に謝られても……」
笹原家のリビングにて、直哉はがっくり項垂れて頭を下げていた。
そんな直哉の隣に座り、小雪は眉をひそめて困惑の表情を浮かべてみせる。
台所の方をちらっと見て、呆れたように言う。
「別にいいわよ、カレーでも。お手軽簡単でけっこうじゃないの」
「いやでも、せっかく色々買ったのにさあ……」
何しろ今日はふたりにとって特別な日(予定)だ。
直哉は奮発して、いつもは買わないようなお洒落食材や、高い牛肉を塊で買ったりした。
しかしそれらの食材のほとんどは冷蔵庫で眠っている。
小雪はくすくすと笑う。
「それにしても、まさか直哉くんがあそこまでポンコツになるなんてね。お料理で失敗するところなんて初めて見たわ」
「うう……言うなっての」
ローストビーフを作ろうとして、鍋を火にかけ忘れる。
パエリアを作ろうとして、そもそもパエリアの素を買っていないことに気付く。
エトセトラ、エトセトラ……。
そんな失敗を繰り返した挙げ句、パエリア用の魚介類を使ってカレーを作ることに落ち着いた。
今は二人して、炊飯器のご飯が炊けるのを待っているところだ。
直哉は重いため息をこぼすしかない。
(うん……やっぱ準備してムードを作るとか無理だったな。こんなに緊張するなんて思わなかった……)
好きな子が家にいる。おまけにその子とこれから初めてのキスをしようとする。
たったそれだけのことで、まともな判断力はまったく働かなくなるのだと初めて知った。
とはいえ、怪我の功名も多少はあった。
家に来た当初はガチガチになっていた小雪だが、直哉がポカミスを繰り返すにつれて緊張もゆるみ、自然な笑みを見せてくれるようになっていたのだ。
それに釣られて、直哉の緊張も少しずつほどけていった。
今こうして同じ部屋にいても、問題なく普通の会話ができている。
とはいえ、意識しているのは小雪も同じらしく――。
「あっ、直哉くん。ちょっといいかしら」
「うん? なんだよ」
「えっと、その……」
小雪は頬を桜色に染め、そっと目をそらしてぽつりと言う。
「食べたら歯磨きしたいんだけど……新品の歯ブラシって、お家に置いてあるかしら?」
「……あります」
おもわず敬語で答えてしまう直哉だった。
それに小雪が「そ、そう……」なんてごにょごにょ返したものだから、また先ほどの帰り道のようにふたりの間に沈黙が落ちる。
こんなシチュエーションで歯磨きをしたい理由などひとつしかない。
それが直哉には嫌というほどに理解できるし、小雪のドキドキがまた伝わってきて自分の心臓も早くなり始め――そこが耐えられる限界だった。
「ええい、もうダメだ! 直球で言うぞ、小雪!」
「へ、え? な、なに?」
目を瞬かせる小雪の両肩をがしっと掴み、直哉は真剣な顔で言う。
「キスしよう! この間の仕切り直しをさせてくれ!」
「ほんとに言った!?」
小雪の素っ頓狂な悲鳴が、リビングに響き渡った。
しばしぽかんとしていた小雪だが、しばらくしてからへにゃりと眉を下げて言う。
「あの、私が言うのも何だけど……こういうのって、もっと雰囲気で進めていく物なんじゃなくって?」
「ごめん……その雰囲気に耐えられなかった」
「まあ、直哉くんはそういうのに人一倍敏感だものね……」
「ほんとにすみません……」
心底可哀想な物を見る目を向けられて、直哉はやっぱり項垂れる。
しかし小雪がぽつりと発した一言で、おもわず顔を上げてしまった。
「……いいわよ」
「へ」
見れば小雪の顔はこれまで見たことがないくらいに真っ赤に染まっていた。
直哉のことを上目遣いで見つめながら、つっかえながらも言葉をつむぐ。
「だって、ほんとに嫌なら……そもそも家になんて来ないでしょ」
「こ、小雪……」
それ以上の言葉は、直哉の喉から出てこなかった。
かわりにごくりと喉を鳴らす。その音がやけに大きくリビングに響いた気がして、顔の赤みがさらに増した。
またふたりの間に沈黙が落ちる。しかしそれは先ほどのものとは異なり……互いの意思が、ひとつになったことを感じられるものだった。
小雪がそっと目を閉じて、ぷるぷるしながら言う。
「は、初めてだから……優しくして、ね?」
「う、うん……!」
直哉はぎこちなくうなずいて、覚悟を決める。
そっと顔を近づけると、小雪の長いまつげが震える様がよく見えた。小雪の緊張はもはや最高潮だ。それでも自分に身を委ねてくれることが、直哉にはたままらなく嬉しかった。
(ここで、決める……!)
瑞々しい唇に、自分の唇を重ねようとして――。
「……っっ!?」
「へ!?」
ばたーーーーん!
のっぴきならない事態を察し、直哉は勢いよく後ろに飛び退いて、真後ろにあったふすまごとぶっ倒れた。
続きは明日更新します。
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