笹原法介の華麗なる事件簿②
「は……あ?」
男の言葉に、老婦人は目を瞬かせる。
周囲で見守っていた客や店員たちも、突然の状況を傍観するばかり。
そして渦中のハワードもまた、言葉を失うほかなかった。
(このご婦人が嘘をついている、だと……?)
だが、いったい何のために。それがまったく理解できなかった。
ハワードが事態を見守るうちに、老婦人はハッとしてまなじりを釣り上げる。
「へ、変な言いがかりはよしてちょうだい! 私は嘘なんてついていないわよ!」
「ほう? ではやはり、こちらの男性が泥棒だと主張し続けるおつもりで?」
「もちろんよ! トイレに行って戻ったら、ダイヤの指輪がなくなっていたの。だから、あのときすれ違ったその男が犯人に違いないし……」
そこで老婦人はびしっと人差し指をハワードへと突きつける。
「現にカバンから、私の指輪が出てきたじゃないのよ!? あれが動かぬ証拠よ!」
「それはどうでしょうね?」
「へ?」
「なにしろ……そちらのウェイターはあなたのお仲間じゃないですか」
「っ……!」
今度はウェイターが目をみはる番だった。
その一方で男の表情は一切変化しない。ただ穏やかな笑みを浮かべたまま、淡々と言葉を紡ぐ。それはまるで鎌を磨く死神を思わせた。
「指輪を隠し持っておいて、さもカバンから出てきたように見せかける……たいへん古典的な手口ですね」
「そ、そんなの言いがかりです! いったいなんの証拠があるっていうんですか!」
「証拠ですか? いくらでもございますよ」
そう言って、彼は件のダイヤの指輪を摘み上げる。
「そもそもこのダイヤの指輪も、ご婦人がお持ちの宝石も……すべてイミテーションです。おおかた通報しない代わりとして、法外な金額を要求するつもりだったのでしょう。ちなみに、そちらの男性。今日はおひとりでここに?」
「は? い、いえ……仕事の相手と待ち合わせをしておりまして……」
「ではその仕事相手とやらが黒幕でしょう。あなたを陥れたくて、こんなならず者たちを雇ったというわけです」
「そ、そんなまさか……ああ、いや……しかし、そうか」
男の言葉を否定しようとするものの、ハワードは途中でハッと気付いて押し黙る。
今回の仕事相手は、ハワードとはライバル関係にある会社だ。しのぎを削って成長してきた間柄だが、ハワードの会社の方が業績で言えば少しばかりリードしている。それが突然業務提携を持ちかけてきた。
多少不思議に思ってはいたものの……。
(私を罠に嵌めるため、というなら納得だが……なぜ、彼はこうも断言できるんだ?)
ハワードが首を捻る間にも、男は続ける。老婦人とウェイター。そのふたりを順に見遣って、その足元に目を止める。
「おまけに……あなた方の靴。泥がついておられますね?」
「そ、そんなの当然でしょ。昨日雨が降ったから、あちこちどこも水溜りばかりよ!」
「問題はその泥の種類ですよ、ご婦人。少し失礼」
「ひっ……な、なにを……!」
男はつかつかとふたりのそばに歩み寄り、その足元に膝をつく。
なにかと思えば、靴についた泥をハンカチで拭ったらしかった。それをじっと眺め、匂いを嗅いで……にやりと笑う。
「まったく同じ赤土と食用油……しかもこれは、この店特注のオイルですね。おおかた店の裏路地で打ち合わせでもしていたのでしょう。あなた方の関係性を示す、動かぬ証拠です」
「ど、どうしてそんなことが分かるんだよ! 泥だけだろ! 言いがかりはよしてくれ!」
「ええ。たしかに泥を見ただけです。ですが私は……見ただけで真実が分かるのです」
うろたえるウェイターに、男は平然と笑みを返す。
彼の言葉は尊大極まりない。だがしかし、その場の誰もがそれを笑い飛ばすことができなかった。
知性をたたえた黒い瞳は、その言葉の通り万物をも見通す力を持っていると感じるような、絶対的な説得力を有している。
「あなた方が認めないおつもりなら、それでもいいでしょう。警察に行って、付近の監視カメラをチェックしてもらえれば済む話ですから。真に無実なら……なにも問題はないはずですよね?」
「く、くそ……!」
「きゃあっ!?」
ついにウェイターは観念したらしい。
だがしかし、降伏という道を取らなかった。
そばにいた老婦人を突き飛ばし、勢いよく男へと――その背後にある店の扉へと、暴れ牛のように駆け出していく。凡庸な東洋人の男には、まず間違いなく受け止められないことだろう。
「そこをどけええええ!」
「あっ、危な――」
ハワードが止めに入ろうとした、次の瞬間――。
「ふっ!」
「あぐっ!?」
ウェイターの体が、綺麗な弧を描いて投げ飛ばされた。お手本のように綺麗な巴投げだ。背中から床に叩きつけられて、泡を吹いてぴくりともしなくなる。
あまりに鮮やかなその技に、店中が言葉を失って――次の刹那、割れんばかりの喝采が巻き起こった。
男はそんな歓声を受けてもなお笑みを崩さず、少し乱れたスーツの襟元をそっと整える。
「実を申し上げますと、荒事に巻き込まれるのにも慣れておりまして。簡単な護身術程度なら心得ております。さあ、お怪我はありませんか、マダム」
「あ、あわわわわ……」
老婦人は床にへたり込んだまま、男が差し出す手を取ることもなく、顔面蒼白で震えるばかりだ。
「……虐めるのもその辺にしておけよ」
そこで、客たちの中からひとりの男が歩み出てきた。いかにも英国人といった壮年の男性で、目付きがやけに鋭い。
彼が懐から取り出してみせるのは警察手帳だ。
「動かんでくれ、ご婦人。悪いが警察だ」
「なっ、なんで警察がもうここに……!」
「なあに、俺はたまたま飯を食いに来ていただけさ。あんたも運が悪かったな。あとは署で話を聞くよ」
「う、ううう……」
老婦人が抵抗の意思がないことを確認して、突然現れた警察官はテキパキとほかの店員に指示を出し、携帯でどこかへ連絡を入れはじめる。
そのころになって、ハワードはようやくハッとした。
どうやら降って湧いた疑いは晴れて、無事に身の潔白が証明されたらしい。
そう気付いた時には安堵感よりも先に、湧き上がってくるものがあった。突き動かされるようにして、件の東洋人の前に飛び出して頭を下げる。
「本当に助かりました……! あなたがいなければ、私はどうなっていたことやら……」
「いやいや、大したことはしておりませんよ。困ったときはお互い様、と言うではありませんか」
男性は鷹揚に笑うばかりだ。
特に誇るでも、謙遜するでもない。この程度の人助けなど彼にとっては日常茶飯事なのだろう。
(なんと人のできたお方なのか……!)
ハワードはおもわず息を飲んでしまう。
とはいえそう言われたところで感謝の気持ちが治まるはずはない。
なおもお礼の言葉をつむごうとする前に……あの警察の男がゆったりとした足取りでこちらに近付いてきた。
「いやはや、そちらさんも災難でしたな。あとで少しお話をうかがってもよろしいかな?」
「は、はい……もちろんです」
ハワードがぎこちなく頭を下げていると、東洋人の男もにこやかに警察官へ笑いかける。
「ありがとうございます、レスター警部。あとのことはお任せしますね」
「もちろんだ。あの二人組、おそらくもっと余罪があるだろう。こってり絞らせてもらうとするよ」
「それはいいですね。男の方がああ見えて自白は早いと思いますよ、そちらを先に尋問した方がいいでしょう」
「おまえさんのいつもの勘だな? なら、起きてすぐ話を聞かせてもらうとするかね」
気さくな調子で会話する二人に、ハワードは首をかしげるしかない。
「そのー……おふたりはお知り合いで……?」
「ああ。今日は一緒に飯を食いに来ていたんですよ」
警察官はこともなげに言って……東洋人の男に、ニヤリと皮肉げな笑みを向けてみせる。
「それにしても……やっぱりおまえといると厄介ごとに巻き込まれるな、ミスター・ササハラ?」
「いやはや、申し訳ございません。こうしたことは黙っていられない性分なもので」
「……ササハラ?」
その名に、ハワードはピクリと眉を寄せる。
それは紛れもなく、最近我が家で話題に上らない日はない名前で――ハワードは生唾を飲み込んでから、おそるおそる切り出した。
「ひょっとして……日本の方でしょうか?」
「はい。こちらには仕事で滞在しておりまして……申し遅れました。私はこういう者でございます」
そうして東洋人の男は、ビジネスマンらしく一枚の名刺を取り出してみせた。
そこにはこう書かれている。
笹原法介。
その名字は、やはりハワードのよく知る彼と同じものだ。
「笹原、さん……失礼ですが……こちらの少年に見覚えは?」
ハワードはおずおずとタブレットを取り出して、一枚の写真を表示させる。日本の家族から送られてきた、娘とその彼氏――笹原直哉の写真だ。
それを見て、東洋人の男性――笹原法介はかすかに目を丸くした。
「これはうちの倅ですが……どうしてあなたが…………ああ、なるほど」
彼は柔らかく、くすりと笑う。
そのたった一瞬ですべてを察してしまったらしい。恭しく頭を下げて、改めて自己紹介をする。
「直哉からうかがっております。白金さんのお父様ですね。初めまして、笹原法介と申します。息子がお世話になっております」
「初めまして、お義父さん!」
そんな彼の手を、ハワードはガシッと握ったのは言うまでもなかった。
かくして次の日。
朝の待ち合わせ場所で落ち合った小雪に、朝の挨拶もそこそこに直哉はこんな話を切り出された。
「ねえ、直哉くん。うちのパパが、イギリスで直哉くんのお父様と偶然会ったらしいんだけど……」
「どんな偶然だよ……それで、なんか言ってた?」
「それがね……なんか、直哉くんのお父さんと義兄弟の契りを交わしたとか言ってるんだけど……いったいどういうことだと思う?」
「あー……うちの親父、あちこちで事件を解決しては義兄弟とか舎弟とか弟子とか増やす人だから……心配しなくていいと思うよ」
「いったいどんなお父様なの!?」
「俺の上位互換キャラ、みたいな感じ?」
ちなみにこの後、ハワードは法介と事あるごとに出くわして、その度にシャーロック・ホームズとジョン・ワトソンよろしく、厄介な事件に巻き込まれるはめになるのだが……直哉と小雪の恋路には一ミクロンも関係のない冒険譚となるため、ここでは割愛しておくこととする。
「ああ、ハワードさん。いいところにお会いしました。実は今度、さるご高齢の富豪からパーティに誘われておりまして。妻は都合が悪いので、また一緒にいかがですか?」
「もう騙されんからなホースケ!? どうせまた奇妙な事件に巻き込まれるんだろう! この前もそれで豪華客船ジャック事件に遭遇したんだが!?」
「いやいやそんなまさか、ははは。ただちょっと、今回はその富豪に殺害予告が届いたとかなんとかで。護衛に来てくれと頼まれましてねえ」
「毎度毎度、ただの会社員がそんな依頼を受けるんじゃない!」
「いや、困っている人を見ると黙っていられない性分でして。ははは。犯人は見ればわかるのですが、証拠集めに難儀しそうなので……是非とも助手としてお付き合いいただければと。将来的に親戚となるわけですし、親睦を深める意味でもひとつ」
「だから行かんと言っているだろうが……! 小雪と直哉くんを引き合いに出すのはやめろ!」
こんなやり取りを経た後も、富豪の莫大な財産をめぐる大騒動に、ハワードはちゃっかり巻き込まれたという。
(登場人物紹介)
笹原法介……三十九歳。直哉のパパ。チート級の洞察力とチート級の武道の腕、チート級の人脈等々を有するチートキャラ。何度か世界を救ったこともある。
白金・K・ハワード……四十一歳。押しに弱い。
番外編はこれにて終了です。
次回はまっとうに直哉と小雪のデート編です。たぶんまた来週くらいに!