桐彦の正体
それから小一時間後のこと。
「たっだいまー……え、なによ、この空気」
帰宅早々、桐彦が軽く引いたような声を上げる。
それもそのはず、和室の隅と隅。対角線上に、直哉と小雪が距離をとって座り込んでいたからだ。ふたりともまともに目も合わすことができず、顔を赤くしたままもじもじするしかない。
おかげで桐彦は目をキッと吊り上げて、直哉のことを足で軽く蹴ってみせる。
「ちょっと笹原くん、サカるなら他所でやってって言ったでしょ。さすがのあたしもそこまで大らかじゃないんだからね」
「そんなんじゃないっす……俺は一切手を出してないです……」
「あら、そうなの?」
「あうう……私なんであんなことしちゃったんだろ……」
小雪は小雪で、ちょっとした自己嫌悪に苛まれているし。
ふたりの様子を見て、桐彦はじーっと考え込み、やがてぽんっと手を打った。
「なるほど。ラッキースケベイベントがあったのね」
「せめて言葉を選んで欲しいです」
「仕方ないじゃない、職業病よ。しかしラッキースケベ……実在するものなのねえ」
まるでUFOでも見たかのような感慨深そうな物言いだ。
そのついでとばかりに向けられる生温かい眼差しが胸に突き刺さり、直哉は顔を伏せる。そうすると、絆創膏を巻いた指が目に入ってドキリとした。
(……あたたかかったなあ)
あたたかかったし、しゃべると咥えた指に舌が当たって、背筋がぞわりと泡立った。あの感触が蘇りかけて、直哉は慌ててかぶりを振る。
これ以上はマズい。まだ正式に付き合ってもいないのに。
黙り込むふたりを前にして、桐彦はため息をこぼす。からかうのにも飽きたらしい。
「まあ、健全なお付き合いの範疇ならどうでもいいわ。それより小雪ちゃん、本はちゃんと読めたかしら?」
「あっ、い、いえ……まだ二巻の半分までしか」
「あらそうなの、残念だわぁ」
桐彦は頰に手を当て、眉をへにゃりと下げてみせる。
「それならまた今度来たときにでも、感想とかいろいろ聞かせてちょうだいね」
「は、はあ……かまいませんけれど」
小雪は桐彦の顔をまじまじと見つめる。
そうしてきょとんと小首をかしげてみせるのだ。
「ひょっとして……店長さんも、この本お好きなんですか?」
「はい?」
「お、面白いですよね、この本。私、ライトノベルって初めて読んだんですけど、夢中になっちゃって。特に一巻のフランちゃんがかわいく……て……?」
ちゃぶ台に置いたままだった二巻を手に取って、小雪がぴしりと固まってしまう。
どうやらようやく気付いたらしい。
そこに書かれている作者名が……茜屋桐彦であることに。
小雪はバッと顔を上げ、本と桐彦を交互に見やって叫ぶ。
「作者さんなんですか!?」
「ええ。ペンネーム決めるのが面倒臭くてねえ。本名のままデビューしちゃったのよ」
「い、言ってちょうだいよ笹原くん!?」
「……正直、いつ気付くのかなーって見守ってた」
慌てふためく小雪が面白くて、直哉はくつくつと笑う。
その驚く顔が見たくて連れてきた部分もわりとあった。
あわあわ慌てる小雪に桐彦は笑って、あっけらかんと告げる。
「そういうわけだから、これからもうちに来てネタ出しよろしくねー♡ ふたりを見てたら、いいネタが拾えそうだわあ」
「ええー……白金さんの可愛さが全国流通するのはなんだかなあ……」
「だったら引き換えに、うちで好きなだけイチャつける権利でどう?」
「手を打ちましょう」
「打つんじゃないわよぉ……!」
小雪が真っ赤になって直哉の肩をばしっと叩いた。






