決着
いつも通りの無表情だが、その視線に直哉は微少な棘のようなものを感じた。
気付かないふりをして曖昧に笑えば、小雪がほっこりと相好を崩す。
「たしか朔夜と初めて会った日よね。あんまり覚えてないけど『赤ちゃんがうちに来た!』ってすっごく嬉しかったんだから」
「お姉ちゃん、四六時中私に構っていたって聞くよ」
「そうそう。だからこのころの写真は、ずっと一緒に写っているのよね」
他の写真でも、小雪は赤ん坊の朔夜をつんつんしたり、抱っこしようとしたりしてべったりだった。両親もそんなふたりに目を細めていて、なんとも仲睦まじい家族アルバムだった。
そのついでとばかりに、もう一冊のアルバムを広げて姉へと差し出す。
「ほら、お姉ちゃん。こっちも見てみて」
「わっ、こっちは十年くらい前ね」
小雪は目を輝かせてアルバムを受け取る。
そちらは少し年月が経過して、姉妹は幼稚園くらいの年頃になっていた。
お揃いの真っ白いワンピースを着ていて、ぱっと見れば双子のようだ。
それでも片方はご機嫌の笑顔でVサインを決めていて、もう片方は無表情で片割れをじっと見つめているので、どちらが小雪で朔夜なのかとても分かりやすかった。
背景には澄み切った青空と、白い砂浜が写っている。
「しっかり覚えてるわよ、みんなで沖縄に行ったときよね」
「そうそう。お姉ちゃんってば、沖縄の海にはイルカとかウミガメがたくさんいるものだと思ってたから、いざ海に行っても見当たらなくて泣いたんだよね」
「あんたは無駄なことばっかり覚えちゃってまあ……」
「忘れようと思っても忘れないよ」
渋い顔をする小雪に、朔夜は軽くうなずく。
そうして姉ではなく直哉を真っ正面から見据えつつ、淡々と静かに告げた。
「私が生まれてから十六年、ずっとお姉ちゃんをそばで見守ってきたんだもの。お姉ちゃんのことは私が一番よく知ってるよ」
「何を当たり前のことを言い出すの?」
小雪はきょとんと首をかしげるばかりだった。
意図を察した直哉は、だらだらと冷や汗を掻くしかない。
(ま、マウントを取られている……!)
どこからどう見ても直哉に対する宣戦布告だった。
ふたりの志望大学が同じだと知ってから、朔夜の表情が曇った。
その原因は明確だった。
(朔夜ちゃん、やっぱり俺に嫉妬してるな? 思ったより早く小雪を取られそうだから……)
小雪と直哉のことはもちろん応援している。
しかし、結婚するのはもっと先。それまでは妹として一緒にいられる……そう思っていたのに、あと一年足らずで姉と直哉はふたりの新生活を始めてしまうことに気付いてしまった。
姉を取られると感じても仕方のないことだ。
その理屈も、朔夜の気持ちも十分に分かる。
彼女から大事な姉を奪うことになるのは本当のことだからだ。
(まあ正直、いつかこうなるとは思ってたけどな……)
朔夜は筋金入りのシスコンだ。
直哉を認めてくれたのは、ひとえに小雪の幸せを願ったからに過ぎない。
それと、家族でいつも一緒という心の余裕があったからだ。そのアドバンテージが崩れるとなれば彼女の気持ちも揺らぐに決まっている。
大きな危機に、直哉は小さく吐息をこぼすだけだ。
(ここでムキになるのは大人げないな。さらっと流すのが男ってもんだろ)
朔夜なら、後でちゃんと話せば分かってくれるはずだ。
しかしそんな決意を固める間も、彼女はじーっと直哉のことを見つめていた。
リビングにはいつの間にかすなぎもが戻ってきていたが、飼い主たちの間に流れるピリピリした空気を察したらしく、微妙に距離を保って観察に徹していた。
もちろん小雪がそんな異変に気付く由もない。
アルバムをあれこれ開いては弾んだ声を上げる。
「あら、こっちは小学生のころね」
「すなぎもを拾ったときだね」
朔夜はそれを覗き込み、うんうんとうなずく。
アルバムに貼られていたのは痩せ細った猫の写真だ。目付きがやけに鋭くて、毛並みも悪くて毛玉だらけ。こう言ってはなんだが、ずいぶんとみすぼらしい見た目である。
それでもかすかに、今のすなぎもの面影があった。
「たしか、すなぎもも捨て猫だったんだよな」
「そうそう。こんな感じのガリガリのひょろひょろで、今にも死んじゃいそうだったんだから」
ある日姉妹で遊びに出かけた際、薄汚れた段ボールを発見した。
ガサゴソと音がするその箱を開けてみれば、中にいたのは一匹の子猫で。ご丁寧にも『どなたか拾ってください』の文字も添えられていた。
子猫は警戒心を露わに唸り続け、小さいながらに猛獣のようだったという。
朔夜は小さく吐息をこぼす。
「私は怖くて近付けなかった。でも……お姉ちゃんは違ったよね」
小雪はそんな子猫に手を差し伸べて、迷わず家に連れ帰った。
両親を説得して動物病院に連れて行き、それからずっと寝る間も惜しんで世話をした。
その結果、すなぎもはすくすくと大きくなって今がある。
朔夜は小雪の顔をうかがって、囁くように言う。
「あのとき、お姉ちゃんは本当にすごいと思ったんだよ」
「そ、そんなことないわよ。すーちゃんがいい子だっただけだもの」
小雪は照れ隠しでつーんとしつつ、すなぎもへと呼びかける。
「ねー、すーちゃん?」
「なうん?」
すなぎもはひと声鳴いて小雪の膝に乗り、おとなしく腹を出す。
大きな信頼感がありありと伝わる光景だ。
そんな愛猫を撫でくり回しながら、小雪はデレデレと言う。
「で、パパがおつまみで食べてた砂肝チップスを執拗に狙っていたから、すなぎもって名付けたのよね。我ながらとんでもなく可愛い名前だと今でも思うわ」
「さすがはお姉ちゃん。目の付け所がアメージング」
「そ、そうだな……すごいよな、小雪は」
これまでずっとスルーしてきた謎のネーミングセンスなので、ここでも直哉は愛想笑いで済ましておいた。すなぎもは気に入っているのか「なーん」と相槌を打つだけだ。
(子供の名前はしっかり相談して決めよう……うん)
気の早い焦燥感は、そっと胸の内にしまっておいた。
直哉が黙り込む中で、朔夜は小雪の目をまっすぐ見つめて言う。
「だから私はお姉ちゃんが大好きなの。私にはないものをたくさん持っているから」
「え、ええ、急に何よぉ……今日はずいぶんぐいぐいくるじゃない」
「たまにはいいでしょ」
オロオロする小雪に、朔夜はこてんと寄りかかる。
そのまま上目遣いで甘えるような声で言うことには――。
「私はお姉ちゃんの妹で幸せなんだよ。たったふたりの姉妹だし、これからもずっと仲良くしてね?」
「朔夜……!」
そのあざといまでの妹仕草に、小雪は一発KOされた。
ひしっと朔夜を抱きしめて頬ずりする。
「私もあなたが妹でよかったわ! 大好き!」
「ありがとう。私も大好きだよー」
無表情のまま、両手でVサインをしてみせる朔夜だった。
あからさまな勝利宣言だ。
「あはは……ふたりとも仲がいいなあ……」
姉妹愛を前にして、疎外感が凄まじかった。直哉は引きつった笑顔を浮かべるしかない。
ここまで見せつけられると、ムクムクと対抗心が湧いてくるのが人間というものだ。
何しろ直哉も朔夜に負けず劣らず、小雪のことが大好きなので。
大人げないかと思いつつも、テーブルに広げられたアルバムをめくる。
そこには十歳くらいの姉妹の写真が並んでいた。
「やっぱりふたりともどんな時代も可愛いな。美人姉妹だ」
「ふふん、私と朔夜なんだから当然でしょ」
小雪は鼻高々とばかりに胸を張る。
実際、ふたりともとても可愛かった。
今度の写真はどこかの観光地で、わんわん泣く小雪に朔夜がそっとハンカチを差し出している場面だった。それを指さして、直哉はにこやかに言う。
「このときの小雪、まわりに雪がないからって泣いたんだろ。夏でも北海道には雪が降るって思い込んでたから」
「うげっ!? なんで分かるのよ!?」
「なんとなく?」
背景から場所は推理できたし、小雪の思考回路なら幼い頃だろうと余裕で読める。
そんなことをさらっと告げつつ、小雪に抱きしめられたままの朔夜へとにっこりと笑いかけた。
「俺の知らない小雪を、朔夜ちゃんは知っている。でも俺は過去も現在も未来も、どんな小雪も知ることができるんだ」
「ふーん……なかなかやるね、お義兄様」
朔夜も朔夜で薄く微笑んでみせた。
ふたりの間にバチバチと青白い火花が飛ぶ。
おかげですなぎもがハラハラしたように「なーん……」と身じろいだ。
「えっ、ちょっとごめんなさい。なんだかいい感じの話にしようとしてるけど……今のはシンプルに怖いんだけど?」
小雪は引き気味でぼやくばかりだった。
こうして売られた喧嘩を買う形で、直哉と朔夜による静かな戦いが始まった。
夕飯は三人でチーズフォンデュをした。いろいろな具材をホットプレートで焼いてチーズソースに漬けて食べる形式で、ちょっとしたパーティメニューだ。
企画立案は小雪。素材の下ごしらえは三人で取りかかった。
ジュースも開けたりして、三人和気あいあいと食べ進めたのだが――。
「ほら小雪、次はウィンナーが食べたいだろ。予想して焼いておいたからどうぞ」
「お姉ちゃん。こっちのジャガイモもほくほくで美味しいよ」
「いや、勝手に食べるけど……ふたりとも、私のことを幼稚園児か何かだと思ってる?」
ふたりがやけに世話を焼いたので、小雪は首をひねっていた。
後片付けを終えてから、姉妹は仲良く一緒に風呂に入った。
「久々にお姉ちゃんと入った。楽しかった」
「はいはい、背中流してくれてありがとね。で……直哉くんは何をスタンバってるわけ?」
「さすがに風呂の中でお世話はできないから……せめてドライヤーの世話をさせてもらおうかと。さあ来い、小雪!」
「何? やたらと世話を焼いてくるけど、今日はそういう日なの?」
ひたすらもてなすふたりに対し、ますます小雪は訝しんだ。
それから夜になって三人は和室に集まることとなった。
先日までジェームズが使っていた客間である。こちらもハワードの好みが如実に反映されているようで旅館の一室のようだった。床の間には掛け軸が飾られている。
そこに三人分の布団を敷いて就寝準備は完成した。
小雪はその真ん中にごろんと寝転がって、左右を交互に見やる。
「ふたりとも、今日はなんだか妙に甘えん坊ね?」
「あはは、朔夜ちゃんほどじゃないかなあ」
「うん。お義兄様ほどじゃないよ」
真ん中に小雪。その両隣を直哉と朔夜ががっちり固める鉄壁の布陣だ。
ふたりとも、いまだにバチバチやっていた。すなぎもはすでに慣れたのか小雪の布団に潜り込んですやすや寝息を立てている。
小雪は冷えた空気にも気付くことなく、いたずらっぽく笑う。
「でもこういうのって、ラブコメではありがちな展開かもね」
「ありがちな展開って?」
「ほら、正ヒロインの家にお泊まりに行くんだけど、そこでヒロインの妹からも迫られて惹かれてしまう主人公……みたいなの。どう?」
「ないね」
「ないな」
「そ、即答……分かってはいたけどね」
真顔のふたりに、小雪はたじろぐばかりだった。
そうかと思えばムッとして、隣の布団に転がった直哉の頬をむにーっとつまんでくる。
「うちの妹の何が不満だっていうのよ。こんなに可愛くて気遣いができて……たまに暴走気味だけど、ともかくこんないい子はいないっていうのに」
「そんな切り口で彼氏に説教するなよ」
褒められこそしても、怒られる謂われはないと思う。
直哉は頬をむにむにされたまま、きっぱりと言い切る。
「俺が小雪以外の女の子に興味が湧くわけないだろ。朔夜ちゃんは義理とはいえ妹なんだし、ますます手を出すかっての」
「私も似たようなもの。お義兄様はどう考えても恋愛対象外。だって面倒臭いもの」
「はあ……どっちも似たもの同士ってわけね」
小雪は呆れたようにため息をこぼし、ニコニコと笑う。
「でも嬉しいわ。私の好きなひとたちには、仲良くしててほしいから」
「……」
「……」
それに、直哉も朔夜も口ごもることしかできなかった。
(今日一日、仲良くしたと言ったら仲良くしたけどなあ……)
水面下では小雪を巡って争っていたわけだ。小雪が気付いたら呆れるだろう。
そんなもやもやを互いに抱えていると――。
ドサッ、ガサガサ!
窓の外――表通りから突然物音が響いた。そのあと怒号がいくつも続いて、一気に外が騒然とする。これには日頃冷静な朔夜も肝を冷やしたようで、ハッとして布団から身を起こす。
「なっ、何……?」
「だ、大丈夫よ、朔夜! お姉ちゃんが守ってあげるからね!」
そんな妹のことを小雪がひしと抱きしめた。
怯える姉妹に反し、直哉は落ち着き払ってちらっと時計を見上げる。
「ああ、もうそんな時間か」
時刻は夜中の十二時を少し回ったころ。
予想通りの展開だった。顔を強張らせた小雪と朔夜に、直哉はぱたぱたと手を振る。
「怖がらなくていいぞ、ふたりとも。例の空き巣が捕まっただけだから」
「はい……?」
姉妹はそろって目を瞬かせる。
無言のままそっと顔を見合わせて、小雪が代表するようにおずおずと口を開いた。
「空き巣って、このまえ近所のお家が被害を受けたあれ……?」
「そうそう。今日ここに来る途中で、たまたま犯人を見つけちゃってさ」
「はい……?」
男は通行人を装っていたものの、直哉の目は誤魔化せなかった。
次の獲物を物色しているようだったので、こっそり動向をうかがっておいたのだ。
「で、どこをいつ狙うつもりなのかが読めたから、親父に連絡しておいたんだよ。あのひと警察にもツテがあるから、かわりに通報してくれたんだ」
「それで警察の人たちが張り込みしてたってわけ……?」
「うん。親父のタレコミは百発百中だから信頼されてるんだよなあ」
実際、法介は何度も警察から感謝状をもらっている。
直哉が直接通報するよりも話が早いのだ。
「親父に対処を投げることになって情けないけど、小雪たちの安全には代えられないし。そういうわけだから安心してくれよ」
「……直哉くんは警備会社か何かなの?」
「ただの善良な市民だっての」
ジト目の小雪に、直哉は平然と言ってのけた。
そのまま居住まいを正して、ぽかんとしたままの朔夜に語りかける。
「そういうわけだからさ、朔夜ちゃん」
「何……?」
朔夜はぴくりと眉を寄せる。どこか拗ねた子供のようなピリピリした雰囲気が醸し出されるが、直哉はおかまいなしで続けた。
「これまできみが小雪を大事にしてくれたのと同じくらい、俺も小雪を大切にする。どんな脅威だって排除してみせるよ。だから改めて……俺を認めてほしい」
「……そう」
小さく息を吐いてから、朔夜は抱き付く小雪からそっと離れる。
そうしてかぶりを振って、かすかな笑みを浮かべてみせた。
「分かっていたけど、やっぱりお義兄様には負けるね」
「負けとか勝ちとかないだろ。小雪のことが大好きなのは一緒なんだから」
「そうね。でも、覚悟は見させてもらった」
朔夜は力強くうなずいて、そっと右手を差し出してくる。
「お義兄様になら、お姉ちゃんを安心して任せられる。よろしくお願いします」
「ああ。全力を尽くすよ」
「……張り合ってごめんね?」
「あはは、それはお互い様だろ」
直哉がその手を握り返せば、朔夜は申し訳なさそうに苦笑した。彼女にしては珍しい表情だったので、直哉もまた笑ってしまう。
バチバチと飛んでいた火花もすっと引っ込んで、元通りのふたりとなった。
「直哉くんと朔夜は、いったい何を分かり合っているのかしら……?」
「なーん……」
小雪は首をかしげつつ、寝惚けたすなぎもをもふっていた。
続きは明日更新。






