お姉ちゃん命の妹
しかし口から出した言葉はもう戻せない。
直哉がドギマギするのもおかまいなしで、朔夜はおずおずと質問を投げかける。
「お姉ちゃんと同じところって……隣の県の、A大学……?」
「それがどうかしたの?」
平常心なのは小雪だけだった。
きょとんと首をかしげる姉へ、朔夜は少し口ごもってから続ける。
「だって、お義兄様の成績って学年でも上の下くらいでしょ? ちょっと厳しいラインなんじゃないかと思って」
「どストレートな事実をぶつけてくるなあ……」
直哉はがっくりと肩を落とすしかなかった。
ふたりが志望するのは、隣の県の大学だ。多くの学部を包括しており、施設もサークル活動も充実している。興味のある分野を学ぶにはとてもいい環境なのだ。
ただしその分、近隣ではトップレベルの偏差値が要求される。
学年成績一位の小雪は十分合格圏内。
一方で、直哉には少し厳しいラインだ。
「確かに目標は遠いけどさ。親父とお袋があそこの卒業生で、ずっと話を聞いていたんだよ」
両親はあの大学で出会って、紆余曲折を経て結婚した。
大学での思い出話をよく聞かされて育ったため、漠然とした憧れがあったのだ。
それと将来の目標も漠然と決まっていた。
「で、俺は将来いろんな人と出会える仕事に就きたいんだ。あそこの大学は留学生も多いみたいだし、まず見聞を広めるのもありだと思ってさ」
法介のように、世界中を飛び回るサラリーマンもありかもしれない。
かつて厭世的だった自分からは考えられない夢だ。
直哉はちらりと隣の小雪をうかがう。
「それもこれも、小雪と出会って『人って面白い……!』ってなったのがきっかけなんだよな。ありがとな、小雪」
「やっぱりこの大魔王を解き放ったのは私だったのね……」
小雪は神妙な面持ちでため息をこぼす。
しかしすぐにぐっと拳を握って、意気込みを語るのだ。
「ちなみに私はあそこの心理学部志望よ。これまでずっと直哉くんにやられっぱなしだったけど、きちんと勉強すれば一矢報いることができるはずなんだから!」
「彼氏の対処法を学びに行くのかよ」
「そうじゃないと手に余るんですもの。まあでも……あなたのことがなくても、興味のある分野だったのは確かだけどね」
小雪はごほんと咳払いして、もじもじと指をすり合わせながら言う。
「私ってば素直じゃなくて、いろいろ苦労もしたし、人に迷惑もかけたし……だから同じように悩んでる子の力になりたいの。そのためにも心の勉強をしに行くのよ」
小雪はもともと自分のことが好きではなかった。
それが直哉と出会ったことで少しずつ変わることができた。その経験があるからこそ、同じような悩みを抱える仲間に手を差し伸べたい。それが、今の小雪の夢だった。
まっすぐな言葉からはひたむきな思いがありありと読み取れた。
「ふたりとも、しっかり目標があるんだね……」
それに朔夜がぽつりとこぼした。
嘆息するような、驚いたような、そんな語調だった。しばらく何かを考え込むようにしてじっと俯いていたが、ふと気になったとばかりに首をかしげる。
「でも、お姉ちゃんの成績ならもっと上の大学を目指せたんじゃないの? お義兄様に合わせたの?」
「違うわよ。大学はどこに行くかじゃなくて、何を勉強したいかで選ぶべきなんだから」
小雪はちっちと指を振る。
成績優秀ゆえ、進学先はよりどりみどり。そのためずいぶんと進路に悩んだようだった。
「あんまり家から離れたら気軽に帰って来れないし、このくらいがちょうどいいかと思ったのよ。それに、私の成績なら頑張れば首席合格もいけるかもだし」
「俺にとっては雲の上の話だなあ……」
なんとか滑り込みでも合格しようともがいている直哉とは対照的だ。
格差の残酷さを噛み締めつつ、直哉は冗談めかして言う。
「まあともかくそういうわけで、お互いがお互いの進路にも影響を与えちゃったってわけなんだよ。な、小雪」
「そうなるわね。まったく因果なものだわ」
直哉は小雪と出会ったことで、人と付き合うことの楽しさを知った。
小雪は直哉と出会ったことで、人は変われることを知った。
それ故の進路決定だった。何が起こるか人生分かったものではない。
「だったら……」
朔夜がごくりと喉を鳴らす。
真正面に座るふたりの顔を交互にじーっと見つめてから、妙な圧を持ってして切り出した。
「大学に入ったら、すぐにふたりで同棲するの?」
「…………はい?」
その瞬間、小雪がピシッと凍りついた。
しばし白金邸のリビングに重い沈黙が訪れる。聞こえるのはすなぎもがボールでハッスルする足音だけだ。やがて疲れたのか、すなぎもはピタッと動きを止めて「なん」と鳴いた。
その瞬間――。
「ど、どどど同棲ぃ!?」
「なうん!?」
弾かれたように小雪が立ち上がり、驚いたすなぎもがリビングから脱兎のごとく逃げていった。
小雪は真っ赤な顔でわなわなと震えるばかり。
そんな姉へ、朔夜は淡々と追い討ちをかける。
「あれ、違うの? なら、即結婚?」
「っっっ、どっちもしません!」
小雪は思いっきり言葉に詰まってから、荒々しく宣言して腰を下ろす。
紅茶のカップにスプーンを突っ込んでかき回しながら、ぷんぷんと続けた。
「まったく何をバカなことを言い出すのよ。たしかにちょっと家から遠いから、下宿することになるとは思うけど……」
往復の通学時間を考えると、大学近くに部屋を借りて一人暮らしするしかない。
直哉もまったく同じ状況だ。
「だからって即同棲なんて、破廉恥にもほどがあるでしょ。大学には勉強しに行くんだから、そんな浮ついた気持ちでいていいわけがないわ」
小雪はぶつぶつとぼやく。
言っていることは正論だが、頬がほんのり赤いままで内心(同棲……同棲かあ……)とそわそわしているのは明白だった。
やがて落ち着かなくなったのか、隣の直哉に話を振ってくる。
「ねえ、直哉くんもそう思うわよね」
「えっ」
それに直哉の肩がびくりと跳ねた。
聞かれることは分かりきっていたのだが、それでも平常心ではいられなかったのだ。あちこちに視線をさまよわせて、しどろもどろで曖昧にうなずく。
「あ、ああうん、そうだな……」
「うん……?」
当然、小雪は訝しんだ。
思いっきり眉をひそめ、鷹のような目でじっと見つめてくる。
「まさかとは思うけど、直哉くん……あなた……大学に入ったら、私と同棲したいとか思ってるわけ?」
「まあその、そういうことも考えてみたり、みなかったり……」
「バカなの!?」
渾身のツッコミだった。
戻ってきてそーっとリビングを覗き込んでいたすなぎもがまた逃げた。
小雪の顔色は赤を通り越して紫色だ。その勢いのまま、直哉の胸ぐらを掴んで揺さぶってくる。
「あなたは大学進学を何だと思っているのよ! 破廉恥どころか人道にもとるわ!」
「違うって! 下心も否定しないけど……ただただ心配なんだよ!」
小雪との幸せな結婚生活のため、婚約までこぎ着けた男だ。
当然、同棲には興味ありありだった。おはようからお休みまでを見守って、行ってらっしゃいとお帰りなさいを言ってもらえる。どう考えても幸せでしかない。
しかし、同棲を望む理由はそればかりではなかった。
「あのな、考えてもみろよ。小雪はひとり暮らしがどんなものか分かってるのか?」
「そ、そんなの当然知ってるわよ。大変だろうってこともね」
「そう。大変なんだ。家事は全部やらなきゃいけないし、お金のやりくりも大変だ。でも、問題はそれだけじゃない」
実際、直哉もひとり暮らしを始めた当初は混乱の連続だった。
掃除に洗濯、買い出しからの食事作り……それまで親の手伝いで慣れていたはずのあれこれが、いざひとりで全て請け負うとなってひどく慌てた。
たしかにそれもひとり暮らしの試練だ。
ただし、小雪の場合はさらなる問題が浮上してくる。
「大学生にもなったら帰りが遅くなることもあるはずだろ。ひとりっきりで暗い夜道を歩いてきて、誰もいない部屋に帰るの……いろんな危険が潜んでいるとは思わないか?」
「うっ……それはちょっと怖いかも」
小雪の顔がさーっと曇る。
女性のひとり暮らしには防犯が欠かせない。それだけ犯罪が身近だということだ。
そんな環境に小雪を置くなんて、直哉は我慢がならない。
「あと、ひとり暮らしって当然ずっとひとりなんだ。雑談に応じてくれる家族も、もふらせてくれる猫もいないんだぞ。そんなの小雪に耐えられるのか?」
「さ、さびしい……!」
小雪は呻くように言う。ガーンとショックを受けたようだった。
両親とは仲良しだし、家にはだいたい妹もすなぎももいる。つまり、家でひとりの寂しさに慣れていないのだ。直哉の読みは当たったようで、小雪は真っ青な顔で震える。
分かってくれて何よりだった。直哉はうんうんとうなずく。
「そういう意味で小雪の一人暮らしは心配なんだよ。だったら俺が側にいて守ってやりたい。分かってくれたか?」
「うう、それは分かったけど……同棲……同棲はちょっと……でも怖くて寂しいのは嫌だしなあ……」
小雪はしばし難しい顔で考え込んだ。
完全なひとり暮らしには不安が残る。しかし直哉と同棲するのは恥ずかしい。
そんな葛藤の末、小雪はとある結論を絞り出した。
「やっぱり同棲はダメ。そのかわり、直哉くんが私の近くに住みなさい」
「うん、正直俺もその辺で手を打つかと思ってたよ」
さすがの両親らも、ボディーガードとして一泊することは認めても同棲までは納得しまい。
ならばなるべく近くに住むくらいが妥当だろう。それなら帰りが遅い夜には迎えに行けるし、何かあったらすぐに駆けつけることができる。
直哉はからっと笑って言う。
「ゴキブリが出たら喜んで退治しに行ってやるからな」
「あら、言ったわね? 深夜だろうと容赦なく呼びつけてやるんだから」
小雪もまたニヤリと返してみせた。折衷案で不安もいっぺんに吹き飛んだらしい。
ニコニコしながら妹に話を振る。
「これまではずっと朔夜に頼んでいたけど、来年からは直哉くんが何とかしてくれるわね」
「……お義兄様が受かったらね」
「確かにそうだわ。ちゃんと合格しなさいよね、今だって私が勉強を見てあげてるんだから」
「肝に銘じます……」
小雪はキリッとして直哉に言いつける。
たしかに朔夜の言うことももっともだ。受からなければ、近所に住むどころかキャンパスライフすら実現しない。
直哉は胃がキリキリした。
ただしその原因は受験のプレッシャーばかりではない。
(朔夜ちゃん、あからさまにテンションが落ちたな……)
ふたりが同じ大学を目指していると知ってからだ。
朔夜の眉には数ミリのしわが刻まれているし、目はかすかに淀んでいる。
幾分ムスッとしたような表情だ。しかしそれが彼女にとって、人生最大の衝撃を受けたときの苛立ちの表情なのだと、直哉はちゃんと察していた。
おかげでリビングの空気は冷えに冷えていく。
異変に気付かないのは小雪だけだ。
「大学かあ。どんな友達ができるのか、今から楽しみだわ!」
どこかワクワクと新たな生活へと思いを馳せつつ、ケーキの最後のイチゴを口へと放り込む。
ちらっと時計を見ればお昼過ぎ。まだ夕飯の準備を進めるには早い時間だ。
小雪は手を叩いてきびきびと指示を出す。
「よし、そのためには勉強会が必要ね。私たちはリビングを片付けるから、直哉くんにはお風呂掃除をお任せするわね! それが終わったらビシバシいくわよ!」
「お、おう。分かったよ」
おずおずとうなずく直哉のことを、朔夜は無言のままでじっと見つめていた。
◇
白金邸のお風呂は、豪華な檜風呂だった。
床は大理石だし、大きなガラスの向こうには古風な坪庭が広がっている。日本文化に傾倒しているハワードが特注したと聞いていたが、実際に見るのは初めてだった。
「旅館の風呂だぁ……」
お金持ちパワーに圧倒されつつ、直哉は洗剤を振りかけてスポンジで擦る。
風呂の豪華さを前にしてそわそわしたし、小雪の使っているシャンプーが置かれていて、必然的に入浴シーンが脳内再生された。気が散る要素が多すぎる。
その上、気がかりなのは朔夜のことだった。
彼女の心情など手に取るように分かる。
(朔夜ちゃんをモヤモヤさせちゃって悪いなあ……)
複雑な心情を、洗剤と一緒に洗い流そうとする。
しかし排水溝に吸い込まれる泡を見届けても、直哉の心は晴れないままだった。
ため息まじりにリビングへと戻りつつ、メールを確認。すると先ほど法介に送った返事がもう届いていた。
『了解。そっちは任せてくれていいから、小雪さんたちと気を付けてね』
『ありがと。後はよろしく』
そんな簡素なメールに、手早くお礼のメールを送っておく。
そうしてリビングに足を踏み入れた、その途端。
「きゃー! 懐かしい!」
「へ?」
小雪の歓声が出迎えてくれた。
何かと思って見てみれば、姉妹でアルバムを広げていた。テーブルには分厚い冊子が積み重なっており、それらすべてにハワードの筆跡で年月日が記載されている。マメな彼らしい。
直哉は苦笑しつつ姉妹の輪に加わった。
「片付けてから勉強するんじゃなかったのかよ」
「あら、息抜きだって大事でしょ。直哉くんも見ていいわよ」
小雪は澄ました顔で言う。
お言葉に甘えてアルバムを覗き込めば、幼い小雪が写っていた。
生まれたばかりの赤ん坊がすやすやと眠っていて、その顔を覗き込んでいる微笑ましいシーンだ。幼い小雪は幸せそうに顔を綻ばせていて、赤ん坊の頬をつんつんしている。
小雪はニコニコと続けた。
「朔夜が引っ張り出してきたのよ。珍しいこともあったものだわ」
「へえ……朔夜ちゃんがね……」
「うん。久々に見たら懐かしくなってつい」
朔夜は淡々とうなずいた。
続きは明日更新。