嵐の夜に
理不尽に怒鳴りつつも、小雪は着替えを完了した。
家から持ってきた、もこもこしたパジャマだ。
ショートパンツから、すらりとした素足が伸びて健康的で可愛らしい。いかにも女の子といった出で立ちなので、彼氏ならひと目見ただけでテンションが上がることだろう。
だが、直哉の心は完全に凪いでいた。ほっと胸をなで下ろす。
「服を着てくれるだけで、こんなに安心できるなんて……考えたこともなかったなあ」
「くっそう……彼女のパジャマを見てその反応とか、どうかと思うんだけど」
「あ、すっごく可愛いよ。よく似合ってる」
「取って付けたように言うんじゃないわよ! でも、まあ……ありがとね!?」
ヤケクソ気味に言って、小雪はそっぽを向く。今さら恥ずかしくなってきたらしい。
そこで――。
どぉおおおん!
「ひゃうぅっ!?」
「うおわっ!?」
轟音とともに家が揺れて、小雪が大きく跳び上がった。
そのまま腕に抱き付いてきたので、直哉は素数を数えて平常心を保とうとする。しかしノーブラなのが感触で分かってしまい、その努力は水疱と帰した。
轟音はなおも続く。窓の外は街灯すら消えた真っ暗闇だが、空に何度も閃光が走った。
直哉にしがみついたまま、小雪は半泣きだ。
「ううっ……雷も鳴り出してきたしぃ……」
「そろそろピークみたいだな……」
とはいえ、予報ではこれも長くは続かないという。
しっかり戸締まりをして、大人しくしていれば問題はないだろう。
直哉は小雪の手をやんわりと引いて笑顔を向ける。
「ほら、リビングに行こうぜ。なんなら携帯ゲームを貸してやるから、それでも遊んでろって。ヘッドホンを付けてりゃ、雷の音も少しはマシだろ」
早くこの狭い脱衣所から逃げ出したい一心だった。
しかし、小雪は一歩も動こうとしない。代わりに、抱き付いたままじーっと直哉のことを見つめてくる。意図は読めたが、一応聞いておく。
「……なんで動かないんですかね?」
「だって、次は直哉くんがお風呂に入る番でしょ」
小雪はムスッとした顔で言う。
そっと直哉から離れて壁に背を預け、高飛車に続けることには――。
「だから、ここで待っててあげるわ。ありがたく思うことね」
「なんのプレイだよ!?」
付き合って二ヶ月で実績解除するものではなかった。
直哉のツッコミに、小雪は澄まし顔を取り払って真っ赤になって叫ぶ。
「そういうのじゃないし! こんなに怯える彼女をひとり放置するとか、彼氏の風上にも置けないって言ってるのよ!」
「彼氏の風呂に付き添う彼女もどうかと思うけどな!?」
脱衣所でしばし押し問答を続けたものの、泣く子と小雪には勝てるはずもない。
結果、今度は小雪が壁を向き、直哉が急いで風呂に入ることとなった。
「ちゃんと髪は洗った? リンスもしっかりやるのよ、いいわね」
「ほんとになんのプレイだよぉ……」
入浴中にひとり残されて心細いのか、小雪がやいやい茶々を入れてきたので、全く心が安まらなかったのは言うまでもない。
暴風雨が続く中、可及的速やかに入浴を終えて、手早くジャージに着替える。
こうしてひとまずのミッションは完了した。
ふたり揃って真っ暗なリビングに戻ってから、直哉はぱんっと手を叩いて宣言する。
「よし、もうとっとと寝よう」
「ええー……」
小雪はあからさまに不服そうである。
リビングのソファに腰を下ろし、足を抱えて体育座りをする。
「せっかくのお泊まりなんだし、夜更かししたっていいじゃない。明日は日曜なんだし」
「いいや、ダメだ。こういう日は早く寝るに限る」
きっぱりとそう言って、直哉は和室に繋がるふすまを開ける。
六畳の和室には布団一式がすでに準備されていた。非常灯や水の入ったペットボトルまでばっちりで、お客様にくつろいでいただくには十分だろう。
「そういうわけだから、小雪はこっちの和室を使ってくれ」
「……やだ」
小雪はむすーっとして膨れるばかりだ。体育座りのまま動こうとしない。
そんな小雪に、直哉は肩を落とすのだ。
「いや、言いたいことは分かるけど……それは確実にアウトだろ」
「なんでよ。ひとりで寝たくないから、夜更かしに付き合えって言いたいだけなのに」
小雪はびしっと窓を指し示す。
外は依然として雨風が暴れ回っており、ときおり空には稲光が走る。
「こんな嵐の中で、ひとりで眠れるわけないでしょ。大事な彼女を見捨てる気?」
「夜更かし自体はいいんだよ、夜更かし自体は……」
停電の中とはいえ、大好きな彼女と夜更かし。
かなりグッとくるシチュエーションだが、そのルートを選んだ場合のオチは見えていた。
「そしたらまず間違いなく、小雪は俺を布団に引きずり込むんだよ。ひとりは嫌だって。で、俺はそれを断り切れずに一晩一緒に過ごすことになる」
「うぐっ……そんなはしたない真似しないし、とは言えないのよね……」
小雪はもごもごと言葉に詰まる。
これまでの己の行動を省みて、やりかねないと思ったのだろう。
それでも俯き加減の上目遣いで、直哉に問いかけてくる。
「でも、直哉くんは眠った私に変なことするような人じゃないでしょ……? だから大丈夫だもん」
「うっ……それは卑怯だろ」
殺し文句にも程があった。
たしかに、そんなことをするつもりは毛頭ない。とはいえ一緒にいて、魔が差す可能性は十二分にあった。直哉はわざと軽薄な笑みを浮かべて、おどけるように言ってみる。
「いいのか、俺だって男なんだ。ちょっと触ったりするかもしれないぞ」
「…………し」
「へ」
直哉はぴしっと固まった。蚊の鳴くような小雪の声が、聞き取れなかったからではない。ばっちり聞き取り、意味を理解してしまったからだ。
小雪はダメ押しとばかりに、もう一度はっきりと告げる。
「直哉くんなら、いいし」
「ぐふっ!?」
ダメ押しのクリティカルヒットだった。
直哉は胸を押さえてしゃがみこむ。
そこに小雪が真っ赤な顔で近付いてきて、ぐいぐいと体を押してきた。
「だいたい、このまえ私が風邪を引いたときだって一緒のお布団に入ったでしょ。今さら何の問題があるっていうのよ」
「あれも小雪が無理やり引きずり込んだんだろ……事故みたいなもんだって」
「今このときだって緊急事態よ。そういうわけだから! ほら、トランプでも何でも持ってきなさい! 夜はまだ長いのよ!」
「ほんっと、開き直ったときの勢いはすごいんだよなあ……」
こうなったらもうヤケだ。
直哉はよろよろと立ち上がり、夜更かしの準備に取りかかった。
停電中なので昼間のようなテレビゲームはできず、ボードゲームで時間を潰した。
真っ暗な和室で非常灯を付け、お菓子とジュースをお供にして繰り広げるゲームは、雑談を交えながら淡々と進む。お色気イベントからはほど遠い、まったりとした空気だ。
そして、深夜一時を回ったころ。
「おっ、ついた」
ぱっと天井の電灯が灯った。
リビングも明るくなって、冷蔵庫の駆動音が小さく鳴り響く。停電が直ったようだ。
ゲームに熱中する間に、いつしか嵐は止んでいた。窓の外からは風音も聞こえず、しんと静まり返っている。
ゲームを中断して、直哉は家の中をチェックした。
窓も無事だし水も出る。これならもう何の心配もないだろう。
そのため、すぐに和室に戻って小雪の肩を揺すった。
「よし。そろそろ寝るか、小雪」
「むにゅう……」
小雪はボードゲームのカードを持ったまま、うつらうつらと船を漕いでいた。
まぶたはほとんど落ちていて、横になったらすぐに夢の世界に旅立ちそうだ。
布団を敷いてやって、手を引いてそこに誘導する。小雪は大人しくそれに従ったのだが――。
「ほら、布団で寝ろ。俺は上に行くからな」
「むう……う」
そこで小雪がきゅっと眉をひそめた。
わがままを言う子供のようにかぶりを振って、直哉の袖を掴む。
「やだぁ……行っちゃだめ」
「やっぱりこうなるかー……」
手の力は弱く、振り払うのは簡単だ。
だが、とうてい無理な話だった。読んだ展開そのままだし、覚悟はできていた。
「えっと、それじゃ……お邪魔します」
「はーい……」
小雪に布団をかけてやり、直哉もその隣へ横になる。
幸いにして、客用の布団は大きめだ。
ふたりで並んで入っても、互いの体がはみ出すことはない。
ただキングサイズのベッドのような余裕があるわけでもないので、どうしても体が触れる。触れ合った場所から相手の体温が染みこんで、湯冷めした体がぽかぽかした。
そのうえ小雪から漂うのは、よく知るシャンプーとボディソープの匂いだ。自分と同じ香りに包まれていることが、やたらとエロティックに感じられた。
直哉はもちろんドキドキしたし、小雪の心臓もうるさいほどに鼓動を刻む。
ただし、小雪は睡魔の方にかなり軍配が上がっていた。
布団と直哉の体温が心地いいのか、完全に目を閉じてしまっている。唇からはゆっくりしたテンポの吐息がこぼれ落ち、もう寝落ち秒読みだ。
そんな彼女の寝顔を覗き込み、直哉は苦笑するしかない。
(これで手を出しちゃいけないとか、俺は前世で何か大きな罪でも犯したのか……?)
ひょっとすると、世界を滅ぼした大魔王だったりして。それならこの拷問も納得だ。
そんな益体のないことを考えているうちに、直哉も睡魔に襲われはじめる。今日はいろいろあったので、疲れが溜まっていた。
小雪がそばにいるから、ドキドキもするし、それと同じくらいに安心もする。
そしてそれは向こうも同じらしい。
静まり返った部屋の中で、小雪は吐息とともにかすれた声をこぼす。
それは眠気を言い訳にした素直な言葉で――。
「むにゃ……いつもありがとね、直哉くん……」
「いいって。もう寝ろよ」
「うん……やっぱり、直哉くんのそばなら……嵐だってへっちゃらね」
へにゃっと柔らかく笑って、直哉の鼻先をつんっとつつく。
「誕生日は楽しみにしてなさいよ……いつものぶん、お祝いしてあげるんだから……」
「ありがと、小雪」
「来年も、つぎのとしも、ずっと、ずーっと、お祝いするんだから……」
「うん……うん。俺もお祝いするよ」
そんなふうにとりとめのない会話を続け、ふたりは同じ布団で眠りに落ちた。
その日の夜は夢すら見ずにぐっすり寝られたのは言うまでもない。
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