茶番
そんなふたりを最初に出迎えたのは、熱帯魚のコーナーだった。
大きな水槽の中で、色とりどりの魚が尾びれを優雅に揺らしながら泳いでいる。珊瑚の周りにはイソギンチャクが触手を踊らせ、そこに乗った小さなエビが鮮やかな赤色を添えていた。
色彩がワルツを奏で、上から差し込む光がキラキラと輝く。
「わあ、綺麗……!」
「たしかになかなか絶景だなあ」
小雪も一瞬でその光景に見蕩れてしまう。
目を輝かせて見つめる小雪のことを、直哉はこっそり観察して網膜に焼き付けておいた。
小雪の恋愛スキルアップのためのデートではあるものの、デートはデートだ。直哉は全力で楽しむつもりで――。
「あっ、見てごらんなさいな。直哉くん」
「へ、何が?」
そこで不意に小雪が水槽の中を指さした。
「あそこ。可愛いお魚がいるわよ、きらきら光ってる!」
「えっ、どこ? よく見えないな」
「だからあそこだってば、ほら!」
そこで小雪が直哉の腕をぐいっと自分の方に引き寄せた。
当然ふたりは密着し、小雪の胸が二の腕に押しつけられる。
服の上からでも、その柔らかな膨らみが形を変えているのがよく分かった。触れ合った場所が、燃え上がるように熱く感じる。
直哉がわずかに息を詰まらせたのに気付いたのか、小雪がそっとこちらを見上げてくる。
その顔に浮かんでいるのは不敵な笑みだ。敵将を討ち取った兵の顔。
「……ふふん、これはどうかしら。自然な密着。これぞ定番の恋愛テクでしょ?」
「やるなあ……」
展開は読めていたし、これくらいの密着は慣れたものだ。
だがしかし、小雪が自分から仕掛けてきたという点に大きな意味があった。並の男なら、もうここで膝をついて陥落宣言をしていたところだろう。
ただ、それなら直哉も攻勢に転じるまでである。
ちょっとそっぽを向いて、顔をわずかに赤らめて、ぶっきら棒に言う。
「魚も可愛いけど……小雪の方がもっと可愛いよ」
「うっ……!?」
その瞬間、小雪が胸を押さえてうめき声を上げた。
息も絶え絶えに絞り出すのは、敵へと送る精一杯の賛辞だ。
「や、やるじゃないの、直哉くん。『可愛い』だの『綺麗』だの何度も言われてきたけど……恥じらいながら、っていうのが高得点だわ! 鈍感ラブコメ主人公っていうのは、鈍感な分こういう直球を投げることができるのね……!?」
「その通り。ただの朴念仁じゃないってこと」
「奥が深いわね、鈍感ラブコメ主人公……」
小雪はしみじみと噛みしめてから、ぐっと拳を握って決意を見せた。
「それなら私も負けていられないわ。これからは本気でいくわよ、直哉くん!」
「はは、相手にとって不足なしだな」
その宣戦布告を、直哉はにっこり笑って言い値で買った。
ツッコミ不在のデートはつつがなく続く。
ふたりはラッコのプールや大水槽、クラゲのコーナーなどを順々に看て回った。
その間に、小雪は様々な攻撃を繰り出してきた。先述のようなさりげないボディタッチはもちろんのこと――。
「改めて見ると直哉くんってけっこう背が高いのね。へえ……やっぱり男の子なんだ」
頬を赤らめて、そんな褒め殺しをしてみたり。
「えーっ、すごーい。知らなかったー。へえー、直哉くんってば物知りねー」
「そこはもうちょっと心を込めた方がいいんじゃないか? 自分のがもっと詳しいからってさ」
直哉が魚の雑学を語ってみれば、棒読み気味の合コン必勝セリフを送ってくれたりもした。
少し慣れていないアプローチも多々あったが、小雪は攻めに攻め続けた。
直哉は鈍感ラブコメ主人公らしくそれをのらくらかわしていたものの、何度か見事にドキッとさせられた。
一通り水槽展示を見て回ってから、ふたりはとある列に並ぶ。
「むう……」
列がゆっくりと進む中、小雪は小さなメモ帳を広げて険しい顔をしている。
書かれているのは、水族館内で繰り出した攻撃だ。
隣にはそれに対する直哉の反応が書かれていて、バツマークの方がはるかに多い。
「今のところ、ボディタッチ系の作戦が一番分かりやすく効いたようね……何、男ってこうも単純なものなの?」
「そりゃ、いくら鈍感なやつだろうと間違いなくクリティカルだろうし」
おっぱいが嫌いな男はそうそういない。
そんなことを直哉が婉曲的に語ってみせれば、小雪はじろりと眼光を強める。
デートで落とそうとしている男の子に向けるそれではなく、繊毛がびっしり生えた毛虫を見るような眼差しだ。
「不潔だわ……男って最低ね」
「うん、何か言ったか? まわりの人たちの声が大きくてさあ」
「都合のいいときだけ耳を悪くする……! そういうのはヒロインの告白シーンだけでいいのよ! 日常会話で聞き逃しまくってたら、ただ耳鼻科への通院が必要なひとじゃない!」
小雪はガミガミと声を荒らげる。
ダメ元の誤魔化しも効かなかったようだ。直哉は慌てて前方を指し示す。
「そ、それよりほら、見えてきたぞ」
「はあ? 誤魔化そうたってそうは……っ、はわあ!」
前を向いた瞬間、小雪の顔がぱっと輝いた。
列はずいぶん進んでおり、目当てのコーナーがすぐそこに迫っていた。低い階段を上がった先には小さなプールが広がっていて、ペンギンたちがぷかぷかと浮かんでいる。
小雪は肩を震わせて歓喜にむせぶ。
「ぺ、ペンギンさんが近いわ……! どどど、どうしましょう、直哉くん!」
「餌やり体験、ギリギリで滑り込めてよかったなあ」
挙動不審な小雪に、直哉はほのぼのと笑みを返す。
ペンギン餌やり体験は人気のコーナーらしく、直哉たちが長い列に並んだ瞬間に定員オーバーとなった。そんなふたりの番が来るまではもう少し。
すぐ前のカップルたちは、ゴム手袋を付けておっかなびっくり魚をつまみ上げている。
餌ほしさで騒ぎ立てるペンギンたちに、すっかり圧倒されていた。
背後からそれを覗き込み、直哉は少しだけ身を引いてしまう。
「ペンギンの口、至近距離で見るとなかなか怖いんだな……」
「あらそう? あれはあれで意外性があってキュートじゃないの」
「さすがは動物好き……どこまでも本気だな」
小雪はウキウキ顔のままである。
テンションを上げて腕まくりしつつ、直哉にびしっと人差し指を突きつける。
「よし、直哉くん。一時休戦よ。今の私はあなたにかまっている暇はないの」
「はいはい。それじゃ俺も察しのよさ解禁かな」
「餌やり体験でどう使うっていうのよ、そのスキル」
そんな話をしているうちに、前のカップルが餌やり体験を終えて去って行った。
とうとう直哉たちの番である。いの一番に小雪が前に出て、飼育員に説明を受けてゴム手袋と長靴をしっかり装備する。
餌やりの台に上れば、ペンギンたちはまた一斉に喚声を上げた。
鳴き声の勢いは凄まじく、大きく口を開けてびっしりと棘が並んだ舌を突き出してくる。鳥特有のどこを見ているかも分からない瞳孔がいくつも並ぶ光景は、子供が見たら泣き出しかねない。
わりと壮絶な餌やり体験だが、小雪は臆することなく目を輝かせる。
「やっぱりみんな可愛いわ……! え、えっと、どの子にあげればいいですか……?」
「お客様の目の前にいる、羽根に青いタグが付いてる子にお願いします」
「は、はい。そーっと、そーっと……」
飼育員に指定されたペンギンへと、小雪は慎重に魚を運ぶ。
大きく開かれた口の中に小アジを滑り込ませれば――ペンギンはそれをごくりと丸呑みし、満足げに鳴いた。小雪も千里の道を走りきったような達成感に打ち震える。
「食べてくれたわ……!」
「おめでと。それじゃ、次は俺の番か」
軽くバトンタッチして、直哉が餌やり台に上る。
そんななか、小雪はゴム手袋を脱ぎながらふとプールの隅を見やった。
「きゅう……」
そこには一匹のペンギンがいた。
部屋の隅で壁を見つめたまま微動だにせず、仲間たちが餌目当てに騒ぎ立てるのにも目もくれない。騒々しい一角とは対照的に寂としている。
「あら? そっちの子は食べないんですか?」
「ちょっと今は食欲がないみたいで……」
飼育員が苦笑いでかぶりを振る。
「へえ。近くで見てもいいですか?」
「はい、どうぞどうぞ。おとなしい子ですから」
許可をもらった直哉は隅に移動して、そのペンギンの目を覗き込む。
最初、ペンギンは突然現れた人間に興味を示さなかった。しかし、ふとした瞬間に目が合って――直哉はため息をこぼす。
「そっか、大変だったな……」
「きゅるう……!」
ペンギンがうなずくように一声鳴いた。
小雪はいぶかるように首をひねる。
「えっ、ちょっと。何を通じ合っているわけ?」
「このペンギン、彼女を他のオスに寝取られたんだよ。そうですよね?」
「ど、どうしてそのことを……! お客さん、うちのペンギンの相当なマニアか何かですか?」
飼育員は動揺するばかり。
続きは明日更新。ペンギンって間近で見ると怖いですよね。






