聖女マリア
「ダニエルが行方不明? 冗談でしょう?」
マリア──マリア・ホルボーンは眉をひそめた。婚約者のダニエル・マーティン・スターリングは、この王国の第一王子だ。
だというのに今までその情報が自分の耳に入ってこなかったことが驚きだった。
結婚式の準備で忙しかったが、それでも会いたいと思うのが当然なので不安には思っていた。
だが、あのように熱烈に愛を告げてくれた後に、まさかこのような事態になっているとは思いもしない。
「どうしていままでわたしの耳に入れて下さらなかったのかしら? わたし、あの方の婚約者なのに」
涙を浮かべると、気の毒そうに報告をあげてきた王子――ダニエルの弟、エルドレッドがひどく慌てた。マリアの涙を見ると、誰も彼も心を動かされるのだった。
「君に余計な心配をさせたくなかったんだ」
「余計な心配って……のうのうと結婚式の準備などしていたわたしの身にもなってください! わたし、あの方のこと、一番に心配したかった!」
涙をこぼし訴えると、エルドレッドはわたわたと言い訳をした。
「だ、だけど、女と逃げたとか聞いたら――あっ」
「女?」
失言だったと気づいたのか、エルドレッドは口を覆う。だがその仕草がひどくわざとらしい。本当は聞かせたかったのではないかとマリアは泣き顔の裏で訝しむ。
「……どういうことです?」
「す、すべてはあの女が悪いんだ! あの女が兄をたぶらかしたから!」
わざとらしい芝居はこの際気にせずに尋ねる。
「あの女?」
「スカーレット・メイ・マーキュリーだよ」
「まさか、スカーレット様が? でもダニエルはあの時あの方との婚約を破棄されたばかりではありませんか?」
「なんといっても魔女だから。未練を捨てきれずに魅惑の魔法でも使ったんだよ。兄上も情けない……たしかに美女だけどさあ……僕なら君がいるのに他の女にフラフラするなんて絶対しないんだけどなあ」
ちらちらとした流し目を無視しながら、マリアは首をかしげる。
(それはあなたがスカーレットをけしかけたのではなくて?)
そんな疑惑が浮かんでくる。
この弟は、兄に対してひどい劣等感を抱いていた。兄のものならば全て手に入れたいと願っていた。それはマリアも含めてだ。
そんな人だから、きっと兄を追い落とすための確たる証拠を手に入れるために奔走したのだろう。そうして証拠を掴んで、兄の不実を餌に、マリアを──そして王太子としての地位をも手に入れようとしているのだろう。
だが、ダニエルはマリアに愛を誓ってくれた。皆の前で。そしてスカーレットの前でも。
あのような辱めを受けたあとに、まだ男を諦めきれないとは思えない。
自分だったらそんな屈辱には耐えられないと思うのだ。
(だけど……)
あのときのダニエルはたしかにおかしかった。
私に触れるのは結婚するまで待って、と断ったが、それが形だけのものということくらい分かっただろうに。
彼の『君を大事にしたい』という言葉を信じていた。
昔から彼は誠実で、そして真面目だった。あの外見だ。言い寄る女性は多かっただろうに、親の決めた許嫁、スカーレット一人を大事にしてきたような人だった。
だからこそ、マリアは彼がほしい、と思ったのだ。
けれど、あれが実はやんわりとした拒絶だったとしたら?
「……根拠もなくそのようなことをおっしゃってはいけませんわ」
胸の中を嫌な予感が這い回る。上の空のまま口は動いた。
「根拠ならあるよ? マーキュリー公爵領で兄を見かけたという情報が入ったんだ」
耳をふさいでしまいたいと思う。だが目を背けても事実は変わらない。
「マーキュリー公爵領といっても広いでしょう?」
「南東のドラテンタルだ」
「ドラテンタル……」
街の名には覚えがあった。
マリアはわずかな焦燥を覚える。
そんな情報を得てしまったのならば、確かめないわけにはいかない。ダニエルの婚約者として、そして――聖女として。
「王にお取次ぎを願います」
「え、父上に?」
「王子の行方不明です。王国の一大事ではございませんか。しかも――スカーレット様がおられるのはあの、竜の谷なのでしょう?」
「竜は大昔に絶滅したから、もうただの田舎だがな」
「……本当にそうでしょうか?」
マリアがじっとみつめるとエルドレッドはたじろいだ。神話を思い出したのだろう。
国が危機に瀕した時、聖女が現れ国を救うという神話を。
マリアはこれまでにも多くの奇跡を起こして、国を救ってきた。干ばつでは雨を降らし、疫病にも効果的な薬を見つけてきた。さらに、隣国の侵略を事前に食い止め、クーデターの首謀者を暴いた。
だが、神話では聖女は竜を従える。マリアにはまだ竜がいない。
そのため、聖女か否か判断がつかないと囁くものも多い。それを理由にマリアとダニエルとの結婚に反対する勢力もいまだにいる。
マリアが聖女の地位を確固とし、これからも王国を救うには、竜が必要だった。
これは神のお導きかもしれないとマリアは思う。
これまでもマリアの前に壁が立ちふさがれば、必ず奇跡が起こり道が拓けた。
(信じるものは救われるの)
きっと今回もそうだと思った。