天然の冷蔵庫
ダニエルが目覚めたのは日がだいぶん高くなってからだった。言い逃れのできない朝寝坊だ。弟子の自覚が皆無だ。
だが、スカーレットは「よっぽど疲れていたのね」と咎めることはしなかった。優しい。
ゆで卵とラズベリージャムの乗ったパンを食べ、ヤギのミルクを飲んだ。ヤギと鶏は畑の奥で飼っているらしい。飼育までするというのは、やはり難易度が高すぎではないか。
珍獣を見る目で見ていると、
「うーん、昨日の感じだと黒苺も収穫時期よね……でも今採ってきても食べきれないしどうしよう。腐らせるのもったいない」
スカーレットが顎に手を当てて考え始める。
「……冷凍は?」
思わず言ってしまった後、ダニエルはハッとする。この世界には冷蔵庫、そして冷凍庫はない。この部屋にもそういったものは見当たらなかった。
だが、スカーレットは考え事に夢中だったのか特に気にしない。ぽんと手を打って顔を輝かせる。
「うんそうね。それがいいわ」
彼女は「ちょっと火を見てて」と言って外に出ると、しばらくして黒苺と先ほどの木苺を大量に摘んできた。
「冷凍するの? 魔法?」
「ううん、物理的に氷に突っ込むだけ」
「氷ってどこに……」
「雪があるじゃない」
スカーレットは笑うけれど、
「雪って――雪!?」
スカーレットは夏が近いと言うのに白い冠を被る二つの山の頂上を指差す。ダニエルは顔を引きつらせた。
だが、驚くのは早かった。
スカーレットは指笛を吹く。高い音は、令嬢が出しているとは思えないほどに谷中に綺麗に響いた。
直後。
ぶわっと風が小屋に吹き込む。突風に目を閉じたダニエルが目を開けた時、彼の目の前には玉虫色に輝く動物が一匹いた。
目の前が暗くなる。
(あぁ、来るのが遅かったのか? フラグは折ることができない?)
身長は三メートルくらいだろうか。そこにいたのはおそらくはまだ子供のドラゴン。その背にスカーレットが誇らしげに乗っていたのだ。
「ど、ドラゴン――」
ドラゴンを飼い慣らし、復讐。そのシーンが頭に蘇って、ダニエルは愕然とした。だがそんな彼の前でスカーレットは愛おしそうにドラゴンを撫でた。
「もう十年前くらいに卵を拾ったの。そうしたら温めてもいないのに孵っちゃって。親みたいに思ってるみたいなのよね」
竜の生存報告は上がってきていない。隠していたのだろう。
「誰にも言っていない?」
「ええ。言えば捕まって使役されるから」
スカーレットはじっとダニエルを見つめた。だから誰かに言ったらただじゃおかない、そんな圧を感じる。静かに生唾を飲み込む。
「……だから、ここに住むことにした?」
王都では育てることはできないだろう。ここが妙に住みやすく整えられているのは、この竜の飼育をするために以前から訪れていたからかもしれない。そんな推測が頭をよぎる。
「そうね。……それも、あるわ」
他の理由というのは、やはり傷心を癒すためだというのだろうか。スカーレットはひどく苦しそうな顔をする。だがすぐに憂いを消して、顔を上げた。
「アイザックっていうの。アイザック、こちらレイ。ご挨拶しなさい?」
そういうとドラゴンはダニエルを見つめてくる。
爬虫類独特の縦長の瞳孔が鋭く光った。聡明そうな目がお前は何者だと問いかけてくる気がした。ひやりとする。
やがてアイザックは不愉快そうに目を細める。不合格らしい。カチカチと歯を鳴らされる。喉の奥に熱の塊を見つけ、顔がひきつる。これはあれだ、ゴジラが火を噴く前のあの兆候。
「アイザック、レイは乗せてくれないの?」
アイザックは頷く。どうやら人の言葉を理解するらしい。じわりと別の恐怖が湧き上がる。
この先の展開が現実味を帯びてきたからだ。
アイザックがいるから、スカーレットはここから離れないだろう。もし傷心のせいではなかったとしても、ストーリー上の形は同じ。そのことが不安でしかない。
(だけど復讐に使うためでないならば、問題はないのでは?)
ダニエルは自分に言い聞かせて平静を保とうとする。強大な武器は持つ人間によって、善にも悪にもなる。
考え込むダニエルの前で、スカーレットは言った。
「ちょっと上に行ってくるから」
「え、上って」
「だから冷凍するのよ」
そういうと、スカーレットはアイザックとともに空に舞い上がった。
一瞬後。地面に大きな影が広がる。竜の姿はみるみるうちに小さくなり、やがて雪山に到達する。
このような場所で娘が一人生活するなど無理だと思っていたけれど、竜一匹で全く不可能に思えなくなる。あの速度で上下左右に動けるのならば、村までも楽に下りていけるだろう。
やがてスカーレットは降りてくる。その間十分ほど。雪が残っていることを考えて、ここより十度は気温が低い。それを踏まえても結構な距離はありそうだが、飛んでいけるのならばすぐだ。
「ついでにお肉も持ってきちゃった。今日はシチューにしようね」
「れい、ぞうこなのか、あれが」
頭上彼方にある雪山を指差して呟くと、
「すごいでしょ」
氷漬けの肉を手にニッコリと笑われる。天然の冷蔵庫には他にもいろんなものが入っているのだろう。
アイザックがふふん、と鼻で笑う。なんとなくドヤ顔をされているようでムッとする。
ダニエルは指を持ち上げる。そして空に向かって文字を描く。
「グラキエース」
氷の粉が空を舞い、雪のように降ってくる。
「わあっ」
スカーレットが目を見開いた。
「そのくらいのことなら、竜に頼るまでもない」
「あ、あなた、ほんとにすごい魔法使いなのね!?」
アイザックがその目に凶悪な光を宿し、ダニエルはハッと我に返る。
(おれ、なんで張り合ってんだ。子供か)
もしかして、体に精神が引きずられているのだろうか。
スカーレットはキラキラした目でこちらを見ている。アイザックの機嫌があからさまに悪くなっている。
だが、スカーレットが発した言葉で状況は一変する。
「ほんとうは欲しかったの、冷蔵庫」
「え? 冷蔵庫?」
「だって、いちいちアイザックに頼むの申し訳ないじゃない? ねえ、こんな立派な竜なのに」
スカーレットが褒めるとアイザックがドヤ顔をしたように見えた。なんなんだこの竜は。顔がひきつる。
「え、あ、……まぁ、そうだな」
ダニエルに頼むのは悪くないというふうに聞こえたが。
スカーレットは言った。
「うん。合格ね。ここに置いてあげる」
「え」
「お試しって言ってたでしょ? 忘れてたわね? ちゃんと役に立ってね?」
そういえばそうだった、とダニエルは冷や汗をかいた。何もせずに置いてもらおうとか、……子供か!
「どうぞ、よろしくおねがいします……」
頭を下げると、スカーレットは笑う。
「こちらこそ」
そうして始まったスローライフだったが、一週間も過ごすと、ダニエルは本来の目的を忘れそうになっていた。
償い、誠意を見せて王都にスカーレットを連れて帰る。それが目的だったはずなのだ。だが、ダニエルは王都の生活よりこちらでの生活の方が快適だと思ってしまった。
なにを考えているかわからない嘘つきばかりに囲まれて神経をすり減らすよりも、ここで健全な生活をするほうが幸せだった。
ならば、連れて帰る理由がなくなってしまう。不遇の令嬢がドラゴンを飼い慣らし、復讐をするというストーリーにそぐわないからだ。
悩みは深まり、さらに、別の悩みが彼を襲うようになってきていた。
スカーレットに対して、特別な感情は持っていなかったはずだった。自分が傷つけた女性だから償わなければ、という気持ちで今までいた。
恋愛感情を失ったマリアへの思いと、スカーレットへの思いは同じ重さだった。
だが秤の針は揺れ始める。
王都での顔と違う生き生きとした顔を見せるスカーレットが、可愛く見え始めてしまったのだ。