おれと一緒に逃げてくれ
スカーレットは小屋から外に出ると大きく伸びをした。
空を見上げると青い空に薄い雲が浮いている。空の高いところでは鳶がくるりくるりと舞っていた。
「んー!!!! 今日もサイコーの天気!!!!」
王都の窮屈な生活から離れて早ひと月。スカーレットは田舎暮らしを満喫中だった。
ここは辺境の地で、竜の谷と呼ばれている小さな村のさらに外れの高地だった。
スカーレットの家、マーキュリー家の領地の一部だった。といっても、幼い頃にスカーレットが父にねだってもらった土地なのだが。
村の名は、竜がこのあたりの山に生息していた名残でついたそうだ。
今は人も減り、田舎も田舎のど田舎となっている。
婚約者に婚約を破棄され、醜聞を恥じたスカーレットはこの地に逃げてきた――ということになっている。
表向きは。
卵をとり、ヤギのミルクを絞る。朝の日課を終えたあと、額に滲んだ汗を拭った。
「さあて、今日はなにをしようかしら。そろそろあれが収穫できる時期よね――って……あれ?」
ふと崖の下を見下ろしたスカーレットは首を傾げた。なんだか鳥が騒いでいる。
「誰か来たのかしら?」
不安が襲う。東西に細長く伸びるこの渓谷は、南北にある二つの険しい山の狭間にあり、高さ五十メートルほどの崖となっている。その内、広い棚になっている部分がスカーレットの根城だ。
相当な登山技術がないとたどりつけないため、よほどのことがない限り人が寄って来ない。だからこそスカーレットはここを選んだのだ。
だが鳥は騒ぎつづける。岩場から鳥が飛び立ち、これはいよいよと構えたとき、ぜいぜいと息の上がる音が聞こえた。
どうやら正規ルート、下の沢から登るルートをきたらしい。とんでもない体力だ。
これはいかつい大男があらわれるのでは――と構えたスカーレットだったが、
「こ、こ、んにちは」
ひょっこりと現れた人影に、スカーレットは思わず目を見張った。
それは一人の少年だった。年の頃は十かそこら。まだ声も可愛らしいボーイソプラノだ。しかも容姿もとんでもなく可愛らしい。
少し癖のある漆黒の髪、穏やかな眉に、長いまつげが囲む、少しつり上がった空のような青い目、通った高い鼻梁。わずかに鋭い眼光と、くっきりとした唇が全体の甘い印象を引き締めている。
(何、この美少年!)
スカーレットは思わずじっくり観察する。
「あ、あなた、どなた?」
「お、おれは――ダ――じゃなくって、えっと……ええっと、レイって言います」
「…………れい?」
懐かしい響きのする名前だった。スカーレットが目を丸くする前で、レイは深呼吸を繰り返し、懸命に息を整える。だが空気が薄いのか、なかなかうまく行かないようだった。
スカーレットは部屋に戻るとコップを持ってくる。そして岩場にかがみ込んで湧き水を汲んだ。頭上にある山から流れ出す雪解け水だ。
レイは一口含むと目を丸くする。そして一気に飲み干すと額の汗を拭った。少し呼吸が落ち着いたところでスカーレットは問い直す。
「あの、ここに何の用?」
「あなた、スカーレット、さん、ですよね? こ、婚約を破棄されて、この地に落ち着いたっていう」
「ええと、そうだけど、なんで知ってるの?」
思わず顔が曇る。こんな子供にまで知れ渡るほど噂になってしまっているのだろうか。人の噂も七十五日というが、落ち着くまではもう少しかかりそうだ。
レイ少年は質問に答えず、噛み付くように言った。
「おれ、未来を見ることができるんです。それで、あなたがラスボ──いえ、悪い魔女になるのを防ぎに来たんです!!!! だから一緒にここから逃げてください!!!!」
スカーレットはもちろんこう言うしかなかった。
「…………あなた、頭、大丈夫?」