たかが恋一つ
「スカーレット。おれはお前との婚約を破棄することにした。そして彼女――マリアと婚約する」
その言葉が本当にやってきたとき、スカーレットは思わずホッとしてしまった。親同士が決めた許嫁。彼とは顔を合わせることも数回で、ほとんど会話を交わすこともなかった形だけの婚約者だ。安堵以外に湧いてくる感情はなかった。
だが無事にイベントをこなして気が抜けたのがいけなかったのだろう。
スカーレットは顔を上げてしまった。そして雷に打たれてしまった。
(え――なに、この、綺麗な人!?)
漆黒の髪に、青い目の、整いすぎた王子様が目の前にはいた。
前の世界でいうと『テレビで見ていたあの俳優が目の前に!』という衝撃だろうか。いや、それ以上かもしれない。美形オーラの迫力で固まって動けないレベルだった。
だが、スカーレットを固まらせたのは、その麗しさだけのせいではないようだった。
彼の目に見覚えがあるような気がした。その眼差しに、スカーレットの心を揺さぶる《なにか》があった。
それを見つけようと、思わずガンを飛ばす勢いで見つめてしまって、気がついたときにはその容姿が頭の中に、心の中に焼き付いてしまっていた。
そして次にやってきたのは強烈な──そしてどこか懐かしい胸の痛みだった。
(わたしが、いったい何をしたっていうの)
急にどうしてこんな目にあっているのだろうという理不尽さに泣けてきてしまった。
責任の一端は確かに自分にあった。
だから、今まで泣き言を飲み込んで、幸せを掴むために頑張ってきた。そしてささやかな幸せに満足するつもりでいた。
けれど、これを手に入れられなければ人生が全部無駄になるような虚無感に襲われたのだ。
たかが恋一つ。
そう甘く見ていた自分に腹がたった。たかが恋などどうして思ってしまったのか。どうして恋の重さを忘れていたのだろうか。この恋一つが手に入るならば、全てを犠牲にできると思えるほどなのに。
だけどこの展開はもう変えられない。決まっていることなのだから。
スカーレットが変えられることはただ一つで、それは彼を忘れてしまうこと。
わかっているのに、スカーレットの胸には、すでに手遅れなのではという予感が生まれていた。
*
青い月が庭をしんしんと照らしていた。
あれから公爵家に戻ると、父はこれ以上ないくらいに怒っていた。王子の心を引き止めておけなかったのはお前の怠慢だと。その通りだったので反論もせずに、一言、これまで育ててもらった礼を言って、用意していた荷物を持って家を出た。
心の中がぐちゃぐちゃで、どうやってこの場所にたどり着いたのか覚えがなかった。誰もいない庭はいつものこと。だけど、これからは本当に一人で生きていかなければならなかった。
「一人になっちゃった」
声がぽつんと落ちると、あたりにまた静寂が広がった。
孤独を噛みしめると、アイザックがのそりと近づいてきて膝に頭を擦り付けてきた。
「ごめん、一人じゃなかったね」
そう言うけれど、スカーレットはこれまでになく孤独だった。片割れとも思える存在を知ってしまった。だから自分が半分に欠けているような気がして仕方がなかったのだ。
その晩、スカーレットは喪失感を埋めるように人形を作った。
こんなこと馬鹿げてる、そう思いながらも手は休まない。小麦粉を練り、形を整え、色を着ける。そうしているうちに、だんだん楽しくなってくる。丁寧に目を書き込むと人形に命が灯ったような気がした。
これは、多分前に好きでやっていた作業なのだろう。
と考えた途端、
『上手いけど……なんていうか……』
げっそりとした誰かの顔が頭をよぎった気がした。そうだ、この顔をスカーレットは──いや『りあ』がよく知っている。
彼はよくりあに文句を言い、そしてりあは腹を立てて反論した。
記憶の底に潜って思い出そうとするけれど、底は深すぎて、なかなかたどり着けない。大事なものを守るように奥深くに沈められている。手が届きそうで、届かない。
『──、だいすき』
スカーレットは息苦しさに思考の底から浮かび上がると大きく深呼吸をした。
とたん、掴んだ記憶が泡となって消えていく。
(今のは一体……)
泣きたくなりながら、スカーレットはできたばかりの人形をそっと抱きしめる。
そうすると、スカーレットの想いと『りあ』の想いがどこか重なり合うような気がしたのだ。
ぽろりと涙がこぼれたときだった。
「ぎぃいいいいい!」
唸り声に振り向くと、アイザックがその目に凶暴な光をたたえてこちらを睨んでいた。
「ど、どうしたの!?」
「ぎぃいいいいいいいい!」
まるで理性を失った獣のようだった。スカーレットは初めてアイザックに対して恐怖を覚えて、後ずさる。
手が緩み、人形がポトリと落ちた瞬間、アイザックが口から火を噴いた。人形めがけて。
「ぎゃあっ!?」
驚いたスカーレットは飛び退いたものの、すぐに湧き水を汲みに行く。そしてまたたく間に燃え上がろうとしているそれに水をかけた。
人形がプスプスと音を立てながら沈火する。
スカーレットは慌ててそれを掴んで、焼け焦げをなでた。人を象ったものだ。なんとなく本人への影響が怖いと思った。
「アイザック!」
叱るとアイザックはきょとんと目を瞬かせる。どうして叱られるのかわからないという顔だった。罪悪感のかけらも見つからない。ということは、これが悪いものだと思っていたのかもしれない。害虫とか、そういった類の。
「これは、大事なものなの」
「ぎいい??」
納得行かないといった様子。そしてアイザックはスカーレットの頬を舐める。涙のあとだと思いついて、だからかと納得した。
「優しいのね」
驚くほどに賢いと思った。そのことに薄っすらと寒気を感じながら、スカーレットはダニエルの人形を抱きしめる。
「この人は、私の大事な人。だから燃やさないでね」
「ぎぃいいい?」
どこか不満げにしながら、アイザックはしぶしぶうなずく。本当に? と問われているようだ。
彼のせいで泣いている。だけど、彼に罪はない。そのことをスカーレットは痛いほどに知っていたのだ。
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いつも読んでいただきありがとうございます。明日から少しお休みします。




