三本の百合の紋章
「レイ、あなた、何者なの? あなたはどうして『ハイジ』を知っている? まさか──レイ、あなたなの?」
スカーレットが真っ直ぐにダニエルを見つめていた。問われたことの意味が微妙にわからない。それでも何者かと問われれば、答えねばならないと思った。
「おれ、おれは──」
腹をくくって謝ろうとしたときだった。渓谷を根城にしている鳥たちが一斉に飛び立った。
「!?」
スカーレットはダニエルから目を逸らすと、小屋の外に出た。ダニエルも追う。渓谷を覗き込む彼女の顔は険しかった。
「どうしてここに……マリア様が」
谷底に兵士が集まっている。彼らが掲げるのは三本の百合の紋章。それはマリアの旗印だ。
軍は父王が貸したのだろうか。数々の困難を奇跡で乗り越えた彼女ならありえるとダニエルは思う。
主人公のマリアにとって、障害など作者のさじ加減で有ってないものになってしまうのだ。
スカーレットの青白い顔を見ていると守ってやらねばと思う。
だがこんな姿で、嘘まで吐いている自分に果たしてそのような資格があるのだろうか。
「────あぁ、そっか」
スカーレットはふとダニエルを見つめた。まじまじと、初めて見る人を見るように。
「そうね。マリアよりも前にここに来る予定の人はただ一人だったわ」
瞬いたあとの彼女の目は虚ろで、諦めの色をしていた。なにを言っているのだろうとダニエルは思う。
ふと、漫画のストーリーに思いを馳せた。そして思い出す。
マリアがドラゴンの討伐に出かける前、婚約者であるダニエルがスカーレットの油断を誘うために先だって彼女の小屋を訪ねるシーンが有ったことを。
ドラゴン討伐直前のことだと思っていたし、子供の姿に変わっていたせいで、自分の行動と重ね合わせることはしなかった。
だが、現にダニエルはスカーレットの油断を誘っている。子供の姿を使って彼女に取り入っていた。これだけ差異があるというのに、いつの間にか漫画のストーリーと同じように動いていた。
そのことに驚愕するダニエルは、スカーレットの言葉で更に目をむいた。
「ダニエル様。あなただったのですね」
「!」
とっさに言葉が出なかった。その態度を見て彼女は確信を得たのか、納得したようにうなずいた。
「油断しました。あなたから逃れることができたなら、わたしは悪い魔女になることはなかったのに……。せっかく大人しく引きこもったのに、どうして打ち捨てておいてくださらなかったのです!」
「どういうことだ?」
予想とは違う切り口で責められてダニエルは目を白黒させた。まるでこうなることを知っていたかのようなセリフだった。
(いや、待て。じゃあさっき彼女がした質問の意味は一体──)
彼はダニエルに誰何した。だが、ダニエルとは別の人物をすでに予想していたように思えたのだ。
彼は混乱の極地にいた。
「悪い魔女って──知ってたのか? 知っててどうして」
「……あぁ、ちがう……違うのね。そうか、どうあがいてもフラグが折れないようになっているってこと……」
「フラグ?」
この世界にそぐわない言葉が落ちた。ダニエルは思い出す。そぐわないのは、フラグという言葉が最初ではなかったと。
違和を感じたのは、確か利尿作用という言葉。この世界では初めて聞いた言葉だった。
さらに彼女はこの世界にないはずのものを知っていた。冷蔵庫と、あのような風呂は、ここには存在しない。
初めて《《その可能性》》に思い当たり戦慄する。
まさか。
「さっきの質問にまだ答えてもらっていませんでしたね。ダニエル──あなたはあのレイなの?」
レイ。それはきっと彼が名乗った偽名ではない。夏月黎かどうかを彼女は問いかけていた。その意図は。
「じゃあ、君は一体──」
真っ直ぐに見つめてくる顔が一人の少女のものと重なる。
『実はわたしの理想の容姿なのよ、この悪役令嬢って。モデル体型っていうの? ほら、わたし背も低いし、ぽっちゃりしてるし……あ、うなずかないで! そこは否定してよ!』
そんな言葉とともに頭の中に浮かぶ名があった。
(あぁ、おれは、どうして、忘れていた?)
「まさか……りあ?」
曇天から日が差す。スカーレットは「なあんだ」と言って微笑んだ。まるで、この世で一番愛しいものを見るようなまなざしだった。
そして急に眼差しを鋭くして谷を見下ろした。
「そういうことなら、わたしがここでこうしている意味があるじゃない?」




