魔女と婚約者
それは突然のことだった。
ダニエルは頭から冷水をかけられたような気持ちだった。いや、そんな生易しいものではないかもしれない。ハンマーか何かでガツンと頭を一撃されたような衝撃。
直後湧き上がる疑問があった。
――おれはさっき一体何を言った?
『スカーレット。おれはお前との婚約を破棄することにした。そして彼女――マリアと婚約する』
スカーレット・メイ・マーキュリー。公爵令嬢にして、ソールテール王国の王子である自分の婚約者。
親同士が決めた婚約とはいえ、それを大勢の貴族が集まる夜会の席で一方的に切り捨てた。好奇の目にさらされたスカーレットは、涙を一粒だけこぼして言った。
『わかりました。どうぞマリア様とお幸せに』
昔からスカーレットは、領地にこもりきりで社交の場に出てこなかったし、たまに出てきたかと思うと、下を向き、必要以上に会話をせず、目も合わせてくれなかった。
ダニエルには、その態度が不思議でしょうがなかった。
彼は婚約者として誠意を持って接していたはずだった。――巷にあふれる噂、領地では怪しげな研究に精を出していて、その姿はまるで魔女のようだという噂話も聞かなかったふりをしてほほえみ続けた。
だが、親密になることはとうとうなかったのだ。
婚約破棄を告げたあと、彼女は背筋をピンと伸ばし、毅然と顔を上げ、ダニエルを射るように見つめてきた。
深い森のような緑色の瞳だった。はじめて彼女のことを真正面から見たような気がした。
その姿が瞼の裏に焼き付いて、彼女が去った後の夜会でも、ずっとちらついていた。なにか重大な過ちを犯したような気がしてしょうがなかった。
「ダニエル? どうしたの?」
舌足らずな甘い声が響き、ダニエルははっと我に返る。女が部屋の中にいた。それは先程婚約者スカーレットを切り捨てて手に入れた、この世で一番愛しい人――のはずだった。
気持ちはひどく逸っていたし、勢いで既成事実も作るつもりだった。頭に衝撃が落ちる前、つい先程までは。
(おれは、どうして?)
ベッドの上で待つ少女は、小柄で線が細い。そしてどこに触れても柔らかそうな、甘く砂糖菓子のような容姿をした女だ。妖精がいると言われても信じてしまいそうな外見だ。
背が高く、グラマラス。そして鋭い眼差しをした、近寄りがたい美しさを持つスカーレットとは正反対の女。だが。
(思い出せない)
目の前の女は確かに愛らしく、清楚で、純真で。男が好む容姿をしていた。だが、決められた婚約者を切り捨ててまでこの女を手に入れたいと思った動機がダニエルの中には見つからない。
(いや、あれは――)
『リア、――りあ。おれ……早くおまえを手に入れたい』
記憶の底から古い思い出が浮かび上がる。そう言ったのは確かに自分だ。照れくさそうに、だけど真剣な声で、名を呼んでいる。
りあ。それは本当に『マリア』のことだろうか。それが無体な婚約破棄をした理由なのだろうか?
「……りあ?」
声を追っていたダニエルは、一つの記憶のカケラを掴む。するとその記憶が靄のかかった領域への鍵を開ける。
視界が、開ける。世界が反転する。
それは神託のようにダニエルの頭の中に落ちてきた。
──この女は、俺の愛した女ではない。
「どうしたの?」
伸ばしてくる手から思わず逃れると、女――マリアは小首をかしげた。この世に手に入らないものはない――そう思っているような女だとダニエルは思った。