03
あれから何時間歩いただろう。もうすっかり日は傾き、やがて訪れる夜に備えて藍色の空に星が輝き始めた。
ダメだ。帰り道が分からない。どこをどう歩いても見覚えのある景色が現れない。ついさっきまで海の見える堤防の上を歩いていたと思ったら、いつの間にか石灯篭が両脇に連なり並ぶ道にいた。灯篭に灯された火がゆらゆらと揺れて僕の影を砂利道に落としていた。
「……はあ」
歩き疲れた僕は大きな犬の形をした石造の下に座り込んだ。敷き詰められた玉砂利のひんやりとした硬くて冷たい感触を掌に感じた。
移り変わる景色に何か規則があると思っていたがそんなことはなかった。景色が変わっていることに気が付いたところで引き返しても、ひとつ前の景色に戻ることはなかった。歩こうが走ろうが次の場所に移るタイミングは変わらず気づいたら景色は移り変わっている。春先に咲く花が一面に広がる草原を、枯れ葉が敷き詰められた並木道を、雪の降るレンガ造りの細い道を歩いてきた。もしかしたら場所だけではなく時間も移動しているのかもしれない。
揺れる自分の影を眺めながら、もう帰れないんじゃないかと思っていた。
「くそっ!」
僕は地面の砂利を一つ掴み取ると力の限り放り投げた。砂利は弧を描いて遠くの雑木林へ消えた。
柄でもなく口をついて出た言葉は静かな空間に吸い込まれて消えた。
なんとしても帰って調べなければいけないことがある。確かめたいことがある。それなのに僕はこんなところで……。
「あれ?君、シュトレン君だよね?こんな所で何してるの?」
行き場のない焦りを奥歯で噛みしめていると、砂利を踏みしめる足音と数時間ぶりに人の声を聴いた。
「まさかルーヴさんと逸れて、迷って出られなくなったとか――」
灯篭の明かりが声の主の顔を暗がりから照らし出した。流麗たるその角はまるで空に伸びていく樹木の枝のようだ。
「……ルーイさん?」
あの地下核闘技場でバーテンダーをしていた鹿人のルーイだ。働いていた時のスーツに黒ベストではなく、厚手のコートにマフラーを首に巻いていた。「やっほ」とどう見ても季節外れなその格好で僕に手をあげた。
「珍しいね、ここで人に会う事なんて滅多にないのに。君も早く帰った方がいいよ。もうすぐ日が暮れ――」
僕はこの機を逃すと……いや、この人を逃すともう帰れないと思って、通り過ぎて行こうとするルーイのコートの袖を掴んだ。
「ん、どうした?」
「……お願いです。ここから出る方法を教えてください」
僕は頭を下げてお願いした。
「え?」
頭の上からルーイの驚きの混じった声が聞こえてきた。
「もしかして本当に知らないの?」
「……はい。ボスに置いて行かれてしまって」
僕は適当に嘘をついた。本当のことを話しても仕方がないし、関係ないこの人を困らせるわけにもいかない。今はここから出ることが先決だ。すると「ははは」とルーイさんは明るく笑った。
「ルーヴさんらしいや。きっと『自分で考えろ』って事なんだろうけど、初めてでここを抜けるのなんて難しすぎるから案内してあげるよ。一個貸しだね」
顔の前で人差し指を立てるとルーイさんは歩き出した。僕も置いて行かれないように後をついて歩いた。
「そんなに引っ付かなくても逸れやしないよ」
帰る道すがらルーイさんにこの場所について教えてもらった。
あの酒場につながる道はその昔、誰かがあの店を隠すためにかけた転移と幻影のクラウンが作り出したものだという。いつからかは分からないが、そういったクラウンは本人の肉体が滅びても、能力はこの世界に留まり続けるのだそうだ。
「今どこを歩いている?」
ルーイさんは突然そんなことを僕に訊いた。
そんなこと周りを見渡せばわかるじゃないか。と思ったがそうではなかった。僕が目にしている景色とルーイさんが見ている景色は全く違うものだった。その時僕の眼前に広がっていたのは、満月の月明かりが穂を照らす見渡す限りのススキ野原。彼は水草の生い茂る湿地帯を横切る木の橋の上を歩いていた。
景色は毎回変わるようだが道順は同じだという。幻と転移はあの店に行こうとする者にだけ魅せられる仕様だそうだが、道順さえ分かっていれば簡単にあの店にたどり着ける。帰る時も同じで、それを知らないとさっきの僕のように同じ場所をぐるぐる周って、最悪幻覚と空間の狭間で死んでしまうということもあったらしい。
「それじゃあね。今度お店に来たときは僕がお酒作ってあげるよ」
「はは、じゃあ、お願いします」
僕は幻の解けたところまで連れてきてもらって、そこでルーイさんと分かれた。狭い通路に置かれた木箱を蹴飛ばさないように抜けると、買い物客で賑わっている商店街に出た。あれだけ暗くなっていた空がまだ明るかった。降っていた雨は止んでいた。もしかしたらあちらの空間とこちらの空間では時間の進み方が違うのかもしれない。
普段ならこんな体験をしたら驚くものだけど、僕はその時「そういうものなんだな」くらいにしか思わなかった。
僕は雨で湿った地面を足早に探偵事務所に向かった。あれだけ感じていた足の疲労感はいつの間にか消えてなくなっていた。
「ただいま帰れました!ボス帰ってますか⁉」
「あ、お帰りシュトレン君。ボスまだ帰ってないよ、一緒じゃないの?」
僕が事務所のドアを開けるとそこに狼人の姿はなかった。来客用のソファにハルさんと、その代わりに犬人の男が向かい側に座っていた。栗色の毛色に鼻先から額に向かって白い毛が伸びている。
「やあ、君がシュトレン君かい?初めまして」
「どうも……初めまして」
彼は僕に笑いかけてくれたがその表情はどこか疲れている印象を受けた。
「じゃあ僕はこれで失礼しようかな。直接相談したかったけどルーヴさん帰ってこなさそうだし……」
「うん、ちゃんと報告しとくよ。わざわざご苦労様」
犬人は湯飲みに入ったお茶をくっと飲み干すと「ごちそうさま」と言って立ち上がった。
「シュトレン君、色々大変だろうけど頑張ってね」
そう言って僕の肩に手を置くと彼は事務所を後にした。肩を落として出て行くその背中は見た目の年齢よりも老けて見えた。
「……誰ですかあの人?」
階段を下りていく足音を遠くに聞きながら、僕は机の上の湯飲みを片付けているハルさんに訊いた。
「あー、ジャック?知り合いっていうか、なんというか……。警察?」
「警察?警察がなんでここに?」
「……あの事件の捜査が打ち切りになったんだって」
「あの事件……」
ハルさんが僕の方を見ずに言ったこと、言い辛そうにしていたことからなんの事件なのかは察しがついた。
「……事件の被害者の兄弟が彼の同期なの。身内の事件だから捜査からは外されていたんだけど、最近連絡が取れなくなったみたいで、その相談もかねて今日は来たみたいなんだけど」しんどいねぇ。とお盆をもってハルさんは台所の方へ行ってしまった。
部屋の中にどんよりとした空気が立ち込めていた。雨の湿気だけが原因ではないことは分かっていた。こんなことで何か変わるとは思ってはいなかったが何もしないよりはましだと、僕は事務所の窓を開けて外の空気を部屋に取り込んだ。
また雨が少し降り始めていた空の下、人の通りがまばらな道を傘もささずにこちらへ歩いてくる見知った姿を見つけた。窓からのぞく僕を見つけてニコリとも手を挙げるもせずそのまま喫茶店の扉を開けた。
「しょぼくれた犬とすれ違ったが……何かあったか?」
ボスが帰ってきた。