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CROWN   作者: 山木京、
白猫の探偵と黒犬の警察
3/20

02

 降りしきる雨の中、二人とも口を開くこともなく僕はボスの背中をずっと追いかけていた。商店街の通りを抜けると中華料理屋とインド料理屋の間の狭い路地に入った。換気扇から排出されたカレーと油の匂いが鼻をくすぐった。そういえば朝から何も食べてないなと思いながら路地を抜けた。それからいくつかの大きな道を横切りいくつかの角を曲がって……、とりあえずよくわからない場所にきていた。自分の知っているこの街の地図と頭の中で照らし合わせてみても、皆目見当のつかない場所にいた。

 こんなところあったっけ?

 鉄骨と木造のちぐはぐな建物の軒並みを右手に、左手に刑務所のような高い壁を見ながら僕は思っていた。また細い道に入ると今度は飲み屋街のような提灯の連なる賑やかな景色が広がっていた。何だこれ、とさすがに不思議に思って後ろを振り返ると、そこにはさっきまで見ていた景色とは別の、前方に続いているような飲み屋街が後ろにずっと続いていた。

 ……さっき曲がったとこだよな。

 気づけばあれだけ強かった雨もすっかりやんでいた。僕はさす必要のなくなった傘を閉じて空を見上げる。そこには鱗雲のちりばめられた青空が広がっていた。とてもじゃないがついさっきまで雨を降らしていた空には思えなかった。

 自分の身に起きている不思議な現象に首をひねりながら雨でベチャベチャに濡れた足を進めた。それからしばらく黙ってボスの背中についていくと、一軒の店の前で立ち止まった。

「着いたぞ」

「……どこですかここ?」

 着いたといわれた建物の看板には一本の黒い線が描かれていた。その線の下に「BAR」とだけ小さく書かれていた。

「僕はまだ二十歳になってないですよ」

 切れかけのネオン管がちかちかと点いては消えを繰り返している看板を見て僕は言った。看板から察するにここは大人の店だ。大人の人が大人の雰囲気でお酒を嗜むところ。

「酒を飲みに来たわけじゃない。入ったらわかるさ」

 ボスはそう言って店のドアを開いた。

 軋みながら開いたドアの向こうからアルコールのにおいが漂ってきた。その匂いに躊躇している僕をよそ眼にボスは店内に入っていった。僕も覚悟を決めて中に入る。

 店内は想像通り大人の雰囲気が漂っていた。薄暗いが温かい照明に、棚にたくさん並んだお酒の瓶、背景音楽にはジャズが流されていた。

 奥でグラスを磨いていた鹿人のバーテンダーはボスの姿に気づくと浅く会釈し、カウンターの下から紙とペンを取り出した。ボスがその用紙に何か記入している間、店内を見渡していると鹿人のバーテンダーと目が合った。小綺麗なワイシャツと黒のベストを身にまとった彼はニコッと笑うと「がんばってね」と僕に向かって言った。

「?」僕は何を頑張るんだ?

首をかしげているとボスが記入し終わった用紙をバーテンダーに渡した。彼は記入された用紙を確認すると「では、こちらへ」と店の奥に僕たちを誘った。「ついてこい」目だけでボスに言われた僕はその後に続いた。こんなところに一人でいる方が不安だ。怪しい雰囲気丸出しのカーテンをくぐると、下の階に続く階段が現れた。

「どこに続いてるんですか?」

「……日常から少し離れたところだ」

 取り付けられた照明が僕らの影を壁面に落としていた。。

 螺旋に続いた階段を降り終えて少し続いた廊下を進むと一枚の扉が現れた。遠くからでも見えるぐらいにドアの隙間から明かりが漏れていた。それと同時に微かだが人の声が聞こえてきた。それは話し声というよりはどこか喧騒に近いものだった。近づくにつれてその声は大きくなる。

「さ、ここに来たことは誰にも言うなよ。特に君の親父さんにはな」

「?……なんで」

「じきにわかる。あと……君には少し強くなってもらわないと」

「だからなんで?」

 僕の口から出た疑問の声は聞き流され、ボスは痛んだ木の扉を押し開いた。軋みながら開かれたドアの隙間から差す明かりに僕は目を細める。

 部屋は思ったよりも広かった。学校の体育館ぐらいだろうか。それぐらいの広さの部屋がたくさんの人で溢れかえっていた。換気が行き届いていないのか空気に埃っぽさが混じっていた。

「こっちだ。迷子になるなよ」

 僕が目前の人混みに圧倒されているとボスはその中を平気で歩いていく。僕はボスを見失わないように人波を分けて進んだ。途中大きな体にぶつかり、堅い尻尾につまずきながら追いかけると、部屋の中で一番人だかりのできている中央にたどり着いた。ここだけ他とは違う歓声が沸き起こっていたが人の壁が高く、何が行われているのか全く見えなかった。

「来い、見せてやろう」

 ボスがそう言うと僕はまた有無を言わされず持ち上げられた。子ども扱いされている気がして釈然としなかったが、僕よりも周りの人たちの壁が高いから仕方がない。開けた視界に現れたのは、木の板で仕切られただけの円形のリングだった。その中には二人の獣人が向かい合っていた。どちらも大型の肉食人種の人だ。見ただけでもわかるほど闘志をむき出しにしていた。 

 どこからかゴングのけたたましく鳴り響く音が聞こえてきた。その合図を皮切りにリングを囲む群衆の歓声がより一層大きくなった。リングの中の二人が咆哮し、衝突するかしないかのところで僕の目線は元の位置に戻された。再び人の壁に阻まれて何も見えなくなる。

「……さすがに重いな」

後ろを振り返るとボスが腕をもんでいた。

「軽いって言っていませんでした?」

「なんだ?見たいのか?」

「………………」

 再び目線が高くなるとリングがよく見渡すことができた。ぶつかり合う巨体に飛び散る汗が照明の光を反射して輝いていた。熊人の剛腕が相手の虎人を襲った。虎人の男はその腕をよけて熊人のボディに一撃を加える。彼らの一撃一撃に歓声が止むことはなかった。

 僕はその本能のままに闘うその姿をボスの肩の上から見入っていた。この後自分がそのリングの中に立っていることも知らずに。




 再びゴングがけたたましい音を鳴り響かせ、それが試合終了の合図となった。リングの中で最後まで立っていたのは熊人の選手だった。彼はリング中央で拳を天井に突き上げ勝利の雄叫びをあげる。周りの歓声をものともしないその哮りは一番後ろの列にいた僕らのもとまでしっかりと届いていた。

 魂が揺さぶられるとはこの事だろうか。足の先から耳の先まで全身の毛が逆立ち胸の鼓動が高鳴っている。

「そろそろいいか?」

 下からボスの声が聞こえてきた。

「あ、はい」

 ボスに肩車されていた僕は少しの名残惜しさをその肩に残してボスの背中から降りた。最後にちらりと見えたリングの中では熊人が倒れていた虎人に手を差し伸べているところだった。

「さすがに歳だな、腰にくる」

僕の目線が元の高さに戻るとボスは腰に手を当て上半身をひねっていた。

「これなんですか?」

「地下格闘技場だ。こういう所は初めてか?」

「初めてですよ。こんなの存在することすら知らなかったですよ」

「まぁ立ち話もなんだ。喉乾いただろう。何か飲むか?」

 ボスはこの部屋の隅の方を見て言った。ボスの目線の先をたどると部屋の一角がバーカウンターのようになっていた。上の階よりはこぢんまりとしていたがお酒が飲めるようになっていた。鹿人のバーテンダーがウェイターの猫人にビールジョッキを目いっぱい乗せたお盆を渡しているのが遠目に見えた。

「あの、僕は飲めないんですけど」

「まぁ……大丈夫だろ」

 この狼親父は僕の言ったことを理解しているのだろうか。お酒が弱いから飲めないのではなくて未成年だから飲めないと言う意味で言ったんだけど……。

 そんなことは御構い無しにボスはバーカウンターの方へ行ってしまった。一人でこの場にポツンと残るわけにもいかない。仕方なくボスの後に続いた。

 その場に着くとボスはさっそく何か注文していた。何を注文したのかは分からなかったがボスが僕を指差して何か言ったようで鹿人のバーテンダーは僕の方を見てにこりと笑った。僕もよく分からないがとりあえず笑顔で返しておいた。

 壁に取り付けられた棚には上の階の物よりは数が少なかったが、それでも沢山の種類の酒瓶が棚を彩っている。隣で別のバーテンダーがお酒をシェイカーに入れて振り混ぜていた。シャカシャカと子気味のいい音がした。

 全くお酒に興味を持たずに生きてきた僕でもグラスに注がれる鮮やかな色の液体に目を奪われた。およそ食べ物ではあり得ない色をしたその液体は小さなグラスに注がれ、赤いサクランボが瑠璃色のお酒の中に沈められた。

 どんな味がするんだろう。今思えばその時初めてお酒を飲んでみたいと思ったのかもしれない。

「なんだ?あれ飲んでみたいのか?」

 鮮やかな青色をしたお酒がガゼルの女性の口に運ばれるのを見ていると、ボスの声が横から聞こえてきた。

「いや、別に。綺麗な色だなって思っていただけです」

「そうか、まぁとりあえず座れよ」

 ボスはそう言ってカウンターの椅子に腰掛けた。僕も言われた通り妙に背の高い椅子に座った。足が宙ぶらりんになって全然落ち着かない。

 足をプラプラとさせていると目の前のカウンターテーブルに二つのグラスが並べられた。バーテンダーがアイスピックで氷を削っていた。そして丸く削り出された氷はグラスに入れられ、そこに茶褐色の瓶から透明の液体が注がれる。グラスと氷がぶつかり合い涼しげな音を響かせた。もう一つのグラスにはオレンジの瓶からオレンジ色の液体が注がれた。

たぶん僕のこっちだな……。

 予想通り僕の前にオレンジ色の液体が入ったグラスが置かれた。念のため匂いを嗅いだがアルコールの匂いはせず、想像した通りの柑橘の香りがした。一口飲んでみる。やっぱり想像した通りの味がした。さっぱりとしたオレンジのさわやかな香りが鼻を抜けていった。

「少しは気分転換になったか?」

 ボスは自分のグラスを揺らしながら言った。

「…………何のことですか?」

「とぼけるな。ここ最近、お前の行動や態度が目に見えておかしくなっている。仕事はしているようだが、たいして身も入ってないだろう」

 ボスはフンッと鼻を鳴らしてグラスに口をつけた。

「なんでもないです。……本当に。雨のせいじゃないですか?」

 僕はボスの方も見ずに答えた。本当は雨のせいじゃない事なんか分かっていた。でも、それを誰かに話したい気分ではない。

「まったく、ここ数ヶ月でお前の性格はなんとなく分かってはきたが、まさかここまでとはな」

変なところばかり似やがって、とボスは小さくぼやいた。

「……誰に似てるんですか?」

「誰でもいいだろう。要は一人で抱え込むなと言う事だ。……ユウ・ドーベルの事件のことだろう」

 僕はボスの口からその名前が出てきたことに驚いた。その名前を耳にすると胸が締め付けられるように苦しくなる。

「あの事件については警察が現在捜査中だ。そのうち事務所に依頼が来るかもしれないが、来ないかもしれない」

「どういうことですか?」

「依頼があって初めて捜査に移る。依頼人の要望に応え、それに見合った報酬を受け取る。それが俺たち探偵の仕事だ。依頼人のいない捜査は仕事ではない」

「……」

「つまりるところは仕事はしっかりやれ。それ以外は好きにしろということだ」

お前はどうしたい?とボスは僕に訊いた。

 ボスは残ったお酒をすべて流し込むとグラスをテーブルの上に置いた。氷がカランと音を立てた。

「……僕は、ただ……」

 僕はボスの「どうしたい」という問いに答えられずにいた。自分がどうしたいのかが分からないなんておかしなことかもしれない。もちろん事件の犯人を許せない気持ちはある。捕まえてやりたい気持ちもある。でもその犯人を捕まえたところで、この虚無感が払拭されるのだろうか。それに力のない僕ができることなんて……。

「どうしたいかなんて……」

 わからない。と口から出る前にどこかから僕の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 こんなところに知り合いがいるはずもないから気のせいだと思っていると「シュトレン・ヌーウェイルさーん」と言っている女の人の声がだんだん近づいてきていた。

 どこからだ。と声のする方を探していると隣でボスが手をあげて手招きしていた。

 すると一人の犬人の女性がこちらに気づいたようで耳をピンと立てるとこちらに駆け寄ってきた。

「お久しぶりですルーヴさん!」彼女はボスに向かって言った。ボスは「おう」短く挨拶を済ませると僕の肩を掴んだ。

「うちの新入りだ。よろしく頼むよ」

「え?」

「あなたがヌーウェイルさん?よかった、もうすぐ出場の時間ですので準備のほうお願いできますか?」

「……出場?準備?なんの?」

 僕はボスに訊いたが答えは返ってこなかった。代わりに背中を力強くたたかれ、僕は椅子から落ちた。こぼしそうになったオレンジジュースをテーブルの上に置きもう一度ボスに訊いた。

「何の準備ですか⁉」

「お前もさっき見ていただろう。あれに出るんだよ」

 そう言って指さしたのはこの部屋の中央、木の板で囲まれたリングのある方だった。

 どうして僕が?という疑問を抱く前に、僕は犬人の女性に腕を引かれた。

「え、ちょっと!」

「もう時間が迫ってますので早く行きますよー」

 軽く混乱している僕をよそに彼女はぐんぐん人混みを慣れたようにかき分けていく。

 ボスの方を振り向いたがグラス片手に手を振っていた。


             

「はーい!この部屋で着替えてね」

 半ば引きずられる形で僕が連れてこられたのは、闘技場の奥、両脇に扉が並んだ狭い通路だった。その内の一室に僕は入るように促された。

「何ですかここ?」

「更衣室兼化粧部屋よ!さあ入った入った」

 犬人の彼女は僕の背中を押して強引に部屋へ押し込むと部屋の電気をつけて扉を閉めた。ガチャリと閉まる扉の音と一緒にそれまで聞こえていた闘技場の喧騒がぴたりと止んだ。

 部屋を見渡すと簡易的な机と椅子、姿見、たくさんの衣装のような服がハンガーで壁一面につるされていた。

「ここ座ってね」

 鏡の前に置かれていた小さな丸椅子に肩をぐっと押さえつけられて僕は座らされた。

「ルーヴさんのところの子だから……」

 彼女は何かつぶやきながら吊るされた衣装の方を見ていた。壁には僕が今まで見たこともないような服が掛けられていた。普通のTシャツのような服から警官の制服のようなもの、全身に棘が付いた服まである。

「あの何も聞いてないんですけど僕は一体……」

「あらホントに?ルーヴさんったら相変わらずだなぁ」

 彼女は服を長い棒で取りながら答えた。

 相変わらず?あの人は本人に何も伝えずに謎の格闘技の選手として試合に出すのが相変わらずなのか?

 それよりも問題はこれから誰かと殴り合いをしなければいけなさそうだということだ。さっき見たあんな大柄な虎人や熊人を相手に僕が怪我をせず無事に帰ってこられるはずがない。

 この人には悪いけど逃げよう。幸い衣装選びに夢中になっているせいかこちらを振り向く気配はない。

 僕は物音を立てないように静かに椅子から立ち上がり扉の方に向かった。

 しかし何なんだ。いきなりこんな変なところに連れてこられて、しかも勝手に戦わされるだなんて。後で文句の一つでも言ってやろう。……というか違法な場所じゃないだろうな、ここ。

 忍び足でドアに近づき音が鳴らないようにドアノブをゆっくり回して押した。

 あれ?開かない。

 引くんだっけ、と思いながら引いてみるもドアは開かなかった。

「駄目ですよ。どこ行くんですか?」

 すぐ後ろから聞こえてきた声に僕は心臓が飛び出そうになった。振り向くとそこにはさっきまで衣装選びをしていた彼女がすぐそばにいた。

「鍵かかってますから開かないですよ。ちなみにカギはここです」

 彼女はズボンのポケットから銀色のカギを取り出してみせた。僕の目の前で鍵はカチャカチャと音を立てて左右に揺れていた。

 まさかと思って今まで触っていたドアノブをよく見ると、普通は室内の方にはあるはずのない鍵穴がそこにはあった。通常とは逆に取り付けられているのか、それとも両側に鍵穴があるのかはこの際どうでもよかった。取り付けられたドアノブが普通ではないということは、この場所が普通ではないということだ。

「……いくつか訊いてもいいですか?」

「時間がないから手短にお願いします」

 僕はドアを背にいくつか質問した。

「僕はこれからどうしたらいいんですか?」

「これからあなたには闘ってもらいます。まぁルールの若干違うボクシングみたいなものですね」

 彼女は特に感情も込めずに淡々と説明した。

「闘う相手って……」

「特に聞いて無いのでわからないですね。でも心配しないでください。大体同じくらいの体型の人どうしなので、さっきみたいな大柄な熊人が対戦相手にならないと思います。たぶん」

「…………ここって違法な場所じゃぁ」

「それはご想像にお任せします!では本当に時間が迫ってますんでこれに着替えてください!」

 彼女は腕に抱えていた衣装を僕に押し付けると慣れた手つきでドアノブに鍵を差し込み鍵を開け、するりとドアの隙間から出て行った。

「あっ!ちょっと待って!」

 僕の静止の声は扉の閉まる音と同時だった。まさかと思ってドアノブを回してみたが、もうすでに鍵は閉められていた。

「……はぁ」

 たまらずため息が出た。

「着替えたらノックしてくださーい。鍵開けるんで!」

 ドアの向こう側から明るい声が聞こえてきた。

 何でこんなことに。そんなことを思って押し付けられた衣装を改めてよく見た。その衣装の柄を見ただけでなんとなくどんな服なのかは想像がついた。そして目の前に広げてみるとやっぱり想像通りの衣装だった。ここまであからさまなものは小説の挿絵や漫画の中でしか見たことがない。

 これを着ない限りきっと話は進まない。僕はあきらめて用意された衣装に着替えた。

「お!さすがルーヴさんとこの子ですね!」

 ノックして開いたドアの向こうで待っていた彼女は開口一番に僕を見てそう言った。「似合ってますよ!後これもお忘れなく」彼女は僕に衣装と同じ柄の帽子を手渡した。帽子を手に持っていても仕方がないので頭にかぶる。

「うん!いいですね!現代によみがえったニャーロック・ホームズって感じで!」

 ではこちらへ!と僕は妙にテンションが高くなった犬人の女性の後についていく。

「そういえば説明がまだでしたね!これから簡単に説明します。まずはじめに……」

 彼女は歩きながら早口で説明し始めた。

 ルールは総合格闘技に近いものらしい。とは言っても僕は全く総合格闘技に明るくないから何とも言えないが、とりあえず禁止事項だけ理解しておけばいいと言う事だった。

 殴る蹴るはいいが爪を使った攻撃は禁止。相手を殺害してしまうような行為は禁止。目や喉、急所への攻撃は極力禁止だそうだ。

「あ、そうだ。対戦相手の情報入ってきましたよ。お相手は中型の犬人の方です!よかったですね!大体同じような体系の方です!」

 楽しそうに話す言葉は僕の耳にはもう大して入って来ていなかった。もうここまで来たら「よかったですね!」も安心材料になんかならない。どうしたらケガをしないで済むか、無事に帰られるかを目標に考えていた。

「ちなみに、選手には勝つごとに賞金が支払われるので頑張ってください!」

 考えているといつの間にか闘技場のある部屋のすぐ手前に着いていた。扉の向こうから喧騒が聞こえてくる。「勝つごとに」という言葉が僕の中で引っかかった。勝つごとに、と言う事は負けるまで続けられると言う事だ。早くも無傷で帰ると言う目標がかなわなくなってしまった。

「ではこの扉を開けたらまっすぐ進んでくださいね!では!」

 彼女は僕の心の準備なんか待ってくれるはずもなく、何の躊躇もなく扉を開けた。開かれた扉の隙間から強い光が差し込み、空気中の埃に反射してキラキラと光って見えた。

 僕は考えることを辞めた。

部屋の明るさに目が眩む。暗い廊下から照明の明るいところに出たせいで、眩しく感じたのだと思ったがそうではなかった。まぶたを薄く開き、たいして働かない目をよくこらすとスポットライトが向けられていることに気が付いた。

「ほら、まっすぐ歩いて!」

 その声の主は僕の背中を押して扉を閉めた。僕の帰り道は文字通り閉ざされた。

 進むしかない一本道を僕は進んだ。簡易的な柵で作られた花道の両脇には先ほどと比べれば数は少なかったが観客がいた。歓声もほどほどに、中には「がんばれよー」と子供の運動会に来たお父さんのような声をかけてくる人もいた。

『さあ!まずはじめに登場したのはこの春探偵なりたてホヤホヤ!猫探しのプロフェッショナル!!ミスター・クリスマス!!』

 さっきは居なかったはずの司会者が、おそらく僕のであろう紹介文を読み上げた。少々の歓声の中に笑いが少し含まれているのが分かった。

 なんだか、少し分かってきた。きっとこの勝負は中休憩の出し物みたいなものなんだろう。前の熊人と虎人の真剣な勝負は望まれていないのかもしれない。だから僕はこんな服装に着替えさせられ、居なかったはずの司会者がいる。場を盛り上げるための演出なのかもしれない。

 僕がリングに入ると今度は反対側の扉にスポットライトが向けられて扉がゆっくりと開いた。

 扉の向こうから現れたのは帽子の上にフードを被った犬人だった。フードの隙間から見える黒と茶色のマズルしか見えていなかったが恐らくそうだ。

「よう、似合ってるじゃないかヌーウェイル」

 緊張でがちがちになっていると聞き覚えのある低い声が聞こえてきた。振り向くとリングの木の板にもたれかかったボスがいつの間にか僕の背後まで来ていた。お酒を飲んで気分がいいのか少しニヤついていた。その顔に一発入れてやりたかった反面、少し安心している自分がいた。

「別に勝とうとしなくていいぞ。適当にやっとけ」

 どの口が言ってるんだと言ってやりたかったが口から出る前に飲み込んだ。対戦相手の犬人がリングに入ってくる。僕の時と同じように司会者が彼のことを紹介したが僕の耳には一切届いていなかった。その代わりと言っては何だが自分の心臓の鼓動がやかましい程に高鳴っているのが分かった。

 僕は見様見真似でポーズをとる。足を適度に広げて両腕を顔の前に構えた。確かテレビでボクサーがこんな感じに構えていたはずだ。

 司会者が鳴らしたゴングを合図に試合が始まった。 

 適度に防いで、適度に喰らい、適当な時間を稼いでから負ける。うん、それでいこう。

 そう思った次の瞬間には相手に距離を詰められ、お互いが手の届く範囲まで近づいていた。

「あ、」

 負けることを腹積もりにリングに立った僕は、その考えの浅はかさに後悔することになった。

 突き出される拳を防ごうと腕をあげたが間に合わなかった。僕の両の腕の隙間から入り込んできた拳が自分の左頬をとらえるのを感じた。

 人生で初めての衝撃に足元がふらついた。脳が揺れる感覚。視界がぶれて平衡感覚が失われる。なんとか体勢を元に戻そうとしたがそんな事は叶わず、次は鳩尾に拳が撃ち込まれた。言葉にならない衝撃が身体全体を駆け巡った。

 勝負は一瞬でついた。

 薄れていく意識の中、観客のブーイングを聞きながら僕は地面に崩れ落ちた。胃から逆流してきた液体を堪らず吐き出すと地面を黒く湿らせた。

 口から涎を垂れ流す僕を犬人の男は足で仰向けに蹴倒した。

 その時初めてフードの下に隠れていた顔を見て、僕は自分の目を疑った。

 そこにいるはずのない人物。黒い筋の通った端正なマズル。緋色の眼が僕を見下ろしていた。

「…………ユウ?」

 犬人の一瞬驚いたような表情を見たのを最後に、僕の意識は暗闇の中に落ちていった。




 瞼の向こうから感じた強い光で僕は目を覚ました。誰かがライトで僕の眼に光を当てているらしい。目の前でチカチカと揺らされる光が鬱陶しくてそれを掌で遮った。

「うん。気が付いたね」

持っていたペンライトを胸ポケットにしまい、鼻までずり落ちた眼鏡を直しながら猿人のお爺さんは言った。

「眼は見えてる?鼻はきくか?耳は聞こえるか?どこか痛みはないか?」

 矢継ぎ早に質問される内容をゆっくりとかみ砕いた。まだ靄がかかったように頭はすっきりしていなかったが、どうにかお爺さんの言っている言葉は理解できた。

「……大丈夫、です」

「なら良かった。お帰りはあちらだよ」

 お爺さんは部屋の出口の方を指さした。

「……ありがとうございます?」

 僕がお礼を言うと爺さんは静かにうなずき、席を立って部屋を出て行った。お爺さんがスリッパを引きずりながら歩いていく足音が聞こえなくなって、ハッと思い出した。

 そうだ。僕はあの試合でこっぴどくやられたんだった。秒殺。我ながら情けないがこの言葉がぴったりだろう。顔面に強列なパンチを受けた。鳩尾にも一発くらった。今でも思い出したら胃液がこみあげてくる。しかし自分の鳩尾に手を当てて気が付いた。

あれ、全然痛くない。

不思議なことにあれだけの打撃を受けていながら、顔も腹部にも痛みは全然残っていなかった。普通なら腫れあがって別人みたくなりそうだが、手でなぞった感じはいつもの僕の顔と変わりなかった。それどころか妙に毛並みがさらさらしている。腹も見た感じはいつもと変わりない薄っぺらな腹部があるだけだった。

 なんだろう。あの人のクラウンかな……。

 世の中には人の身体を癒す力を持つ人がいるとは聞いたことがあるが、あのお爺さんもそうなのだろうか。

「ん?」

 そんな疑問を抱きながらお腹をさすっていると、あることに気が付いた。

……なぜ僕は下着一枚でベッドの上に。

 考えるのは止そう。きっとあの猿人の爺さんがどういうやり方かはわからないが、倒れて怪我をした僕を治療してくれた。それだけだ。

 それはそうとして……。

 改めて部屋を見渡してみたが、この部屋はベッドが三つにさっきまでお爺さんが座っていた丸椅子が置いてあるだけで他には何もなかった。急遽こしらえた仮眠室と言ったところだ。そして困ったことにベッドの周りには僕が着ていた服が置かれていなかった。待っていても誰も来る気配は無い。そういえば爺さんが「お帰りはあちら」と言っていたな……。

 僕はベッドから降りた。幸い、足元には僕の履いていた靴が置いてあった。それを履いて部屋を出た。下着一枚に靴というおかしな格好だから、できれば誰にも会わないようにしたい。きっとどこかに僕が着てきた服があるはずだ。それはおそらくあの部屋、僕が試合の前に探偵衣装に着替えさせられた部屋。

 僕はそっと扉を開けてその隙間から覗き込んだ。幸いと言うべきか。そこには誰もいなかった。ただ上に続く階段が目の前にあった。誰にも出くわすことが無いように祈りながら階段を駆け上がり、顔だけ出して上の階を確認した。僕には見覚えのある廊下だった。耳をすませば闘技場の喧騒が聞こえる。最初に連れてこられた部屋の一番奥。そこに今、僕はいた。 

 誰もいないことを確認して階段から這い出た。いくつかの部屋の前を足早に通り抜け、僕は一番手前、出入り口に向かって右手の一室へ向かった。半ば滑り込む形で扉の前に立ちドアノブに手をかけた。

 開いていてくれ。

 そう願いながらドアノブを回したが、僕の願いはむなしく扉は開かなかった。

 そりゃそうか。普通鍵は掛けておくよな……。いったん戻ろう。

「お疲れさまでした!お元気になられたようで何よりです!」

 突然背後から聞こえてきた声に僕は体を硬直させた。

「これ。お探しでしょう?」

 振り向くとそこには見覚えのある犬人の女性がいた。指に鍵をぶら下げていた。

「……鍵、開けてくれませんか?」

「んふふ。いいですよ」

 鍵を使うと簡単にドアは開いた。まあ、当たり前だが。

「じゃあ、着替えたら教えてくださいね」

「…………あの、どいてくれませんか?入れません」

 鍵を開けた彼女はドアの前から動こうとしなかった。なぜか僕の身体を上から下までなめるように視線を動かした。僕は身の危険を感じて後ずさる。

「ふーん」と彼女は目を細めて口元を緩めた。

「何ですか」

 特に隠す必要もないのだがつい腕で前を隠した。

「さっきね、君の試合見てたんだけど、やっぱり筋肉ないね!ひょろっひょろ!」

「余計なお世話です。というか早く着替えたいんですけど」

 ははは。と彼女は笑い僕の肩をバシバシ叩いた。

「君、伸びしろはあると思うんだけどなー」

「それこそ余計なお世話です。ここにはもう来ません」

 僕は部屋の扉を勢いよく閉めた。僕がこの部屋を出た時と同じ状態で椅子の上に服が畳まれて置いてあった。僕は素早く服を着て部屋を出た。

「お、早いね。そんなに急がなくてもいいのに」

 彼女は鍵についたリングを指でぐるぐる回して待っていた。

「出口はあっちでいいんですか?」

「もう、せっかちさんだねぇ。そんなに急がなくても帰してあげるよ。後これはお土産」

 そう言って彼女は僕に紙袋を差し出した。

「……何ですかこれ」

「そんな顔しなくても怪しい物じゃないよ。あまりにも君に似合ってたもんだからさ、お姉さんからのプレゼント!これ着てまた挑戦しに来てね!」

 受け取った紙袋の中身を覗くと僕が試合中に着せられた探偵服だった。きれいにたたまれて袋の中に納まっていた。

「いや、もう来ませんけど」

「いいのいいの、私の趣味だから」

 どんな趣味なんだ。

 僕はそれを突き返すのも悪い気がして、とりあえず頂いておくことにした。

 では。とその場を去ろうとしたら彼女に呼び止められた。

「そういえばルーヴさんどこにいるかわかる?」

「え、まさかもういないんですか?」

 しまった。一難去ったと思ったらまた一難。あの人が帰ってしまったら僕はここから帰れない。あのちぐはぐな道のりはもう覚えていない。

「そうじゃないんだけど……。まぁ探したらすぐに見つかるよ」

 彼女が笑うと鋭い犬歯がちらっと見えた。その笑みがどういう意味だったのか、その時はまだわからなかった。廊下を抜けてリングのある大広間に出た時、相変わらず大勢の人達が中央のリングに集まり歓声を上げていた。僕は盛り上がっている試合はそっちのけでボスの姿を探した。彼女はすぐに見つかると言っていたが、これだけ人が犇めく中で特定の一人を探し出すのは十分困難だった。何せこの部屋の中で僕の視界はゼロに等しい。

 僕の背丈が三メートルぐらいあったら簡単だったのに。とありもしないことを考えながら広間をぐるぐる歩き回っていた。身長が百六十後半の僕にとって、平気で二メートルを超える身長の人たちの中をかき分けるのは大変な労力を要した。途中で不意な肘打ちを鼻にくらったりふわふわな尻尾で顔を横から殴られたりしたが、その苦労に見合わずボスの姿を見つけることはできなかった。

 ヘロヘロになりながら観客の群れの中から抜け出すと、すぐそこにバーカウンターがあるのを見つけた。僕とボスが飲み物をもらった場所だ。

 鹿人のバーテンダーがこの騒音の中、静かにグラスを磨いていた。

 あの犬人の女の人はボスの所在を知っていた。もしかしたらあのバーテンダーもボスを知っているかもしれない。そういえばなぜ彼女はボスのことを知っていたんだろう。僕のこの疑問はすぐに解決することになった。

 このまま探していても埒が明かない。とりあえずバーテンダーに訊いてみることにした。

「すいません」

「お、ミスター・クリスマス。身体の調子は大丈夫かい?」

 僕は愛想笑いをした。変な名前が広まりつつあることが心配になった。

「ボスどこにいるか知りませんか?連絡もつかなくって。ほら、ここ携帯の電波届かないし」

「あぁルーヴさんね。彼ならほら、あそこにいるよ」

 バーテンダーは手で部屋のどこかを示した。

 ボスの居場所を即答したこの人は人探しの達人なのだろうか。それとも草食人種特有の視野の広さが成せる業だろうかと思って手の指す方向を見たが僕の身長ではよく見えなかった。飛び跳ねていた僕を見かねて鹿のバーテンダーは声をかけてくれた。

「そこの椅子。上ってくれて構わないよ。靴は脱いでね」

 僕は言われた通り靴を脱いで背の高い椅子に上った。少しぐらついて危なかったがこれで部屋の端まで見えるようになった。

 よし、これで探しやすく……。

「…………」

 広くなった視界の中でボスはすぐ見つかった。

 僕は今まで観客の中にいるものだと思って探していた。てっきりお酒の入ったグラス片手に試合を見ているものだと。

 ボスは歓声の輪の中心にいた。今まさに一回り大きい牛人と戦っている最中だった。


 ボスが蹴り飛ばした牛人が木の柵と一緒に床に倒れこんだ。

 今日一番の歓声の中、司会者が試合終了のゴングを鳴らしてボスの勝利を宣言した。この試合はどうやら薬の売人側と探偵側のチームに分かれて行われていたらしい。チームに何人いたかを知らないが出場する順番に強さが上がってくる仕組みなのだろう。そう考えると僕が一番初めに出場させられたのも頷ける。

 自分の中で少し疑問が解消したところで、観客の中からボスが出てきた。木の柵を悠々と飛び越えると興奮冷めやらぬ観客とハイタッチしながらこちらに近づいてきた。その姿は普段の紳士的な動きからは想像できないくらいハツラツとしていた。いつもデスクで捜査資料を眺めては、頭を悩ましている人物と同一人物とは信じがたい。

「ルーイ、水を一杯頼むよ」

 ボスにルーイと呼ばれた鹿のバーテンダーは無言で頷いた。冷蔵庫から透明の瓶を取り出すと栓を開けて中身をグラスに注いだ。

 ボスは差し出された水を一息に飲み干した。

「……何してんですか」

「ん、水を飲んでいる。試合の後の水はどんな酒よりも美味い」

 空になったグラスをバーテンダーに渡した。

「そういう事じゃなくて、なんでボスまで出場してるんですか。しかも無傷で三連勝してるし」

「それはあれだ。今日は気分転換に来たと言っただろう。別にお前だけのためじゃあない。ミスター・クリスマス」

 ボスは後半、半分笑いながら言った。

「……笑い事じゃないんですけど。何ですかクリスマスって!いや、理由は何となくわかりますけど他にもうちょっとあったでしょう!」

「別にいいだろう、たかがリングネームだ。それとも本名の方が良かったか?」

「……」

 全く悪びれもせず面白がっているボスにこれ以上言っても無駄なことを悟った時、またあの聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「あ!いたいた。これ渡すのすっかり忘れてたよ。衣装持たせてる場合じゃなかったね」

 犬人の彼女は僕に茶封筒を差し出した。

「え、何ですかこれ?」

「あれ?説明してませんでしたっけ。出場選手には出場料が支払われるんです。あと勝利数に応じて賞金が増えていくんですけど、君はこれだけ」

 僕はこういったものを受け取ったことがないから少し躊躇した。

「いや、別に僕が出場したくて出たわけじゃないし……」

 ボスの方をちらりと見ると「受け取っておけ」とだけ言われた。そう言われても受け取った後で面倒ごとにならないかと思って、やっぱり受け取るのには少し勇気が要った。そこで僕はその封筒を差し出す彼女の手をボスの方に向けた。

「借金の返済に」

「え?君その歳で借金あるの?大変だねぇ。じゃあこれと、こちらがルーヴさんの分です」

 彼女は僕の分の封筒と腰に下げていた小さなバッグからもう一つ封筒を取り出した。その封筒は僕のよりも数倍膨らんでいた。

 ボスは「どうも」と言ってそれらを受け取ってジャケットの内ポケットにしまった。

「それでは私はこれで失礼しますね!じゃあねシュトレン君!またの出場お待ちしてまーす!」

 彼女はそう言って尻尾を揺らしながら人混みの中に消えていった。

「さて、俺たちも帰るか。これでうちの事務所も今月は黒字だ」

 ボスは腰かけていた椅子から降り肩にかけていたジャケットを羽織った。

「もしかしてそれもここに来た目的ですか」

「ああ、一石二鳥だろう」

 僕たちは会場を出て地上階に上がる階段を上った。照明が僕らの影をレンガの壁に大きく映し出していた。緩やかな螺旋階段を上がりながらボスは話し始めた。

「お前にとったら一石三鳥だったか」

「……そうですね」

 僕はその一鳥に思い当たる節があった。意識が薄れる中で見た犬人の青年の顔。

「彼は、誰ですか」

「『誰か』だなんてこと、お前はもうわかってるんじゃないのか?」

 ボスは足を止めることなく僕の質問に答えた。

「私から言えることは彼が謹慎中にもかかわらず、日頃の鬱憤をここで晴らしているイケない警察官であるという事だな」

 僕らは階段を上り終えて地上階のバーに出た。ボスはバーテンダーに用事があるからと言って僕に先に外に出るように言った。店の外は晴れとも曇りとも言えないどっちつかずな空模様だった。しばらく店の外に張り出されていたポスターや、掲示板に張られていた文字に目を通していると店からボスが出てきた。

「何してたんですか?」

「支払いとか手続きとかいろいろだ。さあ帰るぞ。あんまり遅くなるとハルがうるさいからな」

 ボスはそう言って歩き出した。

 帰り道はここへ来た時とは違う道のりだった。また角を曲がるたびに景色が移り変わる。僕は置いてけぼりをくらわないようにボスの背中に黙ってついて歩いた。

 両脇に田畑の広がる畦道を歩いている時に僕は思い至った。

「ボス。一つお願いがあるんですけど」

「本当に一つか?」

「……やっぱり二つ」

「なんだ、言ってみろ」

 ボスは数分ぶりに僕の方に向き直って立った。

「休みを下さい、少しの間。あともう一つ、あそこへの行き方を教えてください」

 一体その数秒の間に何を考えていたんだろう。僕の申し出にボスは少し顎を触って考えていた。

「……それは別にいいんだが、あの案件はどうする?まだ途中だっただろう」

「あ、そういえば」

 すっかり忘れていた。僕はまだ浮気調査の途中だった。特に対象にそういった行動がないままだった事と、あの事件以来やる気が出なかったことが重なってほったらかしにしていた。

「まあいいか。その件はハルにでも任せればいい。適当に報告書を作ってもらえ」

 探偵としてそれはいいのか?と疑問を抱いたが僕にとっては好都合だから口には出さないことにした。

「少し時間は遅いが、事務所に帰ったらハルに引き継ぎを――――」

 ボスが発した言葉が間延びし、腕にしていた時計を見たまま固まった。

 すごく嫌な予感がした。そんなときの予感はよく当たる。身体が中心から後ろにぐっと引き寄せられる感覚とともに、周りの景色が遠くに伸びていく。ボスの姿は瞬く間に点となった。

 再び景色が正常に戻った時、そこが数分前までボスの後ろについて歩いていた石垣の上であることが分かった。ただ違うのはそこにボスの姿がなかったことと、後頭部に何か冷たくて硬いものが当てられているということだった。

「ゆっくりと両手をあげろ。俺のクラウンでお前の時間だけ少し巻き戻した」

 僕は言われた通り両手をあげた。そうするしかなかった。下手に動けばどうなるか分かったものじゃない。

「質問に答えろ。お前は誰だ。なぜユウを知っている」

 背中から冷たい声がした。声の質は似ているのにユウとはかなり温度差がある。発せられた言葉には少しの苛立ちが含まれているように感じた。

「どうした。答えられないのか?だったら答えやすくしてやろう」

 声の主はそう言うと僕の後頭部に当てていたものをさらに強く押し付けた。

「……僕は、シュトレン・ヌーウェイル。なりたての、探偵だ」

 心臓がやけに飛び跳ねてうまく言葉が出てこない。

「……ユウとは今年の春知り合った。……僕の、友達だ」

 慎重に選んだ言葉で僕はそう答えたが、返事はすぐに帰ってこなかった。風に揺られた笹の葉が擦れ合う音だけが聞こえた。

「それを信じろと?」

 彼の声のトーンが変わることはなかった。おまけに後頭部を小突かれた。

 僕は冷や汗が止まらなかった。

「……証拠なんて、ない」

「答えろ。お前はあの時路地裏にいたか?」

「……いや、」

「ナイフを握っていたのはお前か?」

「違う」

「ユウを路地裏に呼び出して殺したのはお前か!」

「違う!」

 明らかに敵意のむけられた質問につい声が大きくなってしまった。

「ユウは……僕の友達なんだ」

 自分でも情けないほどに声が震えていた。もしかしたら理不尽にも僕の人生はここで終わるのかもしれないと思っていた。

「…………チッ」

 数秒後舌打ちが聞こえてきた。頭に押し付けられていた感触がなくなると同時に、足元に何か重いものが落ちる音がした。そして背後にいた人物の気配が動き、遠ざかっていくことが分かった。僕は恐る恐る後ろを振り返った。そこにはもう誰の姿もなかった。足元には掌くらいの大きさの石が転がっていた。

「待って!」

 僕は石垣の下に微かに見えた後ろ姿に向かって叫んだ。石垣を飛び降り追いかける。さっきまで竦んでいた足がふらついてうまく走れなかった。

 フードを被った姿が生垣の角を曲がって見えなくなった。僕もすぐ後を追いかけて行ったが角を曲がった先にはもう誰もいなかった。

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