prologue
空気の澄んだ十二月の夜。空を見上げれば数えきれない程の星々が夜空のキャンパスにちりばめられていた。吐いた息は白くなって夜空にとけて消えた。
ひとつの光が線を描いた。
開け放たれた窓から離れ、机の上に置かれた教科書の表紙を指で撫でた。月明かりに照らされた本は所々くたびれていて、使い込まれた形跡が残されていた。角は削れて丸くなり、折り目もついている。
義務教育が始まる年齢になると、誰もが人間と獣人の歴史を綴った教科書を渡される。私が小学校に入学した時も似たような教科書を渡された記憶があった。その内容は獣人の進化の過程と、人間との共存の歴史。長い年月が流れ、事実の食い違いや、教育方針の改善などで細かな内容は時々改訂されてきたようだが大筋はほとんど同じものだ。
人間に憧れた獣が世界の王となり、獣人と人間を導いていく物語。
歴史の教科書はだいたいこの一節から始まる。
「一匹の獣は人間に憧れた」
そこから始まる物語はおとぎ話として、童話として、あるいは神話として多くの人は幼いころから耳にする。気が遠くなるくらい昔の話だ。その場でその歴史を目にしたものはもういない。私も母からベッドの上で寝る前によく聞かされたものだ。
しかし歳を重ねるにつれて私はその一文に疑問を抱くようになった。
王は本当に人間に憧れたのか?
ただの獣だった王は、技術を発達させて繁栄の一途をたどる人間を見てその姿に憧れたのかもしれない。彼等と一緒に暮らしたかったのかもしれない。もしかしたら独りの人間に恋をしたのかもしれない。学校で友人たちと想像の話をした。結論など出るはずもなくその話はいつも曖昧になって別の話題に移る。私も昔は王の願いに思いを馳せた。
学校で人間の歴史について学んだ。人間はこの星で自由を謳歌していた。支配者面をしてどこにでもいた。資源をむさぼり続け、勝手に争い、勝手にその数を減らしていった。それははるか昔のことで、今を生きる人間とは関係のないことだという事はよく分かっている。しかし当時のそんな人間達の姿を見かねた王はこう思ったんじゃないだろうか。
「お前たちよりうまくやれる」
今や獣人は人間の数を大きく上回り、人口の比率は百分の一にも満たない。王の持っていた力は獣人だけに受け継がれた。その力を使って私たち獣人は人間にはできないことをした。彼の意思を継ぎ、人間を守り、食料を与え、エネルギーを生み出し、絶滅という窮地から人類を救った。
「≪クラウン≫は王様の最大の貢献であり、最大の罪だ。君もそう思わない?」
開いていた教科書を閉じると机に薄く積もっていた埃が宙を舞った。
幾年月を経て人間は絶滅の危機を免れた。獣人も人間と生活を共にし、世界は平穏を保っていた。そんな世界に王様の遺した≪クラウン≫は持て余されていた。
かつて世界を救った偉大な力はひとつの判断基準に成り下がった。生まれながらにして受け継がれるその力は自分の意思とは関係なく発現する。その偶然性によって生まれ持った力はその人の人生を形作ると言っても過言ではない。進学、就職、結婚に至るまで人生のあらゆる要所で判断される。
この世界は違和感で溢れている。
「――!!」
私が教科書を床に叩きつけると男は悲鳴を上げた。ネクタイで猿轡をされているせいでくぐもった悲鳴になった。両手両足を動かせないように縛られた彼は怯えた目で私を見上げていた。
これから彼は非業の死を遂げる。それも全て生まれ持った力の所為だ。恨むなら自分を恨めばいい。
私がその男に馬乗りになると彼は余計に身体を動かして抵抗した。しかしそれも鼻先に拳を振り下ろすと静かになった。
「やめろ……やめてくれ」
殴った拍子に猿轡が緩んで男は私に懇願した。
ネクタイはそのままにした。結び直すときに噛まれたらひとたまりもない。
幸いにもこの家の近くに民家が無いおかげでどれだけ叫ばれてもその声に気づく者はいない。この家の住人も居なくなって随分時間が経過しているようだ。
私が少し我慢すれば済むだけのこと。……すぐ静かになる。
「頼むから……」
その言葉を最後に彼の喉は悲鳴を上げるだけの器官になった。
ナイフの先端で彼の腹から股にかけて一筋の赤い線を描いた。体毛の薄く柔らかい腹の皮は簡単に裂くことができた。血のあふれ出る裂け目から手を滑り込ませると、彼の内臓が私のかじかんだ両手を温めた。暫くの間、彼の内側を弄った。手を動かすたびに彼の体は痙攣を起こした。口から泡を吐き出しガクガクと震えている。腕を伸ばして心臓に触れた。激しく脈を打つその臓器は徐々に動きを弱めていった。やがてピクリとも動かなくなるのを確認すると、両手いっぱいに抱えた臓物を外に引きずり出した。つながった管をナイフで切り離してごみ袋に入れた。膀胱か腸をナイフで傷つけてしまったのか、糞尿の混じった酷い匂いがした。
彼の周りに油をまいた。ぽっかり空いた彼の腹の中にもたっぷりと注いだ。石油ストーブに点火して部屋を後にした。
階段を下りる途中で聞こえるはずのない悲鳴が聞こえた。何度も何度も、幾多の断末魔が頭の中で反響した。
「うるさいな……」
その叫び声を頭から追い出すように額をトントンと叩いた。




