15
「やめて!離して!」
今にも降り出しそうな曇り空の下、シロエ・ブランの悲痛な叫び声がビルの壁に反響した。
「暴れるな!あの時も通った道だ、もうすぐ行けば通りに出る!そこまでいけばあいつらも追ってはこられない、もうじき雨が降る。そうすれば匂いも追えない!」
強引に手を引きながら逃走を続けようとする牛人の腕力に彼女の細い腕ではろくに抵抗することはできなかった。
「離してって!」
彼女は自分の腕をつかむ頑丈な手の甲に爪を深く突き立てた。
その痛みに彼は顔をしかめたが腕を離してはくれなかった。しかし足を止めさせることはできた。
「邪魔するなよ!もうすぐ逃げられるんだ。捕まったら俺たち―――」
「逃げるなら一人で逃げればいいじゃない!もう嫌なの!逃げることも、この仕事も!それにこのままじゃあの子が……」
「ふざけるな!お前が捕まったら情報が洩れるだろうが!そうなれば俺がしたことも明るみに―――」
彼女の放った言葉に牛人は激昂した。しかしそれは金属が激しくぶつかる音によって遮られた。頭の高さに取り付けられた室外機に鉄パイプが投げつけられ、その外装が歪にへこんでいた。地面に落ちたパイプが地面をカラカラと音を立てながら転がっていた。
「……お前のしたことが何だって?」
ヒロは逃げる二人の姿が見えると同時に、壁に立てかけられていた鉄パイプを一ミリも躊躇することなく投げつけた。
「ヒロ!」
投げつけたパイプは室外機を狙ったのか、それともたまたま外れたのかは分からなかったが、このままでは二人から情報を聞き出す前に危害を加えてしまうかもしれない。僕は腰に取り付けられたホルスターへ伸びたヒロの腕を咄嗟に掴んだ。
ヒロが僕に向けた目はいつにも増して鋭く、その瞳は煌々としていた。「やるなら早くしろ」声には出さなかったが、そう言われているようだった。
「……シロエさん。で間違いないんですよね」
「……」
僕の問いかけに彼女は静かに首を縦に振った。
「あなたは、いわゆる『運び屋』としてその後ろの男に薬物を渡し、お金を受け取っていた」
彼女は少し時間を空けて再度頷いた。
僕達はユウが持っていた手紙のやり取りからそうじゃないかと推測した。ユウが持っていた手紙はすべてマシロさんから送られて来たものだ。そこには彼女の姉が危ない仕事をしているかもしれないと心配する内容がいくつか記されていた。その中には治療に使っていた鎮痛剤と似た匂いがする、というものも含まれていた。恐らくユウはそのことに気づき、事件に巻き込まれた。
「マシロさんの、治療費のためですね?」
僕がそう訊くと彼女は目に涙を浮かべて口を開いた。「お金が必要だったの」彼女の声は震えていたが自白は続いた。
「身寄りのない私たちに妹の治療費を払う事なんてできなかった。だからあの医者の言う事を聞くしかなかったの」
「そのことに気づいたユウは、退院後にあなたに会いに行った」
「そうよ。彼は私に言ったの『もっと違う道があるはずだ』って。なのに私は……」
彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔を掌で拭った。そして止められない嗚咽の中で喉の奥から声を絞り出した。「殺されるのをただ見ているだけだった」と。
その言葉が聞こえて脳が理解したと同時に、ヒロの腕を押さえていた手が力任せに振りほどかれた。
革の擦れる音がした。ホルスターから引き抜かれた拳銃は二人に銃口を向けて構えられた。撃鉄はすでに起こされていた。
「待って―――」
僕の制止は一歩及ばず、乾いた発砲音が一発響き渡った。
発砲された銃弾は二人の間を通り過ぎ、小さな土煙を上げてビルの白壁に銃痕を残した。
耳鳴りの続く中、僕の耳にカチッと撃鉄が再び起こされる音が聞こえてくる。
「言え。ユウを刺した奴は、誰だ?」
ヒロの声はやけに静かで落ち着いていて、それ故に不気味さも兼ね備えていた。今しがた弾を打ち出した拳銃を片手に、ヒロはまるで待ち合わせをしていた友人と会うかのように歩み近づいて行った。
「……あの人を……殺したのは……」
彼女はもの恐ろしさに口をわなわなと震わせ、視線を自分の後ろにいる牛男に向けようとしたが、その行為は彼によって妨げられた。
「それ以上寄るな!こいつがどうなってもいいのか?」
牛男の腕に首を締めあげられたシロエは苦悶の表情を浮かべていた。男の手には鈍く光を照り返す小型のナイフが握られていた。
「何のつもりか知らんが、俺にとってそいつは盾にも人質にもならんぞ」
ヒロは牛男の牽制に僅かの躊躇も見せず、じりじりと距離を詰めた。
その行動に普通なら恐怖するだろう。銃とナイフ一本ではどちらが有利か一目瞭然のはずだった。その場でナイフを捨てて逃げ出すかもしれない。もしくは観念して降伏の意思を示すかもしれないと僕は思っていた。だが、現実にはそうはならなかった。牛人の男の表情が一変し、口角を上げて不敵に笑った。
「ああ、だが目隠しにはなる」
乾いた音がまた空気を震わせた。
その音がどこから発せられたのかを見つけるのに時間はかからなかった。ヒロは手に持っていた拳銃を地面に落とし、自らの腹部を押さえた。シロエの着ていた白色のワンピースに赤い染みが広がっていく。牛男の腕の中で彼女の息遣いが荒くなっていくのを感じた。そして彼女が男の腕からずり落ちると、二人を撃ち抜いた拳銃を片手に牛男が狂気に満ちた笑みをその顔に浮かべていた。
膝をつき落ちた拳銃に手を伸ばしたヒロめがけて彼はもう一度発砲した。
肩を撃ちぬかれたヒロは仰向けに倒れた。みるみるうちに傷口から血があふれ地面に血だまりを作っていった。
僕は咄嗟に地面を蹴り出した。
今思えばこの時何も考えていなかった。きっと今動かなければ自分も殺されてしまう。早く治療しないとヒロが死んでしまうと本能的に感じ取っていたのかもしれない。気づけば身体が動き出していた。
当然、向かってくる僕に銃口は向けられた。しかしそんなことに怯んではいられない。僕は構わず突進を続けた。
発砲音が二回聞こえた。一発は狙いが逸れ通り過ぎて行ったが、もう一発が耳を貫通した。痛みよりも熱さに近い感覚が耳にジワリと広がった。
僕はヒロの落とした銃に向かって飛び込んだ。世界が一度上下反転し再び地面に足が付いた時、僕の手には拳銃の重みがしっかりと残っていた。その手に掴んだ拳銃に少しの達成感を感じた束の間、見上げた僕の視界に映りこんだのは、にやけた牛人の顔と射出口が鮮明に見えるほど近くにあった銃口だった。
衝撃が僕の身体を貫いた。
手から力が抜けてせっかく手にした拳銃が掌からするりと抜け落ちてしまう。胸のあたりの服が段々濡れていくのを感じ手を当てると、掌に赤い血がべったりと着いていた。突然こみあげてきた胃の異物感に堪らず吐き出すと目の前に小さな血だまりができた。
平衡感覚が失われていく中ですぐそこに転がっていた拳銃に手を伸ばしたが、先に牛男に拾われてしまった。彼は拾い上げた拳銃をズボンと背中の間に差し込むと僕の腹を蹴り上げた。衝撃を受けた僕の身体はバランスを崩して自分の血でできた血だまりに俯せで倒れこんだ。
「悪いな、もう三人殺すのも四人殺すのも一緒なんだ」
僕の頭上で牛人がそう言うとまた一発、銃声が聞こえた。多分また撃たれたんだろう。もう痛みは感じない。すぐ近くで鳴ったはずの銃声もどこか遠くに聞こえた気がした。自分が呼吸しているのかさえも分からなかった。ただ寒い。身体の外側からどんどん体温が失われていくのを感じた。
不明瞭な視界の端で牛人がとうに動かなくなっていたシロエさんの身体を踏みつけ、何か言葉を吐きつけていた。一体何を言っていたのか僕の耳はその音をただの雑音としか認識できなかった。
もう体は一ミリも動かせなかった。視界は不鮮明、耳は聞こえない、痛みすら感じない。最悪の結末だ。きっと僕はもうすぐ死んでしまう。
僕は近いうちに訪れる自分の死を受け入れることにした。どうせ抗うだけ無駄だ。抵抗したところでほんの数秒生きながらえるだけ。それならいっそのこと、暖かいシャワーを浴びて、温まった身体が冷めないうちにふかふかのベッドと布団に包まれて眠りにつくように、この深い深淵の中に身を投じよう。無責任に感じるかもしれないがあの牛人は誰かが捕まえてくれるだろう。
僕は目を閉じ、薄れていく意識を自らの意思で断ち切った。
♢
雨の、匂いがした。
鼻先に当たる雨粒。それが伝って口に入る感触。一斗缶に打ち付ける雨粒が打楽器のように音を鳴らす。雨雲を運んできた風が頬を撫ぜていった。
あれ?死後の世界って現実の世界の天気とリンクしているのだろうか。確かあっちでも今にも降り出しそうな空だったけど……。
失われていたはずの感覚が戻ってくることを瞼の裏で確認していた。足の裏にはしっかりと地面を感じ、両手を握りしめて力が入ることを確認した。最後に目をゆっくりと開けるとそこには僕が想像していた死後の世界とはかけ離れた光景が広がっていた。
降りしきる雨の中、僕は薄暗い路地裏に立っていた。体躯の牛人の男がふらふらとした足取りで遠ざかっていく。シロエさんは壁際に追いやられ、意識は無いように見えた。後ろを振り返るとヒロが地面に伏したまま僕のことを睨んでいた。目だけで訴えていた。「お前がやれ」と。
「何で……だよ」
その場で僕は問い質したかった。「なんで自分の時間を巻き戻さないんだ」「どうして僕なんだ」いろいろと言いたいことはあったがまた今度にすることにした。ヒロがせっかく作ってくれたチャンスを無駄にすることはできない。僕が今すべきことは……。
僕は落ちていた鉄パイプを拾い上げて地面を蹴り出した。壁に取り付けられた室外機に飛び乗りそこからまた高く飛んだ。
室外機を蹴り出した音で牛人は振り向いたがもう遅い。僕は高く掲げたパイプを頭にめがけて振り抜いた。