14
「『マシロ・ブラン』これであの女が事件に関わっていることがわかったな」
ヒロが自分の掌を拳で叩くと立ち上がった。
「待って、どうするの」
僕は力強く拳を鳴らすヒロを制止した。このままだとただ殴り込みに行きそうな気がした。
「お前のところに依頼が来たなら住所くらいわかるだろう。今からそいつのところに行く」
やっぱりそうだった。
「行ってどうすんの?」
「行って……聞き出す!」
「……」
まるで何も考えてない年上の犬人に少し苛立ったが、それはヒロの性格上しかたがない事だと自分に言い聞かせた。頭で考えるよりも先に身体が動いてしまうんだろう。僕みたいにうじうじ考えて行動に動かせないよりかは幾分良い。
でも、今はその時じゃない。
「いいから、座って」
「……」
ヒロは不満そうな表情を隠すことはしなかったが、その場に座ってくれた。
「まだ、彼女が関わっているかもしれないってだけで、犯人だと決まったわけじゃない」
「あぁ、分かってる」
本当にそうか?と思いながら僕達は状況を整理した。
僕等はヒロの家から脱出した後、再びジャックさんの部屋に戻っていた。
手に入れた紙の束を床一面に広げ、二人そろって四つん這いになりながら気になるワードを含んだ会話を選び出した。この紙を本から見つけ出した時に、もう時系列はバラバラになってしまっている。どの順に書かれたのかは分からなかった。
「だが早くしないと逃げられるかもしれないぞ」
ヒロは腕を組んで唸った。
「それは大丈夫だと思う。うちの事務所に依頼するぐらいだ。猫が見つかるまでは逃げない」
「なぜ言い切れる。いざとなれば猫ぐらい簡単に見捨てる。それに猫が自分で帰っている可能性だって十分あるだろう」
「うん、でもその可能性は思っているより低いと思う」
「……ちゃんと説明しろ」
眉間にしわを寄せっぱなしのヒロに、僕は紙を二つ並べて見せた。どちらもユウの部屋の本から出て来たものだ。取り留めもない会話が書かれている。
「これ見てどう思う?」
「どうって、ただの日常会話だ。関係はないだろう」
ヒロの言う通りだ。この会話は関係ない。
「注目すべきはこの書かれた紙」
「……は?」
ヒロの頭には疑問符が浮かんでいた。
ここまで言えば分かって欲しいが、僕はぐっとこらえて説明した。
「この二つの紙。見ればわかると思うけど大きさが違う」
僕は大きい方の紙の上に、二周りくらい小さな紙を重ねてみせた。
「……そのサイズの紙が無くなっただけじゃねえのか?」
「僕も初めはそう思った。でも二つ目の違い」
僕は二つの紙を折り目に沿って折っていった。そうすると大きい方の紙は紙飛行機になり、小さい方はただの二つ折りになった。
「そして、多分この状態で二人はやり取りしていたんだと思う」
「……!!」
二つ折りの紙を端から丸めて小さな筒状にしたところで、ヒロの目が少し大きく開いた。
「そうか!それで猫か」
「そう。行方をくらましている猫は手紙を渡す役目をしていたんだと思う、それこそ伝書鳩みたいに。彼女が退院した後も、外から病室に猫が出入りしているところをフォードさんが目撃している」
「と言う事はその猫が……」
僕はヒロの方を見て頷いた。その猫が何か事件につながる情報をまだ持っているかもしれない。そして、彼女はそれを早く回収したいのだろう。
「よし、そうと決まれば行くぞ!」
ヒロは意気込んで立ち上がった。
「待って」
「あ?まだ何かあんのかよ」
いまだに動かない僕を見てヒロは苛ついた表情を浮かべた。もう十分痺れを切らしているところだろう。
「猫探しは、僕がやる。というかヒロにはできないでしょう?」
「じゃあなんだ?俺は動くなってことか?」
ヒロはぼりぼりと頭を掻いた。
「君にはいくつか頼みたいことがある。その一つが、これ」
僕は鞄の中から財布を取り出した。だがこれは僕の物ではない。
「あぁ、トンネルで倒した牛野郎の財布か。それがどうした?免許証とかそいつの情報は無かったはずだ」
ヒロは財布を受けとるとそう言った。
「……これは、本当に偶然だと思うんだけど、僕はその持ち主のことを知ってるんだ。どこで働いていて、どこに住んでいるのかも」
「は?どういうことだよ」
「一つ目のお願いは、その持ち主の奥さんに確認をとること。それが本当に旦那の財布であるかどうか。そして二つ目は、もしも何かあった時に動ける人員を確保してもらいたい」
「……」
ヒロは少し考えた後、ひとつため息をついた。
「はー、分かったよ。お前の考えてることはよくわからねえが、言う通り動いてやる。その代わりさっさと猫見つけてこい」
「うん、ありがとう」
僕も立ち上がると、掛けていた鞄の帯をきつく締めなおした。
考えるのはこれでひとまずお終いだ。後は時間との勝負。
「よし、行こう」
僕たちは行動を開始した。胸の中に一抹のざわつきをのこしたまま。
♢
僕とヒロはビルの屋上に来ていた。
「おい、何でこんな所で待ってるんだ。下で待っていればいいだろう」
そう不服の表情を浮かべているのは、白い猫を腕に抱えたヒロだった。猫はヒロの両腕にすっぽり収まり、心地よさそうに居座っている。その光景はなんというか……。
「ふふっ。面白い」
「あ?なんか言ったか?」
「なんにも」
できるものならこの光景をユウにも見せてやりたい。
そう思いながら僕はファインダーを覗き込んでシャッターを切った。カメラのモニターにヒロの怒った顔と猫の寝顔が映し出された。……後で現像してジャックさんに見せてあげよう。
「……お前、後で覚えてろよ」
「うん、後で写真用紙買って帰らないと」
「……」
うん、しっかり怒ってる。でもこんなことができるのは猫で両腕がふさがっている今だけなんだ。
僕はこの状況を楽しんでいた。後のことはどうにでもなるだろう。
ヒロは「フンッ」と息を吐き出すと僕の横に胡坐をかいて座った。僕はヒロの足の間に納まっている猫の頭を掻いてやった。気持ちよさそうに掻いている手を押し返してくる。
「かわいいなぁ、お前」
「……どこが」
自分の足の上でくつろぐ毛玉をヒロはむすっとした顔で見ていた。これだけ近くで声を出しても動いても、見知らない人に触られても逃げなかった。それどころかこの猫は向こうからやってきた。
「ったく、なんなんだこの猫は。普通じゃないだろう」
「はは、普通じゃないね」
そうだ、普通じゃない。
事は昨日にさかのぼる。まさに僕たちがフォードさん宅から出た瞬間の出来事だった。というか僕は出ていなかった。玄関のドアを開けたヒロが突然立ち止まり、僕はその背中にぶつかった。
何事かと思っていると玄関の向こうから「にゃー」という鳴き声が聞こえてきた。
「にゃー?」
僕はぶつけた鼻先を押さえながらヒロの影から玄関先をのぞきこむと、白い毛並みの猫がこちらを見上げていた。その視線はまっすぐヒロを捉えていた。
「こいつか?今から探すって言っていた猫は」
ヒロは僕の方を一瞥して言った。
「うん、間違いなさそうだね。見た目もそうだし、聞いていた特徴とも一致する」
僕がハルさんから送られて来た画像と猫とを見比べている間、その猫はヒロの足に体を擦り付けていた。
ヒロは自分の足に纏わりつく白猫の首根っこを掴むと「確保」と僕に渡した。猫は大人しく僕の腕の中に納まると、その真ん丸な瞳で僕を見上げて首を傾げた。まるで「なんか違うな」とでも言っているような表情だった。
それは僕のセリフだ。『猫は僕が探す』と数分前に意気込んでいた手前、なんだか複雑な気分だった。
そしてやっぱり違ったようで、猫は僕の腕から飛び降りて前を歩きだしていたヒロの背中によじ登った。突然背中をよじ登られる感覚にヒロは身体をびくつかせたが、猫はそんなのお構いなしに肩に居座った。
それ以来ずっとヒロの傍を離れようとしないので今の状態に至る。
「それで、お探しの物は無かったわけだが大丈夫なのか?」
「大丈夫……だと思う」
「思うって……お前なぁ」
ヒロは訝しげな眼を僕に向けた。
僕も少し不安はあった。今ここにいる猫は間違いなく依頼を受けた迷子猫だ。だがこの猫の首には小綺麗な首輪がつけられているだけで、紙を丸めて入れられる容器はぶら下げていなかった。もしかしたら行方不明になっている間に失くしたかもしれない。第三者に取られたかもしれないし、元からしていなかったかもしれない。
「持っていたかどうか、それはこれから確認する」
僕はビルの屋上に設置された柵から身を乗り出し、カメラのシャッターを切った。カメラのモニターには白い毛並みの猫人の女性が映し出されていた。ファインダーを通して見た限りでは依頼主である彼女に間違いない。
「おい、何してるんだ」
「これ?カメラの画像を携帯に移してるんだ。念のためフォードさんに確認してもらおうと思って」
僕はカメラの無線機能を使って撮ったばかりの写真のデータを携帯に移していた。最近の機械技術の進歩には目を見張るものがある。カメラで撮った写真なんて記憶媒体をプリンターに差し替えてプリントするか、パソコンに保存するだけだと思っていたがそんな時代はとうの昔に過ぎ去っていたらしい。目に見えない無線通信で写真がカメラから携帯電話に移されていく。
「ちげぇよ。あの猫女が来てるなら俺たちも下に降りるべきだろう。逃げられたら困る」
ヒロは自分の求めていた答えと違う事を僕が答えたせいか、少し不機嫌になりながら言った。
「……もう一人、この場所に呼んだでしょ。彼がまだ来てない」
僕がファインダー越しに下を見下ろしながら答えると、横から「ああ、そうだったな」と小さな声が聞こえてきた。どうやら本気で忘れていたらしい。
僕たちは今日、この場所に彼女の他にもう一人呼び出している。僕はその二人を引き合わせたかった。
「あら、あなたはルーヴさんのところの……」
「はい……こんにちは」
僕達はフォードさん宅の玄関先で白猫を保護してから、その足である人の家を訪ねていた。僕は数か月前まで毎朝この家に足を運んでいた。玄関の扉を開けて出てきた牛人の中年女性とは探偵事務所で何度か顔を合わせていて面識がある。今のこの時間、彼は会社に出勤中で家にいないことは知っていた。
「今日はどうしたの?」と穏やかな笑顔を浮かべた。彼女の依頼である浮気調査はかなり前に打ち切られていて、『浮気の事実なし』と事務所の方から報告していた。それ以来彼女には会っていない。
「これなんですけど」と僕が鞄から取り出した財布を見るなり、彼女は「あら、旦那の財布だわ」と声を弾ませた。ありがとう。届けてくれたのね。と僕に感謝してくれるその笑顔に僕は心を痛めた。最後に事務所を訪れてきてくれた時のことを思い出す。その時も彼女は同じように笑顔で感謝の意を述べていた。「ありがとう」「また疑いのない夫婦生活に戻れるわ」意気揚々と事務所を後にしたのだ。
「お礼しないと」と彼女は家の中に戻って行こうとするから、僕はそれを引き留めて早々と別れの挨拶をした。「あら、そう?」と少し残念な顔を浮かべて、その次の瞬間には「頑張ってね」と優しくほほ笑んでくれた。僕が彼女が取り戻した平穏な夫婦生活に再び亀裂を入れてしまうことも知らないまま……。
「おい、来たぞ」
いつの間にか立ち上がって隣に立っていたヒロが地上を見下ろしていた。僕もハッとしてヒロの視線を辿ると牛人の男が路地裏に入ってくる姿が見えた。周りを気にした素振りを見せるとそのまま奥に進んできた。
「よし……行こう」
僕達は凭れ掛かっていた屋上の柵から離れ、二人のいる地上の路地裏へと向かった。
妻に浮気の疑いを掛けられた牛人の中年の男。街の病院で入院していた猫人の若い女。この街がそれほど大きくないことを考えても、この二人が知り合いである可能性は限りなく低いと思っていた。
「どうしてあなたがここに?」
「は?呼び出したのはお前だろう。こんな紙切れよこしやがって、しかもよりにもよってこの場所に。何の用だ?」
牛人の男は尻ポケットから折りたたまれた紙を広げて見せた。猫人の女はそれを見て目を丸くした。
「……それをどこで?」
「だから、お前が持ってきたんだろう?俺の財布の中に入ってた。届けてくれたのが白い毛皮の猫人だ、ってうちの嫁さんが―――」
「私じゃない!それに私は探偵の人に呼び出されてここに……」
「は?探偵?」
何か嫌な予感がする。お互いの間に漂う空気に緊張が走った。ここに来てはいけなかったんじゃないか。そう思ったことだろう。
……僕もそうだ。これから起こることは想像がつかない。でも、何があってもこの二人をこの場から帰すわけにはいかなかった。
勝手に行動しないようにヒロには僕の後ろにいてもらった。フードを被ってもその威圧感は隠しきれていなかったが何もしないよりは幾分マシだろう。ヒロの顔を見て逃げられては困る。激しく脈打つ心臓を落ち着かせるために、僕はゆっくり、大きく空気を吸い込んだ。
「こんにちは。知り合いだったんですね、お二人」
二人と少し離れたところから声をかけた。二人の視線が痛いくらい僕に向けられていた。
「……もしかして、探偵事務所の方?」
猫人の女が不安げな表情で僕に尋ねた。
「はい、ルーヴ探偵事務所のヌーウェイルといいます。あなたがマシロ・ブランさんで間違いないですか?」
僕はできるだけ笑顔を作るように心掛けた。僕の問いかけに彼女は静かにうなずいた。
「頂いた資料からするとこの子で間違いないと思うんですけど、一応確認してもらってもいいですか?」
僕は持っていた猫用のキャリーを地面に置いて、中から白猫を取り出した。今度は僕の腕の中でも大人しくしてくれていた。
彼女はゆっくり猫に歩み寄ると、少し観察して「ええ、間違いないわ」と言った。
「そうですか……よかった」
僕は猫を彼女に渡した。猫は彼女の腕にすっぽりと収まると小さく鳴いた。
「あの、首輪は……?」
受け取った猫の首を見て彼女は首輪が無いことに気が付いた。
「ああ、失礼しました。捕まえた時に金具が壊れてしまって……これで間違いないですか?」
僕は鞄の中から猫がつけていた首輪を取り出した。
僕が手に持つ革製の首輪を見るなり彼女の表情が少し和らいだ。猫を受け取った時よりも、どこか安心したような……。
彼女は「大丈夫ですよ。首輪なんてまた買い替えればいいだけですから」と僕の手から首輪を受け取った。それを大事そうに握りしめると彼女は「ありがとうございます。あの、お礼の方はどうすれば……?」と僕に尋ねた。
それについては僕も分からない。依頼料は前もって決められているはずだし、その受け渡しはいつも事務所でハルさんかボスが担当していた。そして、僕は彼女から依頼料を受け取るつもりなんて露ほどもない。
「……どうして、嘘をつくんですか?」
僕の口から出た言葉は綻んだ彼女の表情をまたこわばらせた。彼女は後ずさりして少し僕から距離を置くと「どういう事?」と消え入りそうな声を出した。明らかに僕に警戒の姿勢を示していた。
「その首輪。余計な物がついてることに気がつきませんでしたか?」
「……」
彼女は手に持っていた首輪を見るが、その余計なものが始めは何か分からなかったようだった。しかしその数秒後には何かに気づいたようで、僕は彼女の驚愕と焦燥の入り混じった瞳を目にした。
「首輪にそんなカプセルなんてついていなかったはずだ。マシロさん…………いや、シロエ・ブランさん」
「……」
彼女は目を伏せて何も言わなかった。それが彼女が名前を偽っていることを確証づけた。
僕はビルの屋上から階段を降りている間にフォードさんから電話を受け取っていた。「違う、彼女じゃない」フォードさんは開口一番にそう告げた。そしてどうやって調べたのかは教えてくれなかったが、病院に入院していた猫人の彼女のことを教えてくれた。彼女の病気の事から家族構成に至るまで。
「あなたは知らないかもしれませんが、あの病院には見たものを忘れられない人がいるんです。その人が教えてくれました。あなたは入院していたマシロさんじゃない。その双子の姉。シロエ・ブランだ」
「……」
「あなたですよね。病室の引き出しにこの場所の住所を書いた紙を入れたのは」
「……」
「その時は二人が紙飛行機を使って文通していたことしか知らなかった。猫を使ってやり取りをしていることを知ったのは多分その後のことだ」
「……」
「教えてもらえませんか?あなたが知っていること。ユウ・ドーベルについて」
「……」
僕の問いかけに彼女は口を堅く結び、黙ったままうつむいていた。
何も起きないまま時間が経過した。遠くから雷雲の轟きが聞こえ、巻き上げられた風が地面から湿った空気を運んできた。
「おい、時間の無駄だ。答えろ猫女」
後ろで待機していたヒロがしびれを切らして僕の肩を引いた。フードを脱いだヒロの顔を見上げて彼女の表情は恐怖にゆがんだ。
「なん……で」
彼女の口からこぼれ出た音は吹いてしまえば簡単に消えてしまいそうなほどか細かった。それでもヒロの耳には届いたらしい。
「なんで、だと?」ヒロは彼女に詰め寄った。
「ユウを、……俺の弟を殺したのはお前か?」
震えるほど拳を握りしめながら直球な質問をするヒロに、彼女はただ首を横に振った。
「誰だ、誰がユウを殺したんだ!知っているのなら答えろ!」
ヒロのドスが利いた大声に驚いたのか、彼女の腕から白猫が飛び降りてどこかへ逃げ出してしまった。しかし彼女は猫どころではなかった。追う素振りを見せるどころか「違うの」と首を振るばかりだった。
「違うだと?」
「ごめんなさい……こんなことになるなんて、思わなかったの」
彼女はそう言うとその場に頭を抱えてへたり込んでしまった。一種のパニック状態とでも言うんだろうか。彼女は「ごめんなさい」と繰り返すだけだった。
その様子にヒロは余計腹を立てたようで彼女の襟首を掴むと無理やり立たせた。彼女の目には涙が浮かび赤く充血していた。
「知っていることがあるなら話せ!全部だ!」
ヒロは今にも噛みつきそうな勢いだった。冷静さに欠けているのは目に見えて明らかだった。
「ちょっと、ヒロ―――」
さすがにやりすぎだと僕がヒロの肩に手を伸ばした時だった。どこからか茶色い羽が舞い落ちてきた。その羽は瞬く間に数を増やしヒロと彼女の間に収束した。そして羽の渦はみるみるうちに彼女を飲み込みその姿は見えなくなった。
「チッ」
ヒロは反射的に羽の渦の中から腕を引き抜き、その場から飛び退いた。
「これって……」
「ああ、見覚えのある羽だな」
まるで獲物でも見るかのような目つきでヒロは渦巻く羽の向こう側を睨んでいた。
やがて視界をふさいでいた褐色の障壁が崩れた先に、見覚えのある顔ぶれがそろっていた。いつかトンネルで僕のことを襲撃した奴らだ。
「よぉ!猫ちゃん、また会ったな!」
羽が収束して人の姿に戻った鳥人の肩に手を置きながら、いかにもチンピラの格好をした犬人が僕に向かって吠えた。どうやら彼は僕に恨みでもあるようだ。
僕はこの人に蓑毛一本分も興味がないというのに。
「おいオッサン!そっちの猫ちゃん連れてさっさと行っちまいな!」
犬人のその言葉を合図に牛人は彼女の手を引いて路地の奥へと走り出した。
まずい、逃げられる。
この路地を少し進めば大きくはないが大通りにつながっている。そこまで行かれると後を追うことが難しくなる。時間の問題だ。今すぐ追いかければ間違いなく追いつける。だがこのチンピラたちが邪魔だ。この間は運よく勝てただけかもしれない。状況が違う。倒せたとしてもそれだけ時間がかかる。その間に逃げられてしまう。一旦路地を出て先回りするか?いや、路地の出口は一つじゃない。そんな博打は賭けられない。
考えている間に二人の姿は室外機の群れに紛れていく。せっかく見つけた手掛かりが遠ざかって行くのを僕はただ手をこまねいて見ているだけだった。
「なんだ、また考え事か」
相変わらずぶっきらぼうな口ぶりでヒロは言う。その目はまだかすかに見える二人の背中をしっかりと捉えていた。
「追うぞ」
短く口にした言葉は強く、必ず捕まえるという確固たる意志を感じた。
僕は自分の両頬を勢いよく引っ叩いた。よもや自分でもこんなことをする日が来るなんて思わなかった。そうしなければいけない。そう思ったんだ。
「うん、行こう」
顔の痛みが引くのと一緒に頭の中の悩みも飛んでいった。僕たちは逃げていった二人を追いかけて捕まえる。ただ、それだけだ。
「こいつらが現れて、あの二人が逃げ出した。あいつらは事件に関りがある。絶対に逃がさねぇぞ」
ヒロはそう言って足を進めた。
「何ごちゃごちゃ言ってんだぁ!?俺たちを無視しようだなんていい度胸じゃねぇか!」
僕らの前に立ちふさがる犬人は、その大きな口を開いて鋭い牙をのぞかせた。しかし吠えるチンピラを無視してヒロはビルの屋上に向かって声を張り上げた。
「ニコラス!アンリ!」
その声につられてその場にいた全員が空を見上げた。その目に映ったのはビルの屋上から落ちてくる二つの影。ビルの壁を蹴り、雨樋を伝い落下速度を殺しながら奴らに向かって行った。
「ドバ!」
犬人にそう呼ばれた鳥人は両腕を羽に変えて、落下してくる影を迎え撃とうとしたが遅かった。褐色の羽は辺りに飛散し、瞬く間に鳥人は地面に取り押さえられた。
「汚い羽だな」
彼を地に伏せた黒毛の猫人の腰からは、まるで鷹を彷彿させる翼が伸びていた。その翼を自在に動かし残りの二人も壁に押さえつけた。
「なんだてめぇら!」
急な襲撃に対応が遅れたチンピラ犬は腕を硬化させて、ビルから落ちてきたもう一つの影に殴り掛かった。しかし彼女はそれに臆することはなかった。目には目を歯には歯を、拳には拳で迎え撃ち、肥大化した鱗に覆われた腕で彼をなぎ倒した。
「ヒロさん!」
彼女は両手で踏み台を作ると飛び乗ったヒロを前線の向こう側へぶん投げた。
「猫君も!」
彼女にそう言われた僕は、てっきり今見た通りに跳ぶのだと思っていたがそうはならなかった。僕の細い胴体に尻尾が巻き付くとそのまま空中にぶん投げられた。
「なんで!」
「訓練してないから!」
僕の疑問に彼女は簡潔に答えた。
僕もヒロみたいに格好良く跳びたかった。そう思ったがこの想いは胸の奥にしまっておくことにした。
「ここはあの二人に任せる」
着地してもヒロは後ろを振り向くことはなかった。
僕たちはただ前を向いて走った。