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CROWN   作者: 山木京、
白猫の探偵と黒犬の警察
15/20

13

 あれはまだ両手の指で数えられるくらいの歳だっただろうか。いつしか夏休みの恒例行事になっていたが、夜の校舎に友人数人で忍び込んで肝試しをしていた。誰が言い出したでもないその肝試しは、ただ、夜の校舎を懐中電灯一本で練り歩くというだけのものだった。はじめの頃こそ、夜にたたずむ校舎に、夜風に揺れるカーテンに、トイレの蛇口から滴る水の音に、皆が揃って怯えていたものだ。しかし数年同じことが続くと人は誰しもその状況に慣れてしまう。懐中電灯を持ったベイクが平静を装いながら先頭を歩き、その後ろを友人数人がついていく。そして一番後ろに僕とシオリ、クロ太がいた。この後ろの三人は二回目の肝試しあたりですでに冷め始めていた。元から幽霊というものを信じていなかったというのもあるが、これは性格上仕方のないことだった。

「あ、誰かいる」

 一番後ろを歩いていたシオリが突然声に出した。そこには夜の校舎に自分たちがいるという驚きもなければ、此の世の者ではない何かに対する怯えも含まれていなかった。ただ自分が見たものを報告するためだけの発言。道で干からびているミミズを見て「あ、ミミズ」というのと同じだった。

 シオリが示した方向へ目を凝らすと、中庭を挟んだ反対側の教室の中に懐中電灯をもった人影が一つ動いているのが見えた。

「誰だろう、こんな夜中に」

「先生じゃない?夜の見回りとか」

「夏休みなのに?」

「……僕たちの事ばれちゃったかな?まだ見つかってないようだけど」

 三人の間に沈黙が訪れた。

 僕らが立ち止まっている間に先頭の集団は廊下の端の方まで進んでいた。いつも通りならこのまま突き当りの階段を上がって二階の理科室に行くはずだ。

 このまま前を行く集団について行くのも一つだが、後々見回りの先生に見つかるのも面倒だ。夜の学校に子供だけで忍び込んで注意だけで済まされるわけがない。こっぴどく怒られることだろう。それだけはなんとしても避けたい。できれば平穏無事にこの夏休みを満喫したい。

 僕たち三人はお互いの顔を見渡すとベイクたちの集団とは反対の方向に歩を進めた。

 昼間の暑さがまだ居座っていたこの夜、僕らは二つのことを知った。まず一つ目は『先生』という大人の生き物も、真夜中の校舎においては、誰もいないはずのトイレの水が流れる音に、錆びたロッカーの閉まる音に、ひとりでに動き出す教卓に悲鳴を上げると言う事。そしてもう一つは大人を舐めてはいけないと言う事だ。

 先生を怖がらせることに愉悦を感じていた僕たちはいつの間にか悪ふざけが過ぎていた。

 今思えばなんて馬鹿な悪戯を僕は思いついたんだろう。僕はシオリがどこかから見つけてきたカエルを、じゃんけんで負けた人が先生の首筋に引っ付けて帰ってくるという提案をした。それに乗っかる二人もどうかと思うが、こういうのは大体言い出しっぺが負ける。

 一発で負けた僕はシオリからカエルを受け取ると、足音が鳴らないように靴を、衣擦れの音がしないように上着を脱いでクロ太に渡した。足の裏の肉球にヒンヤリとした廊下の感触を感じた。

 はるか昔、僕ら猫人の祖先がそうしたように、音を立てずにゆっくりと獲物に近づいた。呼吸はできるだけ深く浅く、殺意を置いて、僕という存在を空気に溶け込ませる。背中に廊下の角から覗くシオリとクロ太の視線を感じながら、僕は先生の背中に手が届くところまで来ていた。後は腕を伸ばして手に持っていたカエルを先生の襟もとに忍ばせるだけだった。


 あの時、カエルさえ鳴かなければなぁ……。

 今となっては後悔しても仕方がない。生きた本物のカエルだったのだ。いつどこで鳴いても不思議はなかったはずなのに、その時手に持っている小さな生き物が音を出すだなんて考えもしていなかった。

 その後のことは言わずもがな。先生に見つかった僕はその場で捕まり、シオリとクロ太も観念して投降する形で捕まった。僕たちはその場で叱られ、家に帰ったら帰ったで、事情を聞いた先生にこっぴどく怒られた。

 あの夜の校舎での出来事は、当時は思い出したくもない悪い記憶だったが今となってはいい思い出だ。


 ただ、その時得た教訓が活かされているかと言われると、あながちそうではないと言える。

 当時持っていたカエルを液体の染み込ませた布に持ち替え、路地裏を裸足で歩いていた。

 気だるそうに建物の壁に寄りかかりながら一方向を見ている人に、気付かれず近づく事は容易だった。幸い布は「ゲコッ」とは鳴かない。

フォードさんが昨晩ヒロにやって見せたように、小瓶の中の液体を染み込ませた布で鼻先と口元を覆うと簡単に眠りについた。腕の中にずしっとした重みが圧し掛かかる。

 これで五人目。ジャックさんに聞いた通りならこれで全員のはずだ。

 僕は今朝、居間のテーブルに置いてある置き書きを見つけた。「なんでも協力するから何かあったら電話して!」一言そう書かれた紙にはジャックさんの名前と電話番号が記されていた。僕はそこに書かれていた通り、遠慮なしに情報を聞き出した。

「え⁉︎ヒロの家の住所と見張りの人数教えろって⁉︎」

 電話口の向こうから聞こえて来たジャックさんの声は、どこか周りを気にしている様な気がした。

「知ってどうするの?」

「ヒロの家に行きます。どうしても調べたいことがあって」

「……ヒロは?」

「今朝、フォードさんの病院に行くと言って出て行きました」

「うーん」

 電話越しで見えはしないがジャックさんが頭を掻いている様子が頭に浮かんだ。僕はヒロの機嫌を悪くしたことは黙っておいた。おそらく今は言わない方がいい。

「……多分、今日の招集に来ていないのが張っている人数だとすると五人だね。でもそれより少ないかもしれないし、多いかもしれない」

「五人ですね、ありがとうございます」

 僕はジャックさんから情報を聞き出した後、ヒロの家がある住所へと向かった。

 いろいろと便利な時代になった。住所さえ分かってしまえば携帯でその場所へ簡単にいくことができる。それが犯罪に使われることもしばしばあるようだが、今は技術の進歩に感謝だ。

 眠らせた犬人の警官を通りから見えないように動かし、身に着けていた通信機器のようなものは全て取り外し電源を切って近くのごみ箱に捨てた。手錠もしておこうかと思ったが、何かの犯罪に触れてしまうと思ってそこまではしなかった。

 いや、もうこれ公務執行妨害ってやつじゃないか……?

 眠ってしまった犬人の警官の足を揃えながら、ふと、そんなことを思っていると後ろから声が聞こえてきた。

「だ、誰だお前!シバ先輩に何したんだ!」

 僕が振り向くとそこには僕と大して歳の変わらない犬人の男が立っていた。

「う、動くな!手をあげろ!」

 震えた声でそう言った彼は腰のホルスターからおぼついた手つきで銃を抜いた。その銃口はふらふらと定まっていなかったがこちらに向けられていた。

 ……しまった。もう一人いたのか。

 彼の様子を伺うに、どうやらシバ先輩のお使いに出ていたらしい。アンパンと牛乳だろうか、銃を構えた腕にはコンビニのビニール袋がぶら下げられた。

 言われた通り僕は手をあげた。

「動くなって言っただろう!」

 ……どっちだよ。動くなって言ったり、手をあげろって言ったり。

 何にせよ彼は今までに遭遇したことのない状況を目の当たりにして気が動転しているようだ。目は見開いて、息が荒くなっている。警察の持っている銃は簡単に発砲できないようになっているとは聞いたことがある。でも今の彼なら何かの拍子に引き金を引きかねない。

 どうしたものかと僕は手をあげたまま動かなかった。そして彼も銃を構えたまま同じく動かなかった。何も起こらないまま数秒が経過した。そして一つ疑問が浮かび上がった。

 もしかしてこいつ、この後どうするか知らないんじゃないか?

「う、動くな!」

 僕は動いていないはずだが彼は同じことを繰り返した。瞼の瞬きや呼吸も止めろというのであれば、それは無理な話である。

 暫くの膠着状態が続いているうちに、僕は彼を倒す算段を立てるまでに至っていた。このまま時間を無駄にするわけにはいかないし、通報されて逮捕されるのはもってのほかだ。僕と彼との距離はそれほど離れていない。彼が銃の安全装置を解除して撃てる状態にするまでの間に僕はこの距離を詰めることができる。おそらく使い慣れていない銃ならなおさらだ。

 銃を左手で払い除けてわき腹に一撃入れる。続けて顎を打ち上げ、腹に蹴りをお見舞いする。しっかりと頭の中でイメージを組み立ててシミュレーションした。

 四回目の「動くな」を聞いて僕は動き出そうと一歩踏み出して、彼の後ろから近づく人影に気づき足を止めた。

「よう新入り。銃はそんな簡単に人に向けるもんじゃねえぞ」

 銃を構えた彼の背後に一回り大きなフード姿の影が現れた。その影は彼の肩に腕を回し構えた銃を下ろさせた。

「ドーベル……さん」

 犬人の表情が引きつった。

 そのまま二人は僕の方に近づいてきた。いや、少年の方はヒロに歩かされていた。

「お前は今日何も見なかったし聞かなかった。路地裏でシバ先輩とお昼寝してた。いいな?」

「え、いや……」

 僕の一歩手前まできたヒロは少年に有無を言わさず言い聞かせた。

 こんな上司がいて大変だなぁ、と僕は思いながら、彼等の目の前で小瓶の液体を布に染み込ませて彼の鼻に押し当てた。凄く怯えた表情を一瞬顔に出したが、あっという間に眠りについた。ヒロの腕に抱えられてすぐに寝息を立て始めた。

 ヒロはその少年をシバ先輩と呼ばれていた犬人の横に寝かせると、彼の腰から銃や警棒、手錠などの装備品を一式剥ぎとった。

「……顔ぐらい隠しとけ、後で指名手配されても知らねぇぞ」

「指名手配されてる人に言われたくない」

「ふん」

 剥ぎ取った装備を自分の腰に取り付けながらヒロは言った。

「病院に行ったんじゃなかったの?」

「……やめた」

「なんで?」

 僕のその問いかけにヒロは何も答えなかった。

 そのかわり、また頭を小突かれた。

「……お前のせいだ」

 ヒロはそう言って歩き出した。

「え、なんで」僕もヒロの後をついて歩いた。

「うるさい、俺が自分の家に帰って何が悪い」

 ぶっきらぼうにそう言うヒロは相変わらずこっちを見なかった。

「ねえ、一個だけ訊いていい?」歩きながら僕はヒロの背中に訊いた。

「……なんだ」

 ヒロはポケットから鍵がいくつもついたキーケースを取り出している最中だった。

「なんで警察って犬人があんなに多いの?もしかして昔読んだ絵本とか童謡に憧れたりするもんなの?」

「知るか。他人の志望動機なんかいちいち聞かねぇ」

「じゃあ、ヒロは?」

「……それを聞いてどうするんだ。捜査の役にでも立つのか」

 ヒロが鍵を差し込んで捻ると、恐らく数日間閉まりっぱなしだった鍵が開いた。

「別に。ただの興味」

「なら、答えてやる義理はないな」

 ヒロは玄関のドアに手をかけて、その動きを止めた。

「どうしたの?久しぶりすぎて開け方忘れた?」

「黙ってろ」

 ヒロは静かに、しかし大きく息を吸い込んでドアを引いて開けた。

「まぁ、ヒロが警察を目指した理由はユウから聞いてるんだけどね」

「お前……そのうち本当に黙らせてやる」

 ヒロは久しぶりに僕の方を見て言った。その目は僕が知るいつも通りのヒロの目だった。

 僕たちは、ヒロは数日ぶり、僕は初めてとなるヒロとユウの住んでいた家に足を踏み入れた。

 家の中に入ると生活臭というのだろうか、玄関で靴を脱いでいると人の家の匂いがした。他人の家であって自分の家じゃないのだから当たり前なのだが、そこにはヒロとユウが暮らしていた気配が漂っていた。傘立てに建てられた二本の傘。脱ぎ散らかされた靴ときちんと揃えられた靴。テーブルに置かれたままの二つのグラス。二人がここにいた痕跡が彼方此方に残されていた。

 家の中に上がるとヒロはおもむろに台所に入って冷蔵庫を開けた。背の低い冷蔵庫に顔を突っ込んで物色すると、僕の方に缶を投げてよこした。人に物を渡すには早すぎるような速度で飛んできた缶を受け取ると、よく冷えた缶の冷たさが掌に伝わってきた。

 プシュッと缶を開ける音が聞こえたと思ったら、冷蔵庫のドアが開けっぱなしになっていることも気にせずヒロはもう飲んでいた。

「なんだ、飲まないのか?」

 そう言いながらヒロは口を拭っていた。

「いや、だってこれ……」

 僕は手に持った缶を見た。そこにはどう見てもラベルにビールと書いてあるうえ、二十歳以下は云々の表記もしっかりされている。

「僕まだ十八なんだけど……」

 僕がそう言うとヒロは一瞬驚いたように見えたが、自分の缶ビールにもう一度口をつけた。そして眉をひそめて僕にこう言った。

「……大丈夫だろう。俺らだって十六くらいには飲んでたぞ」

 大丈夫か、この警察。というか『俺ら』っていう事はユウも飲んでたってことか……。

 家庭環境の違いを感じながら僕も缶のプルタブを押し上げてみた。プシュッと少し泡を噴き出しながら開くのと一緒に、アルコール独特の匂いが鼻を突いた。

 そういえばアルコール飲料とは縁遠い生活をしてきた。今思えばこういう物には触れないようにしてこられたのかもしれない。先生お酒飲まないし、十歳を超えたあたりで周りの皆が携帯電話を持ち始めたのに、僕が持ち始めたのはつい去年のことだ。

 だが食わず嫌い、もとい飲まず嫌いは駄目だろうと、缶を傾けて一口だけ口に含んでみた。

「うえ、なにこれ」

 口の中にひどい苦みが広がった。大人たちは何でこんなものを好き好んで……。

 僕は飲みかけの缶をテーブルの上に置いた。

「ガキんちょだな」

 ヒロはそう笑って僕にまた缶を投げつけた。今度は世界で一番有名な、あの赤い缶のコーラだった。飲むといつもの変わらないあの味がした。

「いや、昼間から飲んでる場合じゃないでしょ!」

 僕はふと思い出した。僕は今さっきこの家を見張っている警察官を眠らせてきたばかりだったのだ。早くしないと彼等が目覚めて通報されてしまう。

 しかしヒロは「大丈夫だろう。そんなすぐには起きねえよ」となぜか楽観的だった。

 経験者がそう言うのなら大丈夫なのかもしれないが……。

 僕はすぐそこにずっと探していたものがあるかもしれないのに、手が届かない歯がゆさを背中に感じていた。

「お前……、犯人を見つけたらどうする?」

「…………え?」

 ヒロは缶ビール片手にそんなことを僕に訊いた。

「どうするって、そんなの……」決まってる。捕まえて、警察に届けて、それからどうなるかは知らないけど、その犯人には自分のしたことの罪を償ってもらう。

 そうすると思っていた。そうあるべきだと、思っていた。しかしヒロにどうすると訊かれてすぐに答えられなかった。

「……いや、何でもない」

 僕が黙っているとヒロは空になった缶を一握りして潰してシンクの中に投げ入れた。ガランと粗雑な音がした。

「部屋は二階だ、ついてこい」

「……」

 そう言ってヒロは台所を出て行った。僕もその後に続いた。コーラはまだ半分くらい残っていたが、そのままテーブルの上に置いた。

 ヒロの足取りは心なしか重かった。長年暮らして、数えきれないくらい昇って降りた階段をゆっくりと、一段一段踏みしめていく。

 階段を登り切って廊下の一番端の部屋の前でヒロは足を止めた。小さい頃に作ったであろうネームプレートが木製の扉に掛けられている。『Y.D』と書かれた横に折り紙で作られた向日葵がつけられていた。

 ドアノブに掛けられたままのヒロの左手は震えていた。その震えを止めようと右手で左腕を押さえたが治まることはなかった。

 ヒロは目を閉じて、大きく、深く息を吸い込んで肺に空気をためこんだ。

 その短い間に一体何を想っていたのだろう。たった数日間しか会ってない僕なんかでは比べ物にならない程の思い出が、きっとこの部屋には詰まってる。一緒にこの世に生れ落ちて、気づいた時にはいつもそばにいた。二人で遊んで一緒に学校に通って、一緒にご飯を食べて、時には怒られ同じ布団の中で眠ったことだろう。ユウは自分の半身とも言えたかもしれない。

 でもその半身はもういない。手の届かない遠い所へ行ってしまった。

 半分になった魂はもがき苦しみ、足掻いて暴れて、空いた器を満たそうとしている。

「…………なんだ」

 僕もどうしてそんな事をしたのかは分からない。体が勝手に動いたでも言っておこう。

 ぽっかり空いた半身を僕が埋めてやろうだなんて、そんなことは言わない。でもほんの少しでも、足掻くヒロの背中を押せるなら、僕は猫の手の一つでも二つでも貸してやる。アルコールなんかよりも役に立てるだろう。

「一緒に」

 握ったヒロの手の震えはゆっくりと引いていった。その代わりに堅い拳に力が入って行くのが僕の掌に伝わった。

「……開けるぞ」

「いつでも」

 僕とヒロは数か月の間、閉じたままだったユウの部屋の扉を押し開けた。


 部屋の中というのはその人となりを映す鏡だと僕は思う。物が散らかって足の踏み場もない部屋の住人は性格も散らかっていることが多い。シオリの部屋だ。かと言って一見きれいに片付けられている部屋でも、よく見れば所々で散らかっている。そこの住人は要所要所で適当になってしまう性格の持ち主だ。僕の部屋の事だ。同じ本好きでも人によってそれぞれ違う。机の上に平積みされた本、本棚に巻数順に並べられた漫画本、作者の名前順に並べた文庫本。それぞれに個性が現れる。

 その人の趣味や拘り、どんな生活をそこでしていたのかを想像することは面白かった。

 だからこの部屋に入った時、僕はユウらしいなと思った。

 部屋の中はきれいに片付いていた。白い壁には昔学校で描いたような絵が飾られている。入院生活がその人生の大半を占めていたユウは、あまり植物を植えた鉢や生き物を飼う水槽を部屋には置いていなかった。その代わりに置かれていたのは大量の文庫本だった。天井にまで届きそうな本棚は本で溢れかえり、そこにも収まりきらない程の本は床に積まれていたり、勉強机の上に置かれている。

 ……冒険小説が多いな。

 本棚の前に立って本のの大きさ順に並べられた背表紙を見ると、世界的に人気な冒険小説から、剣と魔法の世界を題材としたファンタジー小説がずらりと並んでいた。その中には僕が読んだことのあるものもあった。魔法の息づく世界で主人公は仲間たちと世界を旅をする。森には幻想的な生物が生息し、ドラゴンが大空を舞った。そんな世界にユウも病院のベッドの上で没頭し、胸を躍らせ、時には涙することもあったのかもしれない。

「それで、探したいものってなんだ?小説か何かか?」

 僕が本棚に並んだ本の背表紙を撫ぜているとヒロが口を開いた。

 振り向くとヒロがベッドに腰かけて部屋の中を見渡していた。その心中は表情から読み取れなかったが、表情は今まで見たこともないくらいに穏やかだった。

「俺もどこに何があるのかいまいち知らねえぞ。……ここにはあいつの着替えを取りに来るくらいだったからな」

 ヒロはちらっとタンスの方に目をやった。タンスの上にも本が置かれていたが、その上には畳んだのか畳んで無いのか分からないくらいの衣類が乗せられていた。多分ヒロが畳んで置いたのだろう。

「今朝、僕が見せた紙覚えてる?」

「あぁ、あの紙か。それがどうした」

「あれと似た物。多分、同じ様な折れ線がついてると思う」

 僕はもう一度ヒロに病院で見つけた紙を鞄から取り出して見せた。

「確認だけど、こういうのは見たことない?」

 ヒロは少し考えた後首を横に振った。

「いや、見た覚えはないな……。退院して戻ってきた時もそんなものは見ていない」

「……そう」

 見ていない。ヒロはそう言ったが、僕はユウがそんな簡単にそれを捨てるとは思っていなかった。部屋の中に飾られた、学校で作った絵や工作品。昔使っていた様な古びたカバンやリコーダーまで、ちゃんと捨てずにとっている。きっとユウにとってそれらは数は少なくとも自分を形づくった、思い出の詰まった大切な物だったのだろう。だからきっと、病院で長い間向かい同士だった彼女とのやりとりを、簡単に捨てたりはしないはずだ。

 ただヒロが知らないというのが気がかりだった。もし病院から持って帰って来ていたとしたら、ヒロに気づかれないようにこっそり持って帰ってきたことになる。

 ……ヒロに見られたくない内容が書いてあったのか?

 それが警察であるヒロに見られてまずいものなのか。それか双子の兄に見られたくない内容なのか。どちらにせよヒロが偶然見つけることがないような場所に隠すはずだ。

「探してもいい?」

 僕はベッドに座ったままのヒロに訊いた。

「そのために来たんだろう。俺も手伝う。その代わり荒らすなよ」

 ヒロはそう言うとベッドから腰を上げた。

「うん、ありがとう」

 僕らは探す場所を分担して作業にあたった。僕は勉強机の中を、ヒロはタンスの中を探し始めた。

 この部屋にはそれほど収納も隠す場所になりそうな物も置かれてはいなかった。紙とは言えど入院中に交わした手紙全部だとすると、相当な量になっているはずだ。その紙の束を隠せる場所となると限られてくる。二人いればすぐに見つけられるだろう。

 僕は引き出しの中にそれらしい紙の束や、隠せる隙間、上げ底になってないかを調べながら思っていた。


「おい、本当にあるのか?そんな紙の束」

 探し始めて二時間くらいが経過したところでヒロが音を上げた。

「……あると思ったんだけど」

「紙の束どころか紙の一枚も出てこねぇじゃないか。こんなこと言うのもなんだが、捨てちまってたら調べ様ないぞ」

「……」

 ヒロの言う通りだった。これだけあちこち探しても出てこないと言う事は、すでに捨ててしまったことを考慮に加えなくてはいけなくなってしまう。そうなってしまってはもう探しようがない……。

「ねぇヒロ、病院から荷物運ぶ時って……」

 僕が振り向くと今までそこにいた筈のヒロの姿がなかった。

「……ふう」

 物色していたクローゼットの扉を閉めてベッドの上にダイブした。

 トイレかな。

 僕はそう思いながら枕元に置いてあった本を手に取った。その本は文庫本でもハードカバーの本でもなかった。『手話入門編』『はじめての手話』表紙には手のイラスト共にそう書かれていた。ぱらぱらとページをめくってみると、手の形とそれを意味する言葉が写真付きで紹介されていた。

 小説じゃない本なんて珍しいな……。

 僕は寝ころびながらその本を開いた。

 本棚に並んでいる本は小説とちょっとの漫画だけだった。後は学校の教科書くらいなものだ。この本みたいにテキストだったり実用書のような本は置かれていない。

 何でこれだけ……。

 ページをめくっていると視界の端からヒロが部屋に入ってくる姿が見えた。その手にはお盆を持っていた。

「飯だ、食え」

 ヒロは短くそう言うと机の上にお盆を置いた。香ばしい、いい匂いが部屋の中に漂った。

「うん、後で…………ニャっ」

 僕はヒロに本を取り上げられた。

「ニャじゃねえよ。冷めないうちに食え」

 あいつじゃねぇんだから。そう呟いて本を机の上に置くと代わりに焼きめしの盛られた器を渡された。

「『あいつ』ってユウの事?」

「そうだよ、他に誰がいるって言うんだ。飯ができて呼んでも降りてこない。わざわざ呼びに来たら来たで『本読んでるから後で』だ」

 ヒロはぶつくさ言いながら焼きめしを頬張った。僕も正直あんまり食欲は無かったがご飯を口に放り込む。暫くの間、スプーンと器のぶつかる音だけが部屋に響いた。

 ふとヒロが僕から取り上げた本を開いて「何が面白いんだ、これ」と目を薄めて訝し気に見ていた。

「手話の本だよ。入門編で、簡単な挨拶から日常会話まで図解付きで載ってる」

 僕がそう説明するとヒロは「知ってる。俺が勝った本だ」と言って本を閉じた。

「え、ヒロが買った本なのそれ?」

「当たり前だ。病院に入院してる奴がどうやって本買いに行くんだよ。この本もそこに並んだ本も、ほとんど全部、ユウに頼まれて俺が買った本だ。まぁ俺はどれも読んだことはないが、これが最後になるなんて思わなかったな……」

 ヒロはそう言うとお盆を持って立ち上がった。無言でそれを僕の方に差し出した。空いた食器を乗せろと言う事だろうか。なんだかんだで完食していた僕は、空になった食器をお盆の上に乗せた。

「ごちそうさまでした」

「ん」

 短く返事をしたヒロは食器を乗せたお盆をもって部屋を出て行こうとした。

「ねえ」

「後じゃダメか?」

 ドアノブに手をかけたヒロが顔だけこちらを向けて言った。

「ほんとに読んだことないの?そこの本」

「昔から活字は苦手なんだ。漫画は読んでたがユウが好きな小説はどうもな。『双子とは思えない』って昔お袋にも言われたな」

「……退院した時って本は誰が持って帰ってきたの?」

「本?本はあいつが読み終わったら俺がまとめて持って帰ってくるんだ。そこに並べたのも俺だ。退院の時はほとんど手ぶらだったよ」

「……几帳面なんだね」

「悪いかよ」

 まだ、この部屋で探していないところを見つけた。僕が顔をあげるとヒロと目が合った。病院から本を持って帰ってくるのはヒロだった。ユウはほとんど物を持って帰ってこなかった。ヒロがうっかり見つけてしまわないところ。ヒロは小説を一切読まない。持って帰ってきた本は本棚に並べたら取り出されることはない。木を隠すなら森の中。紙を隠すなら紙の中、つまりは本の中。

 頭の中に電流が流れた気がした。

「……どうしたんだ急に」

 突然立ち上がって本棚の前に立った僕を見てヒロが引いた。

 僕は適当に本を手に取った。

「おい、もうそこは探しただろう」

「まだ、探してない」

 ヒロの言ったことは半分正しくて、半分間違っていた。

 本棚は探したが『本の中』はまだ探していなかった。ページの間に紙を挟んでしまうと僅かだが隙間ができる。それでは本棚に入れる時に違和感でヒロに気づかれるかもしれない。万が一本を落としても落っこちない。なおかつ小説を読まないヒロがまず見ない場所。

 僕は持っていた本のカバーを引っぺがした。

「無い」

「……何が無いんだ?」

「この本!いつ買ったか覚えてる!?」

「あ?それは、確か何年か前だ」

「何年か前……」

 僕が手に取っていたのは若者に人気のファンタジー小説の一巻だった。僕もシオリも読んでいたシリーズ物。最終巻はちょうど半年前に発売されて、その日に読みたかった僕とシオリは一冊ずつ買った。だから同じ本が僕の家には二冊ある。それがこの本棚にも並んでいた。

 ここに無ければもう探しようはない。実質最後の望みだった。

 頼む、ここにあってくれ。

 そう願いながら僕はその小説本のカバーをめくった。

「…………あった」

 カバーを開いた瞬間、僕は息をすることさえ忘れていた。自然と笑みがこぼれていたかもしれない。

「なんだと」

 ヒロは持っていたお盆を机に置いて僕のそばに駆け寄った。

 僕は本とカバーの間に挟まれた紙を取り出した。紙は三枚。半分に折られていたが他にも折り目はついていた。

 開いて見たがそこに書かれていたのは『今日、寒いね』『寝るの飽きた』『その小説面白い?』といった短い日常会話だけだった。

「それか?探していたのは」

「他にもあるはずだ。手伝って!」

 残しているのがこの三枚だけのはずはない。僕は本棚の端から数冊をごっそり抜き出した。

「分かった。どこから探せばいい?ハードカバーの本だけか?」

「いや、文庫本も。そのコピー用紙と同じ大きさなら二つ折りにすればギリギリ隠せる」

 片っ端から本のカバーを外していくと、文庫本の方からも何枚か出てきた。

 結局この部屋にあった本すべてのカバーを剥ぐのにかなり時間がかかってしまった。

「これで全部か?」

「たぶん」

 見つかった紙の量は結構なものだった。束ねるとそれこそ文庫本の厚さぐらいはあった。

 僕は紙の束となった手紙に手を添えて思った。どうかここに事件につながる内容が書かれているように、と。

「よし、じゃあこれから……」と紙の束を調べようと机の上に広げると、下の階から玄関のドアが乱暴に開けられる音がした。それに続いて騒々しく家の中に複数の人が踏み入ってくる様子が伝わってきた。階段を上がってくる足音も聞こえてくる。

「おい、玄関のカギ閉めたか?」

「……忘れた」

 僕は頭を強めに叩かれると、机に広げたばかりの紙をかき集めて鞄の中にしまった。

「ずらかるぞ」

 ヒロはそう言って僕の襟首を引っ張ると窓の方に近寄った。

「ずらかるって、ここから!?」

「当たり前だ、他にどこがあるんだよ」

「そんな急に、わ!」

 ヒロは僕に有無を言わさず窓から押し出した。足場を確認もできずに空中に放り出された僕は、その一秒後には隣の家の屋根の上に着地していた。誰に向けていいか分からないが自分が猫人であることに感謝した。ほっと一息吐き出すと、僕のすぐそばに乱暴にヒロが着地した。橙色の瓦が数枚、音を立てながら剥がれて落ちた。

「こっちだ。ついてこい」

 僕は屋根の上を走り出したヒロの背中を追った。屋根と屋根の間を軽快に飛び越えていく。

 僕らはヒロとユウの家を後にした。

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