保健室のひとみさん
ひとみさんは基本的に保健室にいる。
「ひとみさん、」
保健室の先生がいないのを見計らって、私はひとみさんに会いに行く。
「おはよう」
「おはよう。ていうかもう昼だけどね」
ひとみさんの涼やかな声が保健室に染み渡って、私はこの空間がやっぱり好きだと再確認する。消毒された混じりけのない空気と、ひとみさんの声。二つが合わさって、とても居心地がいい。
「今日はどうしたの?サボり?」
「ひとみさんじゃあるまいし。ちょっと聞きたいことあって。」
ふうん?とひとみさんは鼻を鳴らす。首をかしげた弾みに肩の辺りの髪が踊って、それは私のひとみさんのさらさらな髪に触れたいという欲望に強く火をつける。
それが保健室の空気を濁してしまわないように気を付けながら、私はあの紙を取り出した。
「これなんだけど、」
カサカサという小さな音も逃さない自分の耳を意識しながら、私はひとみさんが息を呑んでくれるのを待つ。
あなたでしょう?ひとみさん。
「なにそれ。どうしたの?」
ひとみさんは、うろたえたりなんかしなかった。
自分の口が、え、の形で固まる。「ひとみさんじゃ、ないの?」
「なんであたしなの。傷ついてくださいとか、言うわけないし」
「でも、字、ほら、このすっごい綺麗な...」
「えー」と言いながら私の手元を覗きこんだひとみさんは、「ああ、そうだ、ほんとだ、にてる」と言った。
私もそう思った。なめらかな曲線、しぶきのようなはね、律儀なとめ。
「たしかにすっごくにてる。でも、あたしのじゃないよ」
ひとみさんはあくまで否定するつもりだ。そう思っていたら、思わぬ証拠を突きつけられた。
「あたし今日給食時間に来たんだもん。昨日はまだみんなが帰る前に帰ったし」
メモ入れる時間なんかないないない、とひとみさんは手をふる。
「そう...なんだ」
私は手のなかの紙を見つめる。それじゃいったい誰が?意味がわからない。
「あたしじゃなくてゴメンね、なんかあったらいってよ」
うん、と頷いたら、予玲が鳴ってしまった。
「ん、じゃ、ごめん、もういくね」
「はいはーい」
ひとみさんに別れを告げて、私は教室へ走る。走る。
中学三年生にもなると、みんな受験のことで頭がいっぱいで、こんなおかしなことを書かれた紙なんかすぐどうでもよくなる。別に私だって気にしない。こんな紙くず、気にしない。
「..........」
それでも、授業中に何度かはポケットを探って紙の存在を確かめてしまう。くしゃりとしたただの紙が、人肌の体温を保っていることに一人で面白くなっている。
...ひとみさんは、本当は人見真希という。
初めて会ったのも、保健室。同じクラスだというのに、教室では一度も顔を会わせたことがない。というか、うちのクラスには彼女の顔を見たことのない人もいっぱいいるんじゃないだろうか。
ひとみさんは、ずっとずっと前から保健室登校をしていた。どうして教室に来ないのか、わからない。彼女なら、きっとすぐに友達もできたはずだ。
いったほうがいいのはわかってるけど、どうしてもいきたくなくって。
ひとみさんはある日突然話し出した。
なんだろ、いまさら面倒くさいなっていうのとか。だめなんだけど。だから美織とかみんなとか、すごいなっておもう。だからね、すごいんだよ。
みんな、ほんとはすごいんだよ。
真面目な顔で繰り返すからその時は噴き出してしまったけど、あとから思うと、私が今笑っていられるのはやっぱりひとみさんのおかげだと思う。あの言葉のおかげで、繰り返していた吐き気もおさまった。
だから、私にあんな言葉をぶつけてきてくれるのはひとみさんだと思ったのだ。
「 傷ついてください。 」なんて。
なんでだろう。
どうして私だけなんだろう。
女子だけの教室。みんなの汗や体臭が混じったフローラルな香りが、教室全体に充満している。体育後の着替える時間。
ざわざわとした雑音。
学校指定の白い下着。
きっと、私以外にいない。
私だけが______________...
そう、
きっと、
わたしだけ、おかしいんだ。