二章・誰もが想像するが実現はしないこと・1
思わず目をつぶったとき、手の中から本の感触が消えた。直後に、靴越しに伝わっていた床の固い感触も消える。
何が起こったのか。目を開けると、そこは七色の煙が漂う見たこともない空間だった。どう見ても魔術師ギルドの一室ではない。直前まで確かに魔道具で照らされた部屋の中にいたはずなのだ。
ルルはテトを見た。彼もちゃんと横にいる。テトからもルルの姿は見えているようで、ルルと同じように呆然としているのが伝わってくる。
お互いの姿は確かにある。ただ、立っている場所だけが先ほどとは違っていた。靴越しの感触も不確かで、地面に立っているかもあやふやな感じがする。
「状況把握! テト、本物?」
「お? お、おう! ルルこそ本物か?」
「あたしはあたしだよ。で、ここ、どこだろうね?」
「俺が知るかよ……こっちこそ知りたいわ」
状況を把握したいが、どう会話をしたら理解できるのかが分からない。回りを見渡しても手の届くようなところには何もないように見える。うっすらと輝く七色の煙は一体なんなのか。匂いも何もしないけれども、有毒ガスだったりしたら吸っているのはまずい気もしてきた。
「この煙、なにかな」
「なんだろな。煙草とも違うよな。匂いしないし」
テトと二人で首をかしげていると、
『助けて……』
また、声がした。ルルはテトと顔を見合わせ、それから周りをもう一度見回す。声がしたおかげで、自分たち以外の何者かが確実に存在していることが分かったのだ。よく目を凝らすと、七色の煙の奥に、うっすらと光を放つ何かが見える。
「テト」
ルルはその光をまっすぐに指差した。ジェスチャーとしては『行ってきて』である。
「俺かよ」
明確に理解したらしいテトはなんだか嫌そうな顔をしている。わけの分からない空間でわけの分からない光に近付くのは、たとえ命知らずの冒険者でもイヤなのだろう。もっとも、ルルとてテト一人で行かせるつもりはない。
「心配しなくてもちゃんとついていくって。あたしもこんなわけの分からないところで一人になりたくないもん」
彼女の言葉にテトは苦笑し、それでも前に立って歩いてくれた。何があっても即座に対応できるように、腰の剣には油断なく手をかけている。
ちゃんと歩けているのか不安だったが、徐々に光に近付いてはいた。近付くに連れて、光がちかちらと明滅していることに気がついた。あまり強い光ではない。
『助けて……』
三度目の声。光から聞こえているような気もする。七色の煙漂う中、ゆっくりと光に近付き、二人は足を止めた。光自体は白く輝いている。魔術の光かと思ったが、それにしては声がするのはおかしい。光を作り出した魔術師が更に魔術を重ねている可能性もあるのだが。
「誰だ? 助けてって、どういう意味だ?」
テトが油断なく辺りを窺いながら問いかける。魔術師ギルドの中なのだ、イタズラで変な魔術を使う魔術師がいてもおかしくない。
光が返事をするかのように明滅する。
『私を、助けて……』
弱く、呟くように、光は訴えてきた。やはり光から声がしている。確信してルルは光に向かってテトと同じようなことを問いかけた。
「助けてって、どうして? 何から? あなたは誰?」
彼女の問いかけに、弱く声が返る。
『私は“――”遥か昔に書かれた、この本、そこに宿った精霊……』
聞くなり、テトがルルに視線を向けた。受けたルルも同じ心境である。一部聞き取れなかった部分もあったが、そこは問題ではない。
重要なのは、今いる場所だ。光が発した言葉から、想像できた事柄。
「「ひょっとしてここ、本の中!?」」
声を揃えて彼女と彼は光に身を乗り出した。
『はい、そうです……』
微かに答える声をかき消す勢いで、ルルはテトと手を取り合った。今さっきまでしていた警戒も吹き飛んでいる。
「うわぁ、体験してるよ俺たち! 本の中だぞルルっ!」
「本の中だよテト! 嘘みたい! 本の中に入るなんて、幻想絵巻や小説ではありがちだけど、実体験できるなんて!」
「ぃやったー!」
状況を把握するなり困惑を通り越して大感激している。たくさんの本を読んでいるからこそ、展開的にはそこらへんに転がっているような物語だと思うが、実際に体験するとなると話は別である。
しかも、ルルもテトも重度の本マニア。本の中に入るなんて、夢想することはあっても実現することなどないと思っていたので、手を叩きあって喜んだ。
『あの……いいのですか?』
むしろ困惑したのは光のほうらしい。そんなことを訊いてきた。
「え?」
何を訊かれたのかが分からず、ルルは思わず光を見返した。
『前に来た人たちは出してくれと騒いだものですから……いいのですか?』
「あ」
「おお!」
指摘されて始めて気がついた二人である。元の世界に戻る云々より先に喜んでしまった。
「そういえばそうだった。帰れるのか?」
「どうだろ? あれ? 『前に来た人たち』って……ひょっとして魔術師ギルドの人の事?」
「あ、行方不明になった人たちか?」
光が発した『前に来た人たち』という単語に、そういえば密室で行方不明になっている二人がいることを思い出す。もしかして、もしかすると。
『そうです。私が助けを求めました……最初の人は残念な結果になりましたが……』
最初の人。行方不明になって、大ヤケドで見つかり、未だに意識が戻らない魔術師か。その人も、この光に呼ばれて本の中にやってきたのか。
しかし、大ヤケドを負って発見されたのは何故なのか。
「どういうこと? 最初の人はなんで怪我したの? ひょっとして、この本の中ってすごく危険なの?」
助けを求めるくらいだ。何かが起こっているのは間違いないだろう。問題は、その『何か』がルルたちの手に負えるものかどうかだ。テトは冒険者で荒事の経験も豊富だが、ルルはただの古本屋の店員。テトと違って剣も鎧も身に着けてはいない。つけているのは古本屋の制服のエプロンぐらいのものだ。大ヤケドを負うくらいの荒事に向いている、とはとてもじゃないが言えない格好である。
説明を求める彼女の声に、光はちか、ちかりと光って話し始めた。
『この本は、恐ろしい怪物に喰われつつあるのです。怪物の名は『文字喰い』。古い本に取り付いて文字を喰らい、本をボロボロに腐食させてしまうのです。私と一緒に置いてあった本たちは年月で傷んだのではありません。文字喰いに喰われてしまったのです。そうして、今、私の中に文字喰いが巣食っています。私はこのままでは喰われ、ボロボロになってしまうでしょう。そうなれば私に蓄えられた知識が全て消えてしまいます。
私は本の精霊です。人に読まれることを望んでいます。読まれないまま朽ちるのは嫌なのです。それに、私が喰われれば文字喰いは他の本や書物に移ります。ここにはたくさんの書物の気配があります。文字が書かれたものがあるでしょう。文字喰いは嬉々として他に移るはずです。犠牲になるのは私だけではありません。なんとしてでも文字喰いを倒したいのです。そのためには、人の力が必要なのです。私には戦う力がありません。ホンを傷まないように保つ力しかないのです。強い人ならば文字喰いを倒してくれると信じ、呼びかけていました。
お願いです、文字喰いを倒してください。私を、書物たちを助けてください……』
静かに語り、光は明滅している。
「……精霊さん」
ルルは真顔で言い放った。
「ウチの店来ない? 本を傷まないようにする力があるんだよね? あ、うち古本屋なんだけど。お仲間いっぱいいるよ。気が進まないならあたしの部屋でもいいし。うち、本溢れてるから」
「違うだろ!」
テトが声を上げた。
「俺だって欲しい! 俺の泊まってる宿にも来てくれないか!? 量はないけど、質は負けないぞ!」
「え、テトずるい! あたしが先でしょ!」
論点がずれていることに気がついたのは、またしても光に言われてからだった。
『あのぅ……そうではなくて……文字喰いを何とかしていただきたいのですが』
ためらいがちに言われ、そうだった、とルルは頷く。
本を喰らう怪物。そんなものを野放しにしておけない。本を愛し、大切にする者として断固として許すわけにはいかない。いつ『古書の家』が狙われるか、自分たちの本が狙われるか分からないのだ。これから出会うだろう面白い本を狙われるのも困る。
「まかして! テトが頑張るから!」
「俺か!」
「だってあたし戦えないし」
「……だよな。俺だよな」
冒険者でもないルルに、怪物と闘えと言うのは無理な話だと分かっているようで、テトは力ない笑みを浮かべただけで、反論してこなかった。
「応援するから」
「あー、はい。危なくないところで応援しててくれ」
苦笑する彼に笑顔を返しておいて、ルルは光に向き直った。
「そういうわけで協力します。それで、具体的にはどうすればいいの?」
この七色の煙に包まれた空間のどこかに文字喰いがいるのだろうか。
『はい。文字喰いを倒してください。ヤツはこの本のどこかに潜んでいます。何処にいるかまでは私には感知できません。近付けば喰われてしまうのです。ヤツにとって私は邪魔な存在であり、しかも食事と変わりないのです……』
文字喰いの居場所に関しては、精霊に頼れないらしい。説明を聞いてテトは眉を寄せている。
「とにかく文字喰いを倒せばいいのか? そうしたらここから出られる?」
『はい。ですが、気をつけてください。本の中の世界とはいえ、あなたがたは生身の人間です。怪我をしますし、意識をなくしたり、死んでしまったりしたら放り出されます……私はあなたたちの意識を思念で繋いで実体ごとこの世界に繋ぎとめていますから、あなたたちが気を失ったりすると接点がなくなり、問答無用でこの中から放り出されるのです』
「わー、怪我するんだ」
「あー、それでか、最初の魔術師が大ヤケドで見つかったのは」
本の中でケガをして、意識を失ったために放り出されたのだろう。幸い見つかったのが早かったので命の危険はなかったことを思い出した。しかし、未だに意識が戻らないということはよほどのダメージを受けたのか。魔法治療をした後でも意識が戻らないのはよほどだ。うわごとが海産物だったというのが心の底からのナゾだが、それが何らかのトラウマになっていて意識が戻らないのかもしれない。
『それから、もうひとつ。魔術が使えるのなら気をつけてください。本に悪影響を及ぼすような魔術は全て外に放出されます。本を傷ませないように』
「あ、それは問題ない。俺、魔術使えないから。ルルも一般人だし。な?」
「う、うん。問題ない、かな」
ルルは背中に汗を感じながら頷いた。
本マニア、おのれの欲望に正直すぎw