(10) The Long Goodbye
春がめぐり、過ぎてゆき、夏になった。
アスラは留学生試験にパスした。
行き先も決まった。
後は、もろもろの準備を整えるだけだった。
高校生になった令は、予備校の夏期講習に追われていたが、得意科目でさえ難解になってゆく事に、苛立ちを覚えていた。
そんな時、アスラが、一日横浜へ行こうと誘った。
「お互い気晴らしが必要だろ。」
二人は予備校の休み前日の夜に出発し、着いた時は夜明けの夏の海が見えた。
朝の冷たい風に吹かれながら、数人のホームレスが気持ちよさそうに眠る山下公園をぶらぶらし、二人はベンチに座ってジュースを飲んだ。
「いいとこだな。」
「ああ、まあひでえ所もあるけどな。
ここは海があるから、だまくらかしてくれる。」
「それって…向こうへ行く夢が見られるって事?」
「そうそう、そうなんだろうな。」
「夢は実現するじゃん。」
「お前に会わなけりゃ、そうはならなかった。
それに、夢は悪夢になるかもしれねえんだ。」
「だとしても…」
令はいったん言葉を切ってアスラの顔を見た。
「向こうへ行くってのは、たいしたことだよ。」
それから二人は立ち上がり、アスラの育った街、横浜の中の悪所とも言うべき無国籍地帯を歩いた。
朝の街はどこか間延びしていて、寝ぼけたすっぴんの娼婦のような顔を見せていた。
悪所にも、朝日はまんべんなく平等に光をさしのべていた。
二人の少年を胡散臭そうに見つめる老婆がいる。
どんな人生を送ってきたのだろう−ふと令は、自分が今歩いているこの街が、この世ならぬ場所であるかのような、不思議な感覚におそわれた。
「なんか、サイレントヒルって感じだな。」
「なるほど。
そういや俺、こんな時間に来たことなんてなかった。昔、このあたりは激安ヘロイン街だったらしいぜ。」
「そんな感じだね。」
街を通り抜けると、二人はアスラの好きだったという場所を巡り歩き、シーバスに乗り、潮風に吹かれた。昼は中華街で点心類を書い、関帝廟のそばのベンチでぱくついた。
ここでも、中国人の老婆に睨まれたが、二人はにっこりしながら、
「We,the jury」
と言い、老婆にむかって拳銃を撃つ真似をした。
老婆は、紅衛兵の悪夢が再来したとでも思ったのか、こぶしを振り上げて、やにわに中国語でわめき始めたので、二人は笑いこけながら走って逃げた。
大阪へ戻ってからは、お互いに忙しく、ゆっくり会う時間も取れないまま、とうとうアスラの出発の日がやって来た。
令は、空港まで見送りに行った。
空港では、アスラの母親と祖母が、泣き笑いのような顔をして、そわそわと落ち着きなくあたりを動き回っては、アスラに身の回りに気をつけろとか忘れ物はないかとか言い続けていた。令をみとめると、アスラは救われたような顔で、
「よう」
と軽く片手をあげた。
令も、片手をあげ、大人達には一応礼儀正しく挨拶した。
今日、令はアスラに、何か言うべき事があるような気がしていたが、それが何なのか、どうしてもわからなかった。
しかし、アスラは言った。
「医学ならアメリカだ。」令は、くすくす笑った。
「医学部、入れるかどうかわかんないよ。
自信ない。」
「お前なら大丈夫だ。
きっと来る。」
「長くかかるぜ。」
「かまわねえよ。
俺、待ってるから。」
「わかった。
今度は、俺がお前を見つけに行くよ。」
時間が迫っていた。
機内持ち込みの、使い慣れたリュックをひょいと肩にかけると、少しだけ唇を歪ませたアスラと令の視線が交錯した。
次の瞬間、二人は同時に背を向け、それぞれの行き先に向かって歩き出した。
―END―
This novel was inspired by the Smiths “The boy with a thorn in his side”.