舞踊
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気がつくと私は、“感覚”を獲得していた。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、平均覚などといったモノが自分に宿っていることを、前触れもなく突然自覚したのだ。
それはすなわち、「私は自分が肉体をもっている」という事に、たった今気が付いたというのと同義であった。
どうやら視覚情報は粘膜で覆われた球状の二つの器官が捉えた光をもとに処理されているようだった。(この器官はとてもデリケートで、直に触ろうとすると、反射的に上部の皮膚が下がって保護するようになっていた)
この二つの“眼球”がついている頭部前方をやや地面の方に向けると、胴体から四本の肢体が突き出しているのが見えた。その肢体のうちの二本は底部で地面に接し、自身の体重を支えているようであった。 また、余ったもう二本の上肢は、胴体の上の方からぶら下がっていて、比較的自由に動かせた。
この“腕”という肢体は細長く弱々しいが、先端の、五本に分かれている末梢部分にいたるまで、きめ細かく神経が通っているらしく、各関節の角度を調整することで、変幻自在に動かすことができた。
私はしばらくこの“腕”を動かして、様々なポーズをとってみたりしたが、やがてそれに飽きると、今度は下肢の方をもう少し詳しく調べてみることにした。
上肢に比べ、下肢はさほど繊細な動きはできないようであったが、そのかわり、体重を支えるために、それなりに太く、力強く発達しているようであった。
また、驚くべきことに、この長い両下肢(“足”というらしい)は、二本を交互に踏み出すだけで、効率的に移動することができるようであった。
歩みを踏み出す際には、片方の足だけで立つことになるはずだが、決してバランスを崩すことはない。神経が自然と姿勢を整えるようだった。
私はしばらくの間、この“足”による自在な移動を、行ったり来たり、飛んだり跳ねたり、走ったりして、夢中になって試していた。
やがて体重の移動はリズミカルに、様々な緩急を伴うようになっていった。初めはバランスをとる為に動いているにすぎなかった両腕の動きも、いつしかテクニカルなものになった。力強いステップを踏み、しなやかに姿勢を反らす。
私のこの動きは、言語的な思考とは別の領域から自然と生みだされたモノらしかった。
この躍動を、敢えて言語化して表現するならば、“舞踊”というのが適切だろうか。
そうだ、私は、肉体礼賛の“舞踊”を舞っている。心地よい、生命の奔流を全身に漲らせているのだ――!
見慣れた自分の部屋で目を覚ました私は、学校に行く支度をしながら、今朝方みた夢について考えていた。
意識の変性状態が見せた幻影にしては妙に生々しかった。
あの舞踊の中で感じた、異様な熱狂――。
あれは奇妙な感覚であったが、決して悪い心地ではなかった。
どうしてあんな夢を見たのか、などと考えてみるつもりはなかった。どうせ素人のやる夢分析に大した意味はないだろうから。
ただ、夢から覚めた私が、結果的にガラにもなく「私の肉体はいつか老い、朽ちて失われるが、その時までこの肉体は私のものだ」等とでもいうような、そんな微妙に大仰で、かつ当たり前のことを再確認したような気分になったのは事実だ。
私は“よく動く上肢”をつかってカバンに参考書を入れると、“長い両下肢”を交互に踏み出して部屋を出て、駅へと向かった。
終