第4章 再び -8-
所長を倒し、二人は安堵のため息をつく。
まだ死んではいないだろう。流石所長と言うべきか、寸前でプラズマを生み出して彼は放電の一部を受け流していた。それでも、側撃雷や受け流しきれなかった分でも相当なダメージを負ったことは間違いないだろうが。
「これから、どうするわけ?」
柊の問いに、東城は答えなかった。
生かしておくことは出来ないだろう。彼をこのままにすれば、いずれ同じ過ちを繰り返す。
だが、法の裁きを得ようとすれば九千の能力者の存在は白日のもとに晒され、全ての生活を奪われる。その先に待つものが迫害である可能性も、全く否定できない。
そう悩んでいるときだった。
「――ッソがァ……ッ」
「なっ!?」
目の前で、所長が目を開いたのだ。
東城も柊も驚くしかなかった。今の一撃を受けて意識を保っているなど、あり得ない。
「……凄まじい執念ね」
そう呟く柊だが、もうほとんど警戒はしていない。
ぐっと地面を握り締めるようにして立ち上がろうとする所長。だが、もう立ち上がる力など残っていないのか、無様にまた潰れるように倒れた。
「まだ、戦える……ッ! テメェらを八つ裂きにするまで、オレは止まらねェ……ッ!」
「無理よ」
柊は所長に目線を合わせることなく言った。
「アンタが起こしたのは、フリーズじゃない。アンタの脳に埋め込まれたマイクロチップは、今の電撃で破壊されたはずよ。もうアンタは二度と戦えない」
「――……クソガキがァ……ッ!」
圧倒的な敗北感。
絶対的な劣等感。
それを感じた所長の顔が歪み、そして憎悪をぶちまける。
「ざけンじゃねェ! これで終わらせて堪るかよォオオオ!!」
所長は、ただ叫んでいた。
まだ彼は諦めていない。
全てを失い、復讐すらも奪われて、それでも所長は叫び続けていた。ここで彼を生かしておけば、いずれ彼はまた東城たちを傷つけるだろう。
彼はそこまで、堕ちてしまっている。
「……どうするの、大輝」
東城も分かっているのだ。
彼を殺す以外に、この復讐の連鎖を終わらせられないことを。
「大輝」
「……、」
答えず、それでも東城は柊の肩を掴んで下がらせた。
終わらせるしかない。
ここで終わらせなければ、それは全てを台無しにすることだ。
東城は押し黙ったまま所長へ歩み寄る。
そして所長の前に立ち、手をかざす。
ここで焼き払えばそれで終わる。能力を失っている以上、彼は何の抵抗も出来ずに死ぬ。
終わりなのだ。ここで彼を殺せば、全てを終わらせることが出来るのだ。
「……っ!」
なのに、それが出来なかった。
手が震える。
目の前で東城を睨むその顔に、身が竦んでしまう。
こうして真正面で、こうして自らに余裕がある状態で、相手の命を奪うというその行為を冷静に見てしまえば、知ってしまう。
それは、どうしようもなく恐ろしいことだった。
一人で奈落の底に落ちるような、そんな絶望にも似た恐怖だった。
(やれ。やらなきゃ何にも終わらないんだ……っ)
必死に言い聞かせる。だが、左腕に滾る炎は彼の腕から離れようとはしない。
「――いいんですよ、東城先輩」
そんな声と共に、東城の手に誰かの手が重なった。驚くより先にそれに促されるままに東城は腕を下げ、炎は消えた。
そして東城は彼を見る。
目の前にいるのは、先程まで傍にいた柊ではない。
背は小さく幼い、だがしかし東城よりもずっと大人な少年だ。カッターシャツにサマーベスト、濃紺のスラックスに身を包む姿は、どこまでも懐かしいただ一人の少年のものだった。
「――かん、べ……?」
そこにいたのは、神戸拓海だった。
かつて東城たちに牙を剥き、研究を完全に終わらせる為、そして、罪を償うために自分を犠牲にしようとした少年だ。
「はい。神戸拓海です」
神戸は少し微笑んでいた。
「どうして、ここに……」
「七瀬先輩に教えてもらいました。僕にしか、出来ないことがありますから」
神戸は口調も挙動も、どこまでも普通だった。ふた月前、東城たちに牙を剥いたときとも、その前の偽りの仮面をかぶっていたときとも違う。――何かが変化し、だからこそ、彼は普通になれたのだろうか。
「いったい、今までどこをほっつき歩いていたわけ?」
唐突な来訪者に、柊は疑念を抱かずにはいられなかったはずだ。だがそれでもその声は突然姿を消した仲間に向ける、優しさと叱責が混じったものだった。
「僕はこの二カ月、五千人いた研究員のところをひたすら回ってきました。僕の前に償うべき罪を持っている人が色々いましたから。彼らに相応の報いを――もちろん、そこまで酷いことはしてませんよ。ただ、酷く後悔させたるだけの精神的苦痛を与えただけですが」
神戸は平然とそう言った。彼がどれほどの深い世界の闇を知っているのか、東城には想像すら出来ない。
「……それは終わったのか?」
「いいえ、と答えざるをえませんね。実は、まだ研究は終わってないんですよ。この研究を根や幹に、いくつかの花が開き始めている。僕はそれを一つ一つ枯らしている途中ですがそろそろ大きなものが出来始めているんですけど――それは置いておくとしましょう」
神戸はそう言って、所長に向き直った。
「さて。お久しぶりですね、黒羽根所長」
「何の用だァ……ッ!」
所長は歯を食いしばっていた。今から起きることを、聡明な彼は既に理解しているのかもしれない。
「分かっているでしょう? 僕はあなたを嫌悪し、侮蔑し、憎悪する。――このまま東城先輩に終わらせられたら、僕としては堪ったもんじゃないんですよ」
神戸の瞳が真っ黒になる。あらゆる光が消え失せていた。
彼の漆黒の瞳は、まるで世界の闇そのものだった。
「……復讐、する気か」
神戸の肩を掴んで、東城は言う。
「……だとしたら東城先輩は止めるでしょう?」
「当たり前だ……っ」
たとえふた月前に殺されそうになったといえども、たとえ彼に奪われた記憶が二度と戻らないといえども、それでも神戸拓海は東城の仲間なのだ。
彼がそんな闇に堕ちるのを、黙って見過ごせはしない。
「なのにわざわざ先輩の前に姿を現すはずがないじゃないですか。僕はただ、先輩にこんな不要な重荷を背負ってほしくないだけですよ」
神戸はそう言って、真っ直ぐに東城を見据えていた。
その瞳はさっきまでの絶望にも似た黒さはなく、明るい光をほんの僅かでも残していた。
「所長の護ろうとしてきた人がいます。そして、彼女にとって所長はただ一人信頼できる人間であり、家族なんですよ。その人から先輩みたいなヒーローが所長を奪っちゃいけない」
「だったら、どうしろって言う気だ……っ」
そんなこと、東城だって知っている。知っていて、それでもなお所長をこのままにしておくことは絶対に出来ないのだ。
誰かがその恨みを買わなければいけないのだ。それ以外に、道など残っていないはずだ。
「あるんですよ。たった一つ。僕にしか出来ず、ただ一つの何よりも大切なものを奪うだけで、命も何もかもを守って全てを終わりに導ける、最高の手段が」
神戸は東城の手を払い、ゆっくりと所長に近づいた。
一歩一歩の歩幅はずっと一定で、決して淀むことはない。まるで機械のようだった。
「それに何も奪わずに終わらせるなんて方法だけは許せませんから。僕の全てを否定するあの研究を行った所長には、僕にある罪と同等のそれを償ってもらわないといけませんよ」
「テメェ、まさか……ッ!」
所長が目を剥いたが、神戸は素知らぬ顔だ。
「僕の能力は細胞を生み出し操ること。僕にとってあらゆる生物は書き換え可能な情報の塊でしかない」
そうして、神戸はにっこりと微笑んだ。真っ黒な笑みで、彼の最期を讃えるように。
「一年前、僕は僕の罪を洗い流す為に、たった二人の大切な仲間に自らを殺害して貰う為に、一つのとても残忍な方法を編み出しました。脳の回路を読み解いて、記憶を掌握する部分を緻密に造り変える――すなわち、記憶の強制的な喪失です」
つまり、神戸は東城に行ったことと同じことをしようというのだ。
全ての記憶を消すことで、彼から戦う理由そのものを奪い去ろうというのだ。
「クソがァ!!」
所長が叫ぶが彼は既に死に体だ。反撃はおろか逃げることも出来はしない。
「待てよ」
東城は所長に触れようとする神戸の肩を乱暴に掴んで止めた。
「何ですか」
所長は微笑みも何もかもを鎖した表情で、東城を射るように見つめていた。
「……お前は、それが正解だと思ってるのか」
「思ってるように見えるんですか?」
神戸のその声は、絞り出すようなものだった。
「でもこうしないと終わらないじゃないですか」
「それ以外の道だって――」
「じゃあ先輩は、納得できるんですか。ここまで柊先輩を傷つけ利用した男を、僕を追い詰めて先輩から記憶を奪わせたこの男を、改心させました、なんて言葉だけで見逃すつもりなんですか」
それは、痛烈な言葉だった。
分かっている。結局、こんな終わり方以外を自分は望めないのだ。
誰かがその道に堕ちることを、東城は認められない。だが誰もそれをせずに全てが丸く収まるなんてことを夢見られるほど、東城は子供でもない。
東城がどんな題目を並べたところで、それは彼の本心ですらないのだ。
「いつも先輩が言ってるでしょう? これで全部終わりだ、って。――本当に終わらせたいのなら、それなりの覚悟がいるんですよ。自分が決めた悪を滅する為に、その人間から全てを奪うという覚悟が」
神戸の言葉は、重く東城に響いた。
「でも僕はその役目をずっと先輩に押し付けてきた。だから、これからは少しでも僕がしなきゃいけないんですよ」
「……そんなことをして、お前は大丈夫なのか」
まだ東城は所長に手を下してすらいない。だというのに、その掌はじっとりと汗に濡れ、今でも膝が震えていた。
こんなにも重いものを、彼は一人で背負おうというのだ。
「大丈夫ですよ。そういうのはもう九千も背負ってきたんですから」
神戸は曖昧な笑みを浮かべた。その笑みはあまりにも痛々しかった。けれどもう、東城には何も言えなかった。
「……終わりにしましょう」
そして神戸は東城の手をするりと抜けて、所長の横で跪いてその額に手を当てた。
「――ッソガキどもがァ! テメェらだけは俺がこの手でブチ殺すぞォ! たとえ記憶がなくなろォが体が消し飛ぼォが、絶対に殺す! 何年かけようがテメェらだけはブチ殺してやる!」
所長は叫ぶ。だがその声は、空しく瓦礫の山を超えていくだけだった。
「無理ですよ」
底を感じさせないほど冷たい声で、彼は宣告する。
「あなたの思い出は、あなたをその復讐に駆り立てるその大切な記憶は、この瞬間に消えてしまうんですから」
神戸は嗤う。三日月のように口を吊り上げて、どこまでも嗜虐的で残虐な笑みを浮かべて。
「さようなら、黒羽根所長。あなたには相応の報いを」
そうして、全ては鎖される。
二十年に及ぶ研究も、所長の復讐劇も。
何もかもが、幕を下ろした。




