第3章 遠き理想 -8-
「――さて、では仕切り直しといきましょうか」
七瀬は水のランスの調子を試すように一度空を切った。
「き、きみはアルカナだよね……」
「えぇ。現状で最もレベルSに近い、波涛ノ監視者の七瀬七海ですわ。以後お見知りおきを、磁界ノ臣民」
七瀬は自慢げになることもなくそんな自己紹介をして、にっこりと笑う。
「ところで。貴方は今、大輝様に牙を向ける事を選びましたわね?」
「そ、それは――」
「ならばわたくしは、貴方を打ち負かすと致しますわね。大輝様を傷つける者を、わたくしは誰一人として許しませんから」
先程から揺らがない七瀬の笑み。だが、それは客観的に見ても真っ黒な何かに染められているように感じただろう。
「でも、ぼくだって好きでやったんじゃない」
「あら。そうですか。――それで? だから許されると? 大輝様が誰よりも大切に想う人物を連れ去る事が、自分の意志じゃないからと言って許されると? まったく、めでたい頭ですわね」
七瀬は笑い飛ばす。
「許す、許さないというのは貴方の事情ではなく、当人が勝手な裁量で決めるものですわ。ですからわたくしは、貴方を絶対に許しません」
おぞましい殺気を七瀬は放つ。それはふた月前に東城に向けたそれのように、どこまでも重く鋭いものだ。
「待、てよ……。そいつは、俺の敵だ……っ」
青葉が、呻くような声で七瀬を止める。――だがそれは、決して下野の身を案じた為のものではない。自らのプライドを誇示する為の醜い抵抗だ。
「あら。弱い犬程とは良く言いますが、貴方も随分と吠えますのね」
七瀬は嘲るように青葉を見下ろした。
「何だと……っ」
「そうでしょう? そうやって磁界ノ臣民に敗北しておきながら、それでもなお戦えるなどと意味の無い虚勢を張って、それが弱さ以外の何だと言うのですか?」
ずばり、と七瀬は言い当ててしまう。全く反論の余地もなく、完璧なる正論だけで青葉の胸の内を抉り取る。
「……前から思ってたけど、お前は嫌な奴だな……」
「あら。それは誉め言葉ですか?」
七瀬は青葉の嫌味を全く気にすることなく適当な笑みで返す。
「まぁ大方、大輝様と自分の差を改めて見せつけられて、些か以上に焦っている、と言った所でしょうか。今少しでも彼の背中に追い付けなければ、もう二度と戦えないとでも思っているのでしょう?」
「……っ」
「無駄ですわよ」
七瀬は、たった一言で切り捨てた。
「貴方はもう戦えない。それはもう事実ですわ。ここで貴方のプライドの為に貴方を見殺しにすれば、わたくしは大輝様にはおろか柊美里にも合わせる顔がありませんわ」
覆せない、言い訳すら出来ない現実を、七瀬はただ突きつける。
「――ちくしょう……っ!」
青葉はそう呟いて、地面を殴りつけた。
何度も、何度も、何度も。
「……また、なんだよ……っ。また、俺じゃダメだったんだ。美里を守るのは俺じゃない。あいつだ、大輝だよ! そんなの分かってんだ! 分かってて、それでも認められねぇんだ!」
拳の皮が裂け、血が飛び散る。溢れ出る涙が、その血を滲ませていく。
それでも、青葉は叫ぶことをやめられなかった。
「くそ! 何で俺じゃダメなんだよ! 俺だって何もしなかったわけじゃないんだ! この一年間、大輝がいなくてもあいつの代わりになれるくらい研究所の中で必死に頑張ったんだ! 何で、どうして俺はこんなに弱いんだ!!」
腹の底から、叫ぶ。
醜く無様だと知りながらも、それでも全ての感情を吐き出さなければ、とてもじゃないが青葉の心は耐えられなかった。
「……言いたい事は、それだけですか?」
そしてそれを、七瀬はただ無表情で見ていた。
同情するのでも憐れむのでもない。嘲るわけでも嫌悪するのでもない。
「理解しているのなら上等ですわね。貴方と大輝様では格が違う。貴方がどれほど足掻こうと、大輝様のようになる事は絶対に出来ません」
「お前……っ!」
青葉の睨みに応えるように、七瀬はまだ言葉を紡いだ。
「…………ですが、それを知りながら、分かっていながら、それでもそうありたいと願う気持ちを、わたくしは知っています」
呟くような声だった。
「わたくしでは柊美里の代わりにはなり得ません。どれほどわたくしが彼に勝利を捧げようとも、どれほど彼を愛していようとも、大輝様の横に立てるのは過去も今も、そしておそらく未来も、柊美里ただ一人なのでしょう。大輝様が見ているのはわたくしではありませんもの」
七瀬は言いながら、両の手に生み出した水のランスを振り下ろし、構えた。その姿には一片の迷いすら感じられない、完璧な覚悟が宿っていた。
「ですから、貴方の御覧に入れて差し上げましょう」
七瀬は青葉を見ることなくただ前を見据えていた。
「いつまでもあの御方の傍にいる為に。いつかわたくしに振り向いていただく為に。その為だけに戦う乙女の姿を」
儚く壊れそうな笑みを携えて、それでも、彼女は揺らぐことなく立っていた。
「わたくしは弱い。肝心な勝負に参加する事は今まで一度もありません。ですが、大輝様が柊美里を護りたいと願っているのなら――」
右手のランスを眼前の敵に突き付け、七瀬は宣言する。
「あの方のそんな些細で大切な望みを、わたくしは護り抜いてみせますわ」
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