第1章 焼失の先へ -5-
紅蓮の業火の中で東城の言葉を聞いた七瀬は、呆れ返ったように嘆息していた。
「随分な物言いですわね。貴方はご自身の立場を分かっておられるのですか? 貴方が今踏み入れたこの超能力は、そのようなちっぽけな優しさなど呑み込み、貴方の持つ全ての善意を食い潰してしまいますわよ」
「……そういうのが、一番ムカつくんだよ」
東城の体から立ち昇る業火が、声に呼応するように唸りを上げる。
「自分のいる世界が特別? 人を殺すのが必要悪? ふざけんな」
東城の熱を持った眼光が、七瀬の揺らいだ瞳を射抜く。
「テメェにも譲れないモノがあるのは分かる。だからって、それが柊を殺していい理由になんかならねぇよ。絶対にだ」
東城の覚悟など、七瀬からすれば甘ったるいものだろう。それは血の味を知らぬ者の思想だと、東城自身も気付いている。
きっと嘲りの混じった笑いが返ってくるものだと思っていた。
だが予想に反して、彼女はそうしなかった。
「分かりましたわ。ならば貴方の思想が潰える様をご覧にいれましょう。誰も殺さず自身も死にたくないなど、わたくし達の想いを踏み躙る愚行だという事を思い知らせて差し上げますわ」
七瀬の瞳に、何かが滾るように宿る。
「貴方はここで、わたくしが殺す」
誇り高き騎士のような口上と共に、七瀬は水のランスを生み出し東城に猛然と突進した。
そのあまりの速度に頭の処理が追い付かず、とにかく反射的に爆発で弾きながら、東城はもう一度間合いを取り直す。
額から流れた汗が頬を伝って、地面に落ちる。
能力を扱えるようになったおかげで一方的に殺される事は無くなったが、所詮はその程度の話だ。能力とは扱う物。ましてそれを扱うのは自分自身に変わりはない。その場の判断も躱す動きも、全て東城に依存する。
「見た所、動きが鈍いですわね。対処法は正確無比であるのに、躊躇いを感じますわ。貴方に蓄積された経験は確かに貴方の体に生きているのでしょうが、それを動かす貴方の脳はその事を覚えていない様子ですわね」
「だから何なんだ」
「致命的だと申しているのです。戦闘とは単に能力の差では決まりませんわ。レベルAがレベルSに勝てた事がそれを証明しているでしょう?」
七瀬の言う通りだ。単純なレベル差で勝負がつくのなら、柊が負ける事はあり得ない。だが現に柊は負けている。つまりは、そういう事なのだ。
「貴方は最強の能力を保有しながらも、その脆弱な記憶によって――」
「だから、それが何だ」
恐ろしく低い声と共に、東城の右腕に猛る炎が渦を巻く。それを見てかそれとも東城の声を聞いてか、七瀬が肩をびくりと震わせていた。
「確かに記憶もねぇしそんな俺が勝てるとも思わねぇ。でもな、柊を傷つけるような事だけは絶対にさせねぇ」
「いいでしょう。美学を語るだけでは何も変わらないという事を、教えて差し上げますわ」
二人の覚悟の籠った視線が交差する。
それと同時に投擲された水のランスを、東城は爆風を生み出して逸らす。
まるでそれが合図だったかのように、二人が同時に突進した。
新たに生み出された水のランスが、東城の喉笛に目掛けて突き出された。
東城にはそれを見てから避ける暇はない。七瀬の視線と手の動き、そして音と気配だけで方向を察知して、ギリギリで身を捩る事でどうにか躱した。
しかし。
渦巻く水にシャツをからめ捕られ、吸い寄せられる。
そして一瞬の硬直の間に、更に生み出された二本目のランスが東城に迫っていた。
東城は右目だけで迫る水のランスを捉えたが、体は動かない。躱せない。
「終わりですわ」
その鋭利な先端は迷い無く突き出される。
ぶしゅっと、果実を踏み潰したような音が聞こえた。
東城の体を水のランスが貫いた、のではない。
水のランスそのものが形を失ったのだ。
「な――ッ!?」
七瀬は言葉を失った。
この距離で、刹那と呼ぶべきこの僅かな時間に、これほどの量の水を、東城は全て無効化した。ただし、水蒸気爆発は起きていない。蒸発させるのではなく、そのほとんどがただの水となって七瀬の支配から零れ落ちたのだ。
ただ驚愕の色を浮かべる七瀬に、少しため息交じりの声で東城は語った。
「爆発させてもたぶん俺は大丈夫だったんだろうけどな。能力者が全員なのかどっかのレベルからなのかは知らねぇけど、テメェや柊は自分の能力の余波くらいはほとんど無意識に打ち消せるみたいだし。なら爆発を操れる俺に水蒸気爆発は効かないだろ」
「ですが、実際は爆発など起きて……」
「炎の壁は俺の支配下にあるからどんな衝撃があっても揺らぎはしねぇだろうけど、それでも音はするからな。柊を無駄に心配させちまう」
東城は平然と言ってのける。だが、自分の命も危ないギリギリの状況で他者を思いやるなど、正気の沙汰ではない。
「だから俺は水のランスを糸みたいに細いプラズマで切り裂いた。見る限りテメェは水を固めるんじゃなくて流れで押し留めてるみたいだし、その流れを切り離せば無効化できる。ある程度は蒸発するだろうけど、大した量にはならねぇから爆発は起きねぇ」
七瀬に突き付けたその事実はつまり、七瀬の能力は全て無意味だという事だ。あらゆる物を焼き尽くす東城の前ではただの水など意味を成さないと、そう告げていた。
「……認めませんわ」
うつむいて、七瀬は呟いていた。
「認めません。そのような事実を、わたくしは認めません」
七瀬の手に、もう一度水のランスが生み出される。
彼女の言葉はまるで幼い子供の駄々のようであった。
七瀬は確かに有利に立っていた。東城は超能力の性質など欠片も知らないのだから、能力値の優位を差し引いても圧倒的に彼の方が不利に決まっている。
だというのに、東城は無傷で七瀬の全てを無効化してみせた。
有利不利など容易く覆せるだけの何かを、東城は持っていたのだ。
それほどの格の差を見せつけられて、それでも戦い続ける為に、七瀬はその事実から目を背けるしかなかったのだろう。
「お前が認めなくても、もうお前の能力は効かねぇ。だからこれ以上、お前に誰も殺させはしない」
「誰も殺させない……? では貴方は、わたくし達に自由を諦めろと仰るのですか?」
七瀬の握る水のランスが、微かに震えていた。それは注意しなければ分からないほどに微かで、しかしそれは大切なサインでもあった。
「常に自由を手に入れている貴方に、わたくし達の想いが分かるとでも仰るのですか? 人を殺さねば自由すら手に入れられない、そんなわたくし達の想いが」
七瀬が地面を蹴って、東城に水のランスを叩きつける。だが、それすら東城のプラズマが切り裂き無力化する。
「わたくし達に与えられている自由は月に一度のみなのですわよ? たったそれだけの自由しか与えられず、そして逃げ出そうという思考はいつしか月に一度の自由の日は何をしようかという思考に変わっていく! そんな恐怖が、貴方に分かるのですか!?」
七瀬がまた間合いを詰めて、水のランスを振り下ろす。
彼女は東城を殺す為だけに、自由を得る為だけに、その仮初とはいえ貴重な自由を捨てていた。そんな覚悟など、既に自由を得てしまった東城に分かるはずもない。
「分かんねぇさ……ッ。だから、俺がまた救うんだ!」
それを躱して、東城は怒鳴りつける。だがその程度で七瀬が怯むはずもない。
「わたくし達を救う……っ? ふざけた事を。全て貴方のせいでしょう? 貴方が一年前のあの日、本当に全てを成功させていたなら! わたくしも、他の能力者も! こんな苦悩を抱える事など無かったのに!」
迫りくる七瀬の攻撃の全てを、東城は破壊し無力化する。
もはや七瀬の攻撃に意味はない。普通なら一度策を練り直すべきところだ。だが、怒りで頭がいっぱいになってしまった七瀬はそれをしない。いや、出来なかった。
「彼女をこれ以上傷つけさせない? はっ、立派な覚悟ですわね。ですが、ならどうして貴方はあの時わたくし達を守れなかったのですか! 記憶が無くとも彼女を守れるのなら、あの時の貴方ならたった九千人の自由くらい、完全に守れたはずでしょう!!」
大人しい言葉遣いとは裏腹に喉が裂けそうなほど叫び、七瀬は東城をひたすらにそのランスを振るい続けた。
その結果は、惨いものだ。
東城の能力によって熱せられた水が、彼女自身の手を焼いている。東城からでも、ただれた掌が見えてしまうほどだ。
とっさに東城は跳び退って、彼女を傷つける防御という選択捨て去ってしまう。
「もうやめろ! それ以上やってもお前に――」
「黙りなさいな! 貴方が守ってくれないから! だからわたくしがやるのでしょう! たとえ自由の日の全てを食い潰してでも貴方を殺し、貴方の取りこぼした自由を手に入れる! その為の覚悟は、とうに出来ていますわ!!」
そう叫んだ時だった。
散々ランスを振りまわし続けた七瀬の身体が、ぴたりと停止したのだ。
「――っうぁぁああああ!!」
頭を抱えて、七瀬が絶叫する。それと同時、彼女の手から水のランスが零れ落ち、彼女を囲むようにして増殖し、その刃で辺りを見境なく切り刻み始める。
尋常ではない苦しみ方だった。その上、七瀬の能力で生み出されたはずの水は、彼女自身すら切り裂き始めていた。
「な、んだ……。どうなって――」
「クラッシュ、ですわよ……っ!」
その身を引き裂かれながら、それでも七瀬は戦う意思を見せる。
「フリーズを堪える、高出力で能力を使用し続ける、様々な要因で脳にかかった負荷が一定値を超えたときに起こる能力の暴走……。ですが、好都合ですわ……っ」
片目を固く閉じなければ耐えられないような脳や全身の痛みを堪えて、それでも七瀬は笑っていた。
「クラッシュの状態は、わたくしですら制御できないほどの力が放出される……。つまり、この状態ならば貴方を殺す事も不可能ではありませんわ……っ」
「ふざけんな! そんな状態でこれ以上戦おうなんて――」
「どれほどの傷を負おうと! たとえ死んだとしても! わたくしは自由を掴まねばなりませんわ!!」
七瀬の頭上に、凄まじい爆音が響き始める。
見れば、直径十メートルほどの渦潮が、そのランスのようにとがった先端を七瀬に狙いを定め始めている。
このままではこの重量で押しつぶされるが、避けたとしても弾けた水の刃が全身を切り刻むだろう。つまり、逃れる手立てはどこにも無い。
命を引き換えにした、彼女の正真正銘の最期の力なのだ。
「――ざ、けんなよ……っ」
歯を食いしばり、東城は爪が食い込むほど拳を握り締める。
「そんな事をして手に入れた自由を、他の能力者は喜ぶのかよ!」
「元々は貴方が取りこぼしたせいでしょう! 今さら偉そうな説教をしないで下さいな!」
七瀬を囲む渦が、東城の身を切り裂く。
どばっ、と血が吹き出る。
それでも、東城は倒れなかった。よろよろと頼りない足取りで、しかし、東城はまだ立ち続ける。
「だったら、また取り戻してやるよ……っ。俺は最強なんだろ。だったら、欲しいものは何でも掴んでやる」
唸りを上げて、業火が猛る。
「俺は研究所を焼き尽くす」
それは七瀬の覚悟を薙ぎ払う、壮絶な台詞だった。
不可能かどうかを論じるまでも無い。七瀬も柊をその選択をしていないという事から考えれば、それは到底できない事に決まっている。
だが、彼は異例だ。
不可能という概念すら灰に帰すような、そんな常軌を逸した能力者だ。
「――ッ! 研究所を潰すなんて真似が出来るのならとっくにそうしていますわ! 出来ないから、わたくしはここに立っているのです! 霹靂ノ女帝でさえただ貴方を守る事しか出来ないでいるというのに! かつてそれに失敗したから貴方は記憶を失くしているのでしょう!」
目の前の少年の言葉に、七瀬はただ否定する事しかできない。
あり得ないと、不可能だと、そう断じる事しかできない。もしそれがあり得てしまうのなら、それは自身の覚悟の全てを否定する事になる。
まだ少女であったとしても、その覚悟に命を懸けた以上その根底を譲ってはいけない。戦うとは、命を懸けるとは、そういう事だ。
「わたくし達はもう二度と貴方を信じない! わたくし達が自由を手に入れる為には、貴方を殺す道以外ありはしない!」
だから戦う。自身の覚悟を、尊厳を守る為に。
「……何でそんな道しか選べねぇんだよ」
ぎりっと、東城は歯を食いしばる。
「お前は神戸をあんなに痛めつけて、血まみれになった柊をまだ殺そうとして、それでもこの道しかないと本気で思ってんのかよ。ふざけんじゃねぇぞ」
東城の全身から紅蓮の劫火が逆巻いていた。
「逃げんじゃねぇよ。もう一度だけでいいんだ。俺を信じろ!」
「わたくしは、貴方を殺さなければ――っ!!」
心をかき乱されたせいで、僅かに残っていた能力の制御の糸が切れた。
制御不可能になった能力の奔流が、七瀬自信を容赦なく切り裂き始める。頭上の水も、徐々に降下し始めている。
「っつ、ぁぁぁああ!!」
このままでは、東城を殺すことすらままならず彼女は死んでしまう。
そんな事が、あっていいのか。
ただ自由を得る為だけにその身を犠牲にしてきた少女が、何も得ることなく死んでいくなど、そんな理不尽、認められるはずが無い。
「――もう嫌なんだよ! 誰かが傷付くとか何かを失うとか! あんな辛い顔、見たくねぇんだよ!」
柊が時折見せた、あの辛そうな顔。自分の知る東城ではないことに痛む心を必死に隠そうとしたあの顔が、東城の胸を締め付ける。
もう、止まる気はなかった。
ここで、もう一度、東城は誰かを救う。
そうして初めて、彼は本当に取り戻す事が出来るのだ。
「手を伸ばすんだ、七瀬!」
回転し刃と化した水に、東城は拳を突き立てる。
血が噴き出す。
炎でいくら蒸発させようと水はどこからともなく現れ再生してしまう。
それでも東城は、手を伸ばす。
「無駄、ですわ……ッ! アルカナのクラッシュなど、本人が死なない限り止める事など――」
「お前は、俺が救ってやる! もう助け損ねたりなんかするかよ! だからお前が諦めんじゃねぇぞ!!」
叫び、東城はもう一歩踏み込む。
全身に水の刃が突き刺さる。
それでも、東城は七瀬の腕を掴んだ。
「逃げ出すしかできねぇお前の弱さも、お前を逃げ出させるようなくそったれの現実も!」
刃の中心地に飛び込み、七瀬を抱きしめるようにして彼女の身を守る。
そして、東城は吠える。
「俺が、全部焼き尽くす!!」
紅蓮の業火が、爆ぜる。
眼を開ける事すらままならない衝撃波が、辺りを無作為に叩きつける。
だが、身を切り刻むようなあの痛みはいつまでたっても来ない。
七瀬を囲む水の刃も、頭上に迫る最大にして必殺の一撃も、等しく蒸発し、辺りに吹き散らされていた。
遅れて反応したかのように川の水が弾け、頭上から降り注ぐ。
「……やったな」
どさっ、と東城はその場に座り込んだ。
今の激しい衝撃波で脳震盪でも起こしたのか、七瀬は気を失っていた。もうクラッシュであろうと、しばらくは能力を行使することは出来ないだろう。
「……相変わらず、無茶苦茶よ。アンタって……」
あまりの疲労で炎の壁は消えていたらしく、柊が痛む背を押してでも東城に歩み寄ってきてくれた。
「次は、無いかもしれないわよ……?」
柊が安堵のため息をついていた。その瞳が少しうるんでいるのは、気のせいではないだろう。
その顔に笑みを向けて、東城は誇ったように言う。
「まぁ、だからイクセプション、なんだろうよ……」
極限状態から解放された安心からか、東城の意識は急に遠のいていった。だがその感覚は、まったく悪いものではなかった。
河原の上に身を投げ出して、東城はその眼をゆっくりと閉じた。