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フレイムレンジ・イクセプション  作者: 九条智樹
第1部 アーダー・ティアーズ

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第1章 焼失の先へ -4-


 そんなこんなで、それから一時間後。


 今の東城たちがいるのは、地下都市の中にある人工的な河原だった。


 柊の話によると、この地下都市には蟻の巣状に五つの階層があるらしい。


 先程までいた繁華街の第0階層。

 マンションなどが多く最も面積の大きい住宅街の第1階層。

 河川や公園などのある第1階層とはまた違う住宅地で、現在二人のいる第2階層。

 第1階層の真下に位置する、地下都市のライフラインの基盤となる施設が乱立する第3階層。

 そして第2階層にのみ繋がっている現在開発途中で鉄骨ばかりの第4階層。


 これらの五つで、地下都市は成り立っているらしい。


 一般人の東城が遊びに来るような場所でもないので、別に説明してもらわなくても良かったと思うのだが、嬉しそうに語って案内してくれる柊を止める気にもなれなかった。


「あー、久しぶりに遊びつくしたわ」


 心底楽しそうにそう言いながら、柊はバニラシェイクを飲んでいた。


「当初の目的は、超能力者の普通な暮らしを見せつつ俺を守るために一時的に身を隠す、みたいな話だったと思うんだけど……」


 あれから丸一時間、一切の休憩を挟まず東城は柊に振り回された。

 喫茶店でパフェを食したというのにその後も甘いものをやたら買わされ(柊曰く、『能力っていうのは高度な演算をしないといけないから、糖分が必要なの』とのこと)、おまけに言った通りざっとだが全五階層を案内された。たったの一時間で現在の人口八千人近い街を、だ。


「何よ、もう疲れたわけ? 体力無いわね」


 能力者が再現している物とは言え、ここはもう地上と何が違うのかも素人の東城には分からない。

 どういう能力者が頑張っているのか地上と同じ気候まで再現しているせいで、地下と言っても立っているだけで汗が滲むほど暑い。

 そんな中を散々連れ回されたのだから疲れるのも当然だろう。むしろ、柊が涼しい顔をしているのが、不思議でならない。


「さて、次はどこ行く?」


「もうちょっと休ませてくれ……」


 河原に座り込んだ東城だが、柊はヒマそうにしてシェイクをすすっていた。このままでは「つまんないからもう行くわよ」とか言ってまた連れ回されかねない。

 いくら能力者の再現物でも炎天下でこれ以上そうなると、本当に死んでしまう気がする。


「あー、そうだ。さっきから一個、訊きたい事があったんだ」


 本当は大して興味も無いが、とりあえず東城は涼しい河原で過ごす時間を少しでも長引かせようとする。


「何? 何でも訊きなさい。この私が教えてあげるわ」


「なんで上から目線なのかも訊きたいけど……。そうじゃなくて、七瀬と会ったときにお前ら、『アルカナ』がどうとか言ってただろ? あれってどういう意味だ?」


 アルカナと言えば、大抵はタロットカードの事を指すだろう。だが、あの自己紹介の場において全くタロットカードが関係していない事は東城にも分かる。


「あぁ。アルカナっていうのは称号みたいなものね。二十二種ある能力のそれぞれで最強に君臨する能力者に与えられる特殊な名前。はっきり言ってアルカナと他の能力者の力の差は天と地ほども違うわ」


 自分もアルカナだと名乗っていた柊が言うと自慢も混じっているように聞こえるが、東城はあえて何も言わない事にした。

 柊が仲間の神戸を七瀬の迎撃をしようとはしないのは、ただの能力者をどれほど引き連れても、アルカナである七瀬には届かないと分かっているからだろう。

 だから神戸は七瀬の監視や引き付け役しか出来ないのだ。


「まぁでも、アルカナって言ってもいろいろあるし。上手くやれば七瀬一人を抑えるのはさほど難しくないわよ。現に、地上で神戸が色々やってくれて――」



「それはこの、神戸拓海の事ですか?」



 唐突に、その声は開けたこの場に響いた。


 ばっと東城が振り返ると、その声がした先の土手に一人の少女がいた。

 まるでファッション誌の一ページを切り取ったかのような格好をした、その可憐な少女。

 見間違えるはずもない。


 そこに立つのは地上で東城と柊に背を向けた、あの七瀬七海だ。


 恐怖が背筋を這い回り、嫌な汗が噴き出す。

 だが恐怖の原因はその存在だけではなかった。

 その七瀬の手が掴んでいるもの。

 その少女と同じほどの大きさの何か。しかしそれは真っ赤な液体に濡れていて――


「神、べ……?」


 柊は掠れた声で呟いていた。

 それは紛れも無く、赤黒い血にまみれた人体だ。


「アンタ、何してんのよ……ッ!」


 柊はシェイクのカップを握り潰していた。まだ残っていた中身がぽたぽたと垂れて、地面に染み込んでいく。


「地下都市への入り方をお訊ねしたのですが教えていただけなかったものですから。仕方が無く、力で分かっていただいただけですわ」


「そんな理由だけで、そこまで痛めつけたってわけ!?」


「価値観の相違ですわね」


 柊の怒号に対して、離れた場所にいる少女はただ涼しげに答えた。


「こうして自由を手に入れた貴女方と違い、未だ囚われの身であるわたくし達からすれば、必要悪、という物ですわ」


 その言葉に、東城は自分が震えるのを感じた。だが、恐れているわけではない。怒りと不快感が等量混ざった、気味の悪い感覚だった。

 人を傷つける事を必要悪と言って割り切ってしまうその姿が、あまりに異常に映った。

 超能力の話など半信半疑だったし、今でも全て受け入れたわけではない。頭のどこかでは、ここは地下都市などではなくやはり地上なのではないか、先程の戦いも何か見間違えたものを脳が勝手に勘違いし誇張してしまっただけなのではないか、とさえ思っていた。


 だが、事実として血にまみれた少年がいる。

 それを引きずって表情を崩さない七瀬がいる。

 それに怒る柊美里がいる。


 そこはもう、疑う余地など無い事実なのだ。


「――隙ができたら、私が合図する。そしたら全速力で逃げて」


 その危険な状況で、柊は一人でどうにかすると、そう言った。


「お前一人で戦う気かよ。お前の仲間があんなにボロボロになるほどの相手だって言うのに」


「だからってアンタに何ができるのよ。他の能力者だって誰もレベルA以上の本気には近づけもしないっていうのに」


 言われて気付く。これだけの重傷を負った神戸がここまで引きずられる間、誰も彼女の姿を見ていないはずが無い。それでも誰も何もしないという事は、そういう事なのだろう。

 しないのではなく、できない。

 ここは能力者しかいない地下都市だ。警察のように頼れるものはなく、仮にあったとしても純粋に能力で負けている以上、助けるなどできるはずもない。

 七瀬というアルカナと他の能力者の間には、それだけ大きな隔たりがあるのだ。


「優しい言葉をかける余裕も無いから、ストレートに言うわよ。アンタがいると邪魔なの。私の戦う邪魔をしない事が、アンタにできる最良の選択よ」


「――……分かったよ」


 東城は頷くしかなかった。


 この場に少女一人残す事は確かに心苦しい。だが能力者でさえ何もできないというのに、東城にできる事など存在するわけがない。


「素直なのは好きよ。じゃあ、合図があるまで余波くらいは自分で防いでよ」


 その直後、真っ白な電撃の槍が七瀬に襲いかかった。

 雷速。音速を遥かに超えた秒速二百キロの必殺にして最速の一撃だ。


「あら、言葉尻に合わせた攻撃はタイミングを計られてしまいますわよ?」


 しかしその雷速の一撃を、七瀬はひらりと躱していた。後方で何かに衝突した雷が、轟音を撒き散らす。


「もっと落ち着きなさいな。貴女方レベルSを殺す為だけに攻撃のタイミングやパターンの全てを知り尽くしたわたくしに、その程度では傷一つ付けられませんわ」


 神戸を手放し七瀬は土手を滑り降りて、柊と間合いを十メートルほど取って構えた。


「……弱い犬ほどよく吠えるって言うけど、あれってホントみたいね」


 声がした時点で、既に柊は七瀬の目の前で拳を振りかぶっていた。

 とっさに腕を交差させて防いだ七瀬だが、衝撃は抑えきれず後方へ少し吹き飛ばされた。


「出し惜しみしてないでとっとと能力使いなさいよ、三下。じゃないとその前にアンタの意識を刈り取るわよ」


「靴底に鉄板か何かを仕込みリニアの要領で高速移動した、というわけですか。流石は全能力の中で最高の加速を持つ発電能力者の頂点、と言ったところですわね」


 七瀬は一人納得した様子で、やがて、一度頷いた頃にはその眼は観察眼とは別のもっと威圧的なものに変わっていた。


「――良いでしょう。確かにレベルSの貴女を相手に、僅かでも力を温存させようというのは間違いでしたわ」


 七瀬は空気を掬うように掌を上に向けた。そこに、まるでビデオの合成映像のように存在していなかったはずの水が生み出された。それは液体として落ちる事はなく、巨大な水滴の状態で彼女の手の上を転がっていた。


「これが、わたくしの能力ですわよ」


 その雫は、自然と渦を巻き始めた。掌を転がるような小さな渦潮だ。

 そして七瀬はそれを精巧な飴細工を作るのにも似た手つきで引き伸ばす。

 出来上がったのは一メートルほどの円錐状の渦。まるで西洋のランスのような、いやそれに似せて作ったのであろう、水だけで作られたランスだった。


「それで貫くってわけ? 趣味が悪いわね」


「あら。武器は人類の英知の結晶ですわよ。むしろ崇高な方法だと思いますけれど」


「英知の結晶ねぇ。そんなフレーズで大輝に振り下ろした水のギロチンまで正当化する気? 高圧水流で縦にバッサリとか、悪趣味としか言えないでしょ」


 あのアスファルトが裂けた理由を柊はとっくの昔に分かっていたらしい。

 その事に七瀬は一瞬だが動揺の色を見せたが、それは瞬きの間に立て直っていた。


「あら。ギロチンというものは斬首される者の苦痛を和らげるという人道的な目的で作られたものですわ。私のそのささやかな優しさを汲み取っていただけませんか?」


「……あんまり、私を怒らせないでくれる?」


 柊の眼光が、雷のように七瀬を射抜いた。


「そうですわね、やめておきましょう」


 しかし驚くほど、七瀬はあっさりと引いた。拍子抜けした感もあるが、この程度でも柊を挑発できれば十分だという事なのだろう。


「わたくしの能力の一部を見せたわけですし、貴方もお見せになられてはいかがですか? 霹靂ノ女帝と共に戦うのでしょう?」


 そう彼女は東城に声をかけた。それも、それは皮肉でもなんでもなく、本当にそう確信しているように聞こえた。

 体の奥で大切な何かが、脆い砂城のように崩れていくイメージが過る。頭の隅にかすかな痛みを感じた。


「悪いけど俺はただの一般人だぞ。戦わねぇよ」


 十分な間合いを取りつつ、東城は平静を取り戻そうとどうにか返答する。

 それでも声が震えているのは、七瀬の能力を恐れての事ではない。それ以上に頭の奥でうずく何かが不安で堪らなかったからだ。


「あら。もしかするとまだ告げていないのですか? 彼の、本当の姿を」


 その言葉が東城の鼓膜をいやに震わせた。どくん、と心臓が大きく跳ねた気がした。どんどんそれは速くなり、減速する気配を見せない。


「俺の、本当の……?」


「耳を傾けちゃダメ。コイツはそういう心を揺さぶる戦い方に慣れてる」


「あら。事実を隠すから、わたくしに付け入られる隙があるのでしょう?」


「うるさい。これ以上はアンタに喋る隙も与えないわよ」


 一層大きな空気を引き裂く音と共に、青い閃光が駆け抜けた。


「ですから宣言してから攻撃なさると、如何に速くとも避けられますわよ?」


 それもひらりと躱して、七瀬は地面を蹴った。そして水のランスを振りかざし、柊へと襲い掛かる。


「その程度の速さで、私を倒せると思ったわけ?」


 しかし七瀬の水のランスが当たるよりも速く柊の二撃目が放たれる。目的は単純に武器破壊だ。だがそれすら七瀬は予想していたかというように、こう口にしていた。


「あら。残念ですわね。わたくしの目標はもう貴女ではありませんから」


 にやりと笑った瞬間、水のランスは柊の紫電が当たる前に解けた。柊の電撃は、ただ水のランスの隙間を縫って空を切り裂いただけに終わる。


「邪魔立てはなさらないで下さいな」


 一度は霧散した水が再収束する。ただし、今度は柊を芯にして。


「な……っ!」


 水のランスは一瞬にして水の拘束具へとその姿を変え、それに動きを封じられた柊はバランスを崩し倒れてしまった。


「先に申しあげておきますと、その水の拘束は解けませんわよ。わたくしの能力は水を生み出し操る事。操るというのは何も形状だけを指すのではありません。量や粘度はもちろんの事、現在の地球上ではあり得ない数値の水圧を掛ける事も可能ですわよ」


「そんなもんで縛り上げるとか、本気で悪趣味だわ……っ!」


「何とでも」


 七瀬は冷たくそう言って、まるで取るに足らないと見下すかのように柊から視線を完全に外した。そしてその澄んだ双眸で、未だ怯える東城だけを見据えて言葉を発する。


「はじめまして、燼滅ノ王」


 まただ。

 また彼女は、その名を口にした。

 たったそれだけの言葉で、何かが確実に瓦解していく。


「だ、から。何なんだよ。それは……」


 芯の無い声で、それでもどうにか東城は聞き返した。

 自分の身を守ってくれていた柊は戦えず、東城自身にも自衛の術はない。だがそんな些細な事は今の東城の頭には無かった。

 ただ七瀬の言葉だけが、東城の頭を埋め尽くしていた。


「あら。そう言えば貴方は記憶喪失でしたわね。では、わたくしが順を追って説明して差し上げましょうか?」


「やめて……っ」


 縛られた状態で、柊は必死に声を絞り出す。さっきまで余裕すら見せて戦っていた彼女がこうも容易く嘆願している事が、東城には信じられなかった。

 だがそのプライドを捨てた願いも、七瀬には届かなかった。


「嫌ですわよ。敵の精神状態を徹底的に崩しておかなければ、貴女の言う三下は格上に及びませんもの」


 柊は聞くなとそう言っている。ならばこの場で耳を傾ける事は得策ではないどころか、愚行以外の何物でもない。

 それでも東城の足はまるで縫い付けられたかのようにその場から動けず、断ろうとしても乾き切った喉からは声が出ない。

 まるで、全身がその真実を欲しているかのようだった。


「その沈黙は、イエスと取りますわよ」


 柊は嘆願するのを諦めたのか、静かになっていた。あの束縛を破る術を思案しているのかもしれないが、そう容易く解けるものでもないだろう。

 その間に七瀬は滑らかに、その薄桃色の唇を動かし始めた。


「今から十六年前、研究所はとある能力者を生み出してしまいました。彼は変わった発火能力者で、炎と爆発、そして通常の発火能力者とは違ってプラズマまで操る事が可能でしたわ」


「それはどう普通と違うんだよ」


「あぁ、そうですわね。そこも説明しましょうか。良いですか? 世の中の物体には必ず融点がありますし沸点があります。燼滅ノ王を含む上位の発火能力者の前では、等しく本来の形を失うという訳ですわね。そして形を失った物は、やがて電子も失うのです」


 七瀬の言わんとする事を、ようやく東城は悟った。

 そして東城が気付いた事を見抜いてか笑みを浮かべながら、七瀬は続けた。


「電子を失った物質。それがプラズマですわ。そして、彼はそれすらも掌握する。つまり、この世の全ての物質は彼の前には等しく支配されるべき対象でしかありませんの」


 たとえば、彼が意志を持って触れれば大地であろうと海であろうと大気であろうと、みなプラズマとなって彼の手に収まる。

 物理的な威力以前の問題だ。全ての物質が物質である限り、それは彼の所有物となる。彼は全ての物質に対して支配権を持っている事になる。

 そんな馬鹿げたモノが、存在するはずが無い。


「世界の全てを破壊し、支配する能力。九千もの能力者の頂点に君臨し、異例(イクセプション)と称されるその能力。それが『燼滅ノ王』ですわ」


 東城はただ恐れる。

 そんなものが実在していい訳が無い。それはあまりに理不尽、不条理な力だ。

 それはもう、軍事兵器の域を逸脱している。


「その最強の能力者を売る為に研究所は飼い慣らそうとしていましたが、結果は当たり前と言うべきでしょうね。彼を掌握するどころか反逆すら止められず、ほぼ壊滅状態に陥りました。この地下都市に能力者を逃がしたのは彼と、そしてそこで倒れている霹靂ノ女帝ですわ」


 そう言いながら指された柊は、きっ、と七瀬を睨んでいた。その目は『これ以上喋るな』と脅しているようだったが、それでも七瀬にやめる気はないらしい。


「ところが、彼の計画は失敗しました。救う事のできた者は七千三百人ほど。結果としてわたくしの様な能力者千七百人は研究所に囚われたまま、そして、彼自身は記憶を失ったのです」


 どくん、と一際大きな鼓動が東城の鼓膜を内側から震わせ、途方もない熱さが全身に拡がっていった。


「もう完全に理解しましたか? その燼滅ノ王こそが、貴方なのですわよ」


 足場が急に無くなったかのような頼りない浮遊感が、東城を包んでいた。

 なぜ能力者同士が戦いその間に自分の命が置かれているのかなど、少し整理すれば仮説なら立てられたはずだった。

 アルカナにしてレベルSの柊とかつて知り合いだったのだ。自分がただの雑魚の能力者などではなく、何かしら重要な地位にいた能力者だと考えてしかるべきだ。


 無意識に、気付かないふりをしていたのか。

 その事実から、目を背けていたのか。


「今の研究所はその様な失態を二度と晒さぬ様に、研究所内では能力者の演算を常に催眠ガスなどで阻害し、更に『千七百の自由』を餌に貴方方レベルSの抹殺を指示したのです。ですから、わたくしは貴方を殺す。千七百の自由と二人の命、天秤に乗せる必要がありますか?」


 七瀬のその整った顔に、仄かに怒りや苦しみの色が混じっていた。

 しかしそれに気付く余裕もなく、東城は言葉を失っていた。

 自分が燼滅ノ王だという事は、途端に重くなった思考でも理解できた。そこに矛盾などは感じられなかった。

 自分はかつて燼滅ノ王という能力者で、九千の能力者を救おうとし、そして失敗し、記憶まで失った。だからこうして今も狙われている。

 ただそれだけの話だ。

 それだけの話、なのに。


「現実とはいつでも受け入れがたいものなのですわ。ですが、それ故に覆す事は不可能です」


 七瀬は新たに水のランスを生み出し、東城の喉元に突きつける。

 皮一枚にその切先が掠り、小さな赤い雫がつぅっと首筋から鎖骨へと流れた。しかしそれでも、東城は動く気になれなかった。


「死んでくださいな。わたくし達の自由の為に」


 一滴の濁りもなく研ぎ澄まされた、純然たる殺気だった。


「させるわけないでしょ!」


 柊の叫びに、思わず東城も七瀬もそちらを振りむいた。

 その先で柊は縛られろくに動けないのにどうにか地面を蹴り、川へと飛び込んだ。

 一見では何をしているのかまるで分からないその行為に、東城は驚きの色を隠せなかった。だが、七瀬はそれだけで悔しげに顔を歪め東城から意識を逸らしていた。


「まさか、わたくしの束縛から逃れるとは……ッ!」


 七瀬の言葉とほぼ同時に、柊が川から飛び上がった。


「水である以上は、いくら形状を操作してるって言っても混ざるんじゃないかと思ったけど、正解みたいね。アンタが支配してる水と川を循環させてる別の能力者のそれが混ざり合えば、当然拘束は緩むわよね」


 言いながら放たれた電撃の槍。それは東城と七瀬のちょうど間に落ち、双方を怯ませた。


「悪いけど、ここからはレベルSの本気、絶対に手加減なんかしない。今の大輝はもう燼滅ノ王じゃない。だったら、巻き込ませるわけにはいかないんだから」


 それは柊が命を懸けるのに足る覚悟なのだろう。その瞳を見れば、彼女の事を覚えていない東城でも十分に分かる。だが、七瀬はそれを一笑に付す。


「いいえ。貴女が本気でそう思っているのなら、貴女がここに連れてきて僅かとも事情を説明した理由がありませんわよ」


 七瀬の言葉に、柊が目を見開く。


「聞いてたわけ……?」


「女の子はお喋りが好きですもの」


 七瀬は嗤いながら続ける。


「貴女は拒んでいるのですわ。燼滅ノ王が記憶を失っているという事実を。だからこそ、詳しき事情を話す事で彼の記憶を喚起しようとしたのでしょう? まぁ、それも失敗に終わったようですが」


「違う……ッ!」


「何も違いませんわよ。彼を巻き込みたくないのであれば何の事情も話さずに済ますべきでしたでしょう? それだけの力も貴女は持っていたはずです。それなのにわざわざ地下都市を連れ回して、自分は彼との思い出にでも浸っていたのですか?」


 おそらく柊自身も分かってはいた事実なのだろう。それをこうして突き付けられて、柊は何も言えずにいた。



「貴女は心の奥底で、東城大輝という人格の復活を望んでいるのではないですか? それが彼を危険に導くと知りながら――」


「黙って!」


 柊の叫びで震えた空気が、東城の皮膚に刺さる。それでも、七瀬はやめようとはしなかった。


「貴女ご自身でも仰ったでしょう。今の東城大輝を燼滅ノ王(かつてのかれ)として認めてはいないと。ですが貴女はそれを認識するよりも前に、今の彼に燼滅ノ王(かつてのかれ)を重ねてしまった」


 七瀬の言葉に柊はただうつむくだけで、答えない。ただその拳が、微かに震えていた。


「貴女が中途半端に今の彼と過去の彼を重ね合わせたが故に、彼は追い詰められているのですわよ」


「――――それが、どうしたわけ」


 柊は吐き捨てるように言った。ただ開き直っただけのようにも聞こえるが、その声は七瀬を脅すのに十分な迫力を秘めていた。


「アンタに言われなくたって分かってんのよ、そんな事は。分かっていてそれを隠そうとするくらい、自分は弱くて嫌な奴だって事もね。でも、それがどうしたわけ?」


 柊が全身から放つ紫電の針は、徐々に強さを増し数も増える。それは絶え間なく周囲の空気を割り続けていた。

 その小さな針も、おそらく七瀬を仕留める為の充電から溢れ出た一部に過ぎない。


「アンタらのトップに、神ヲ汚ス愚者(ジョーカー)がいるはずよ。私はソイツの正体を見つけ出して、全てを元に戻させるまで、絶対に引き下がらない。私がどれほどみじめな奴でも、私の弱さを言い訳にそれを諦めたりはしないわ」


「それまでは敗北は許されぬと? 素晴らしい覚悟ですわね」


「だから、アンタごときに手こずってる場合じゃないのよ。巻き込んだなら護り抜く。自分の失敗くらい、自分で拭う」


「あら。どうやら貴女を本気にしてしまったようですわね。ではわたくしも少しばかり、本気を出させていただきますわね」


 七瀬が空に手をかざすと、空中に無数のランスが生み出された。能力で制御されているからか、それは吊るされているかのように重力に逆らって浮き続けていた。


「それで貫くってわけ? もう悪趣味を通り越して下衆な真似ね」


「その通りですし、否定も訂正もする気はありませんわ」


 七瀬は平然と答える。


「研究所がレベルSに掛けた懸賞金の千七百の自由。それを得る為なら、わたくしはどのような汚い手段であろうと迷わず振るいますわ」


 それは先程からの七瀬を見ていれば分かる事だった。彼女は目的の為なら相手の心を抉る事を躊躇わず、不意打ちであろうと何であろうと勝つ為なら容赦なく相手を殺す。

 そこにある苦悩など、東城には理解もできない。ただそれらを行う度に、彼女の眉が僅かに寄るのは気のせいなのだろうか。


「――なら、全部叩き潰すわよ」


 柊の放電が全てのランスに狙いを定めた瞬間だった。

 七瀬の顔が、醜く歪んだ。それは勝利を確信した者の放つ、優越感と嘲りの混じった、醜い笑顔だった。


「やめろ柊!」


「――ッ!!」


 東城はとっさに叫び、それと同時に柊も何かに気付いたようだが、到底間に合わない。既に柊が放ってしまった雷速の散弾は、一瞬のうちに水のランスを全て貫いた。

 直後、電撃のものとは違う轟音が河原を支配した。

 烈風が巻き上がり、それに乗せられ砂塵が舞う。あまりの衝撃波に立っていられなかった東城は、尻もちをつくように倒れてしまった。


「まさかここまでの威力とは」


 七瀬の笑いを堪える声が聞こえて、東城は思わず閉じてしまった目を、ゆっくりと開いた。

 そこで、東城は喉の全ての機能を失った。

 ただ目の前には、どうしてか柊がいた。

 理解できない。その事実を認識する事がどうしてもできない。

 だが東城が回した手に纏わりついた液体は、無情に現実を突きつける。

 金属のような嫌な臭いが鼻の奥を衝く。その手にゆっくりと視線を落とすと、それは気味が悪いくらいに真っ赤で熱い液体だった。

 理解をいくら拒もうと、柊が身代わりになったという事実は決して揺るがない。


「水に放電すれば、水蒸気爆発を起こすのは当然でしょうに」


 おそらく、電撃を放つ瞬間にそれを察した柊は、東城を護ろうとした。既に演算が終わり放つ事は止められなかったとしても、実際に放たれるまでの僅かなラグに別の動きを取ることは可能だったのだろう。

 自分が傷付く事をいとわずに、その僅かな時間を、東城を守るために浪費した。


「ま、だ……。戦える……っ」


 それでも柊は立ち上がろうとする。護りたい者が、まだそこにいるせいで。


「無理ですわよ。『フリーズ』というものをご存じないわけではありませんわよね?」


 ゆっくりと歩み寄りながら、七瀬は東城をちらりと見て説明し始める。


「能力の使用中に痛みなどで演算を阻害されると起こるアクセス障害の事ですわ。彼女は半時ほどの間、能力の使用を封じられたという事です。つまり、貴方を護るものは無くなり既に貴方の敗北は決まったと、そういう事ですわ」


 カタカタと音がして、初めて東城は自分が震えている事に気がついた。

 だがそれは恐怖から来る冷め切ったものとは違い、煮え滾るように熱いものを感じた。

 これは紛れもなく、怒りだ。


「……気にいらねぇよ」


 恐ろしく低い声が、東城の口から漏れ出た。

 その声は、七瀬を反射的に半歩下がらせるだけの力を秘めてすらいた。

 昔に何があったのかなど東城は覚えていない。彼女とどんな関係だったのかさえ知らない。それでも彼女が自分を大切に想ってくれている事だけは、確かな事実のはずだ。

 そんな彼女が傷つけられるのを見て何も感じず何もしないほど、東城は腐っていない。

 記憶の一つや二つ抜け落ちた程度で、東城大輝は変わらない。


「テメェは柊を傷つけた。それだけで、俺が戦うには十分な理由だ」


 東城は誰彼なしに助けるなんて熱血漢ではない。他人の自由の為にその身を投げうつような聖人でもない。

 それでも、どんな形であれ自分を想ってくれている彼女を見捨てたりはしない。

 出会ってしまった一人の少女くらい守り抜きたいと、そんな道を真剣に選んでしまう。

 東城大輝とは、そういう人間だ。


「これ以上柊に手を出すのなら、俺はテメェを絶対に許さねぇ」


 その言葉と共に、東城は確かに頭の奥でカチリという音を聞いた。まるで外れていた歯車がかみ合ったかのような感覚。それは、大切な何かが戻り始めた音だった。


「ならば許していただく前に死んでいただくとしましょうか」


 七瀬がその場から、東城に水のランスを投擲する。

 その瞬間だった。



 辺りが紅蓮の業火で包まれた。



 七瀬の投げた水の槍は刹那の内に爆発し、東城に傷一つ負わせる事はできなかった。


「な、……っ!」


 驚く七瀬だが、東城は記憶を失くしただけだ。能力まで失ったわけではないのだから、それが扱えること自体には驚くべきところは無い。

 しかしだからと言って土壇場で自分の知らない物を振るえるなど、異常以外の何物でもないのもまた事実だ。


(だからこそ、異例(イクセプション)だというわけですか……っ)


 驚愕する七瀬を、東城が紅蓮の劫火の宿ったその瞳で睨んだ。

 たった今能力を取り戻した。ただそれだけで勝てる相手でない事は分かる。僅かでも気を抜けば、即座に死に繋がるレールの上に乗っている。

 それでも東城大輝は拳を握る。

 辺りを紅蓮の火柱が囲み、柊に危害を加える事の出来ない絶対の壁を作り出す。


「――俺が、終わらせるんだ」


 それは、始まりの瞬間だった。



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