第1章 唐突な来訪 -1-
九月になっても一向に気温は下降せず連日最高気温の記録を更新していく中、東城たちは教室に着くなり窓を全開にして少しでも涼を取ろうとしていた。
「アッチぃ……」
うだるような熱気の中で一時間近くも座らされていた今、全校生徒九百人近くが全く同じ感想を持ったに違いないと思う。
だらりと窓に干されるような形で、東城は脱力しきって少しでも熱を放出しようとしていた。
「まったくや……。こんなもん、ただの拷問やろ……」
下敷きでバタバタと扇ぎながら、白川も答える。元から細い糸目も閉じて長身の身を投げ出したその様は、どこか溶けてしまっているのではと思うほどだらけきっている。
「まぁ仕方ないよ。夏休みの間にずっと冷房に当たってた人もいるだろうし、これくらいの方が健康的だ、とか思って割り切るしかないかな」
そんなことを言う四ノ宮は汗を掻いてはいるものの、元々の整った顔立ちのせいだろうか、涼しげな様子で佇んでいた。
「あぁちくしょう。なんでもう夏休みは終わってしまったんや……」
今日は九月二日の月曜日。
つい先ほどまで東城たちは、体育館で特に興味もそそられない話を延々と繰り返す始業式に出ていた。
「何言ってんだよ、白川。曜日の都合で普段よりは二日か三日、休みは長かっただろ?」
「あぁせやな。しかし!」
くわっ、と白川が目を見開く。――元が糸目なせいで左程変化がないが。
「俺は夏に休んでなどおらんのじゃ!」
涙を流し拳を握り締めて白川は力説しようとする。
「あー、涼しい」
だがその暑苦しさが鬱陶しい東城は窓辺で涼しくなり始めた風を受けて、全くリアクションしない。
「話くらい聞いてくれや……」
「はいはい。僕は聞いてあげるから、その鬱陶しい涙は拭きなよ」
さらりと四ノ宮はヒドイことを言っていたが、馬鹿なのか白川は気付いていなかった。
「で、どーいう意味だ?」
渋々ながら東城も会話に加わってあげることにして問いかける。
「……俺の成績は知っとるな?」
「最低でも中学からは全テスト全教科で学年最下位だろ」
「この前の全教科足して二桁に達しなかった奇跡の期末考査は、きっと末代まで語り継がれると思うよ」
「……そこまで詳しくなくてえぇわ。とにかく、一通り赤点やったわけや」
「あー、なるほど。確か赤点組は夏に強制補習だったな」
東城も夏休みの一週間くらい、文系科目のいくつかの補習に出席した記憶がある。
「俺は全教科や。ちなみに、テスト前に出た課題が未提出やったヤツはそれとは別に呼び出しくらった」
「……噂だと、それも補習対象だよね? しかも赤点だった時の補習とは日程が別の」
「せや。そして俺は更に、永井先生から前代未聞の補習を受けた」
潤んだ瞳で白川は自分のカバンをガサガサと漁りはじめた。
「補習にならん為の補習やとさ! 意味分からんやろ!? どうせ夏休みの課題は一切手ぇ付けへんやろうから補習として夏休みにやるぞ、とかホンマに意味が分からん!」
そうして白川は机の上に大量の問題集を叩きつけた。
白川の持ち物としては考えられない。それは開いて目を通し問題を解いたらしく、新品とは違ってほんの少し膨らんでいるのだ。
「おかげで、人生で初めて夏休みの宿題が終わってしまった……っ」
「それは喜ぶべきじゃねぇか?」
「というかそれで恨み言を言う時点で間違ってるよ、雅也」
そんな風にツッコんでいると、教室がざわつき始めた。
「うそ……っ! あの白川が夏休みの課題をやって来たの……ッ!?」
「嘘だッ!! 俺なんてまだ今日提出分も二つ残っているのに……っ!」
「何……だと……? あの白川に、俺が負けたというのか……ッ!? ダメだ! もう生きていく意味が分からない!」
「お前ら好き勝手言いすぎやぞ!?」
クラスじゅうで悲鳴が起こる。それほど、白川が勉強をしたという事実は信じがたい奇蹟なのだ。……まぁそれにしても随分と酷い言われようだが。
「良かったじゃねぇか。これでまた永井先生に怒られずに済むわけだし」
「せやけど、俺の夏休み四十三日間の内の二十九日が登校に消えたんやぞ!? それも朝から夕方までのフルタイム! やってられるかコンチクショウ!」
軽く計算すると土日以外は全部登校していることになる。なるほど、夏休みがなかったと言われても納得できる。
「――けど、要は自業自得だろ」
「そうだね。まったく同情する気にはならないね」
「お、お前らもう少し慰めてくれてもえぇやろ……」
白川が両手をついてがっくりとうなだれる姿を見ても、基本は真面目な東城と完全無欠優等生四ノ宮は全く心動かなかった。因果応報、とさえ思う。
「ちくしょう、せめて何かえぇことないとやってられんぞ……」
「あ、ならいい噂教えてあげようか?」
四ノ宮が思いついたように言う。
「いい噂? そのノリやったら『いい話と悪い話、どっちから聞きたい?』くらいやってもらわんと――」
「分かった。悪い噂は持ち合わせてないから話さないよ」
白川のボケに付き合う気はないらしくあっさりと四ノ宮はそっぽを向いた。相変わらず、四ノ宮も白川には冷たい。
「ゴメン四ノ宮! ちょっとボケが過ぎただけやからそのいい噂とやらを教えてください!」
嘆願する白川に若干引きつつ、ため息と共に四ノ宮は話し始めた。
「集会で転校生がいるって言ってたでしょ。その子、僕らのクラスに入ってくるらしいよ。それも女の子だってさ」
「ハラショー!」
四ノ宮が言い終わるとほぼ同時にスタンディングオベーション(まぁ元から立っていたが)でやかましいくらい手を叩いて喜びを表していた。どこからどうみても猿のおもちゃにしか見えなかった。
「テンション高すぎて気持ち悪いぞ、お前」
冷ややかな声と共に脇腹に正拳突きという、かなり過激なツッコミを東城は決めて白川を黙らせようとする。
「――いや、しかし普通やな。始業式の日に転校生とかありきたりやわ。もっとこう、『何でこんな中途半端な時期に?』みたいな方が俺としては……」
だがそれに慣れてしまった白川はワンカウントで立ち上がって平然としていた。
「どうでもいいだろ」
「そうそう。それに、うちのクラスだけ人数少ないからね。いたって合理的な編入だよ」
「まぁえぇか。それで、その転校生の席はどこになるんや?」
白川の言葉に反応して、東城はクラスの席を確認する。
このクラスの現在の生徒数は三十八名。横六、縦七列で机を並べているので、左右の端列の後ろ二つの席が空いている状態だ。
転校生が座るとしたら、この空いた席だろう。
「ってことは、廊下側――鈴木さんの後ろか?」
「もしくは窓側の北林さんの後ろ、大輝の横だろうね」
「そっちの方がありそうやな。ごみ箱があって鈴木さんの後ろってゴチャゴチャしとるし。ま、俺の隣でないは残念やけど、割と近いからえっか」
そこまでの流れを聞いて、東城には何か嫌な予感がした。
四ノ宮の席は窓側から二列目の最後尾。その前が東城で廊下側の東城の隣が白川の席だ。
なるほど、確かに東城の左隣は空席だ。
偶然にも、空いている。
そして世の中、幸か不幸か偶然というのは重なるように出来ている。お決まりのパターン、というやつだ。マーフィーの法則、と言い換えてもいいかもしれない。
――やはり嫌な予感がする。
「……おい、四ノ宮」
東城はまさかと思ったが四ノ宮に確認する。
「なに? どうしたの、そんなに青ざめて」
「その転校生って、女子なんだよな?」
「そうだよ」
「それ以外の特徴って、聞いてたりするか?」
「雅也みたいなこと訊くんだね。本当にどうしたの?」
四ノ宮の疑問も真っ当だろう。普段の東城はこういうことにはまるで興味を持たない。
だが、今回はそんな姿勢ではいられなかった。もし東城の予想が当たっているのなら、それは傍観者を気取っている場合では決してないのだ。
「……いや、ひょっとすると結構かなり真面目に危険な話になりそうなんだ」
「そうだねぇ……。すっごい可愛いらしい、とか?」
「……ひょっとして、髪の色が変わってたりするか?」
「あれ、よく分かったね。――あ、そうか。すれ違ったの? そうだよ、き――」
そう四ノ宮が言おうとして、タイムアウト。
がらっと音を立てて教室の前方の扉が引かれた。
「ほら、座れ座れー。ホームルーム始めるぞー」
変わらずパンツスーツを華麗に着こなした永井先生が出席簿を叩くと、教室内で散らばっていた生徒たちが一斉に着席する。
だが、その中で東城は足が縫い付けられたように動けなかった。
「ん? どうした東城」
「い、いや、何でもないです」
必死に怯える心を奮い立たせて、どうにか席まで移動する。ただ座るのにすらガタガタと音を立ててしまうが、そんなことを気にしている場合ではない。
冷や汗が止まらない。指先がかたかたと震えて仕方ない。
まさか、まさかとは思う。
だがしかし、ここまでお膳立てされてその予想が外れるとは、どうしてか東城には思えない。
(会いたいか会いたくないかで言えば、そりゃ会いたいけど、でも学校は能力とか関係させない俺のプライベートというか、そこに割り込まれるのはどうなんだろうか……。ってか、せめてもう少し前もってなんかさ……)
しかし本当にそれが東城の思っている彼女なら、東城のそんな心構えなど待ってくれるはずがない。
その彼女は良くも悪くも、そして文字どおりにすら青天の霹靂、という言葉が似合いすぎるのだ。
「えー、もうみんな知っているかもしれないが、うちのクラスに転入生がいる」
永井先生の言葉にクラスじゅうが歓喜に沸く。隣の白川など指笛まで吹いている始末だ。もちろん東城だけは、その歓喜の波に乗れなかったが。
「入っていいぞ」
そうして教室の扉がもう一度、開かれる。
転入生がこの教室に足を踏み入れる。彼女が一歩進む度に、見覚えのある胸元のネックレスが輝かしく揺れている。
この学校の制服はまだないらしい。真っ白なブラウスも、胸元に輝く青いリボンも、ベージュの下地に青いチェックの入ったミニスカートも、足を覆う黒いニーソックスも、少し着古した感はあってもこの学校の制服ではない。
窓から吹く風が、彼女の長く美しい金髪をなびかせる。
クラスじゅうが感嘆の、そして東城だけがただの溜め息をついた。
教壇で担任の永井先生の横に立っているその少女を、東城が見間違うはずがない。いや、そもそもあんな見る者を圧倒するような金髪は一度見たら忘れようもない。
「はじめまして。柊美里です」
にっこりと微笑むその姿はクラスメート全員に愛嬌を振りまいているようで、その実、東城一人に逃げられない現実を突き付けていた。
「えー、柊の髪については地毛だ。診断書付きだから校則違反とか抜かすなよ。――もちろん、イジメの対象にしようものならどうなるかは分かっているな?」
ゴキゴキと永井先生は指の骨を鳴らして脅していたが、おそらくこのクラスメートは皆優しいので絶対にイジメなどしないだろう。そもそも、永井先生が担任の時点で高校生が行きがちな悪への道は完全に閉ざされたようなものだが。
「おい、東城! 金髪、金髪美少女転校生や! キター!」
「黙っててくれ。俺はいま頭が痛い」
横から肩を激しく揺さぶる白川をエルボーで沈めて、東城はまた深いため息をつく。
そして東城はほとんど残っていない最後の望みに賭けるのだが――
「席は鈴木の――いや、東城の隣だな。わざわざ暑いところにやる必要もないし、隣が東城なら授業は大体訊けば分かる。文系科目は四ノ宮に聞くといい。前には女子の北林がいるし生活面も大丈夫だろう」
その望みは、僅か数秒で絶たれた。
男女でクラスが分裂、あるいは転校生が女子としか話さなくなってしまうのを避けるために中間地点に放り込んだつもりなのだろう。
あまりにも偶然だけが重なりすぎていて、東城はこのもやもやとした気持ちをどこにぶつけてどうやって晴らせばいいのか分からない。
それから柊はありもしない前の学校やら住んでいた地域の名を上げて、指定された席へと進む。ゆっくりと、颯爽と、確かな足取りで。
真横に彼女が来たときには、東城は半ば涙目だった。
「よろしくね、東城くん」
「あぁ、よろしく……」
何の覚悟かは自分でもよく分からないが、どうやら腹をくくるしかないようだった。




