第3章 接触 -3-
「――なるほどね」
空になったマグカップを小突いて、ミューアクラウンはそう呟いた。
あれから言葉を選びながらのレインウォーターやフォックスバットからの説明を聞いて、彼女から出てきたのはそれだけだった。
「随分と落ち着いているな」
マグカップを受け取り、フォックスバットはシンクへと運ぶ。それをミューアクラウンは落ち着いた表情で見送っていた。――けれど、それはただの強がりだ。
「そう見えるならよかった」
そう呟いた彼女の手は固く握り締められていて、カタカタと凍えたように震えていた。
「……ルナ」
「これでも不安でどうにかなりそうなのよ。――だけど、ここで取り乱したりしたら後でフェニックスが笑うに決まってるでしょ」
対面に座ったレインウォーターが悲痛そうに眉をひそめる。それでも、ミューアクラウンはその強がりを否定するわけにはいなかった。
もう後なんてない。誰かが黙っている間に解決して暮れるだなんて、そんな夢物語は存在しないのだと、分かってしまったから。
「それに、大丈夫よ。――だって、まだ死んだのを見たわけじゃないでしょ」
連絡が途絶えたことは確かに異常事態だ。彼の身に何かがあったことは疑いようがない。しかし、そう理解していても、それでもルナ・ミューアクラウンにはフェニックス・グレンフェルが敗北するというイメージが湧かないのだ。
彼はいつだって高慢で、傍若無人で――けれど、何よりも、誰よりも強かったのだから。
「アイツが死ぬわけない」
それはただの現実逃避だったのかもしれない。だがそれでも、嘘偽りのないミューアクラウンの本心だ。
「……強いな、君は」
「アンタにそう評価されるのぞっとしないんだけど。言っとくけど、アンタとは絶対に戦わないからね?」
「それは残念」
マグカップを洗いながらわざとらしくおどけるフォックスバットだが、半ば本気で言っていたような気がして、ミューアクラウンはしばらく白い目でその姿を見ていた。
「ともあれ、こうなった以上は決めなきゃいけないことは山積みよね」
「まずはこれからどうするか、かなぁ?」
「いや。それだけは決まってるでしょ」
レインウォーターにきょとんと首を傾げられて、ミューアクラウンは真っ直ぐにその目を見つめた。
「フェニックスが言ったのよ、これは戦争だって。――だったら、これくらいで降伏するなんてあり得ないじゃない」
王一人を討たれて終わる戦いもあるだろう。しかし、こと今回に関してはそうではない。たとえ互いの命の全てを食い潰してでも、最後の一人の喉笛をかみちぎるまでは終えられない。終えてはいけない。これは、そういう戦争だ。
無条件降伏なんてもってのほか。和平交渉やあるいは遁走も、この戦いの結末には必要ない。
「……なるほど」
「何を納得してるのよ、この戦闘狂」
「いや? ただ、あのフェニックスが惚れただけはある、と感心しただけだ」
「………………そう言えばアイツ、アタシに惚れてたくれてたっけ……?」
突然向けられた話題に一瞬だけ頬を赤くしたミューアクラウンだったが、ふと冷静になってそんな感想が漏れ出た。こちらからは一方的に好意は見せてきたつもりだが、果たして、彼の方からその気持ちに応えてくれるようなアプローチはあっただろうか。
「いやないな……」
「そこは自信を持った方がいいと思うけどなぁ」
そこはかとない悲しき反語に、レインウォーターも同情を禁じ得ない様子だった。実年齢がどうあれ、外見は遙かに幼い彼女にそんな目を向けられていることが、無性に悲しくなる。
「話が逸れちゃったねぇ。――それで、決めなきゃいけないことってぇ?」
「まぁ難しい話じゃないけど、最優先は『誰がフェニックスの役目を継ぐか』ってところじゃないかしら」
軽い咳払いで気を取り直し、ミューアクラウンは指を一本立てた。
彼らの王はフェニックス・グレンフェルだ。ミューアクラウンやレインウォーターがどんなにやりたいことを口にしても、最後の決定を下すのは必ず彼ただ一人だった。
その彼が欠けたいま、この集団を指揮する者が必要だ。
「そういう話なら、私は不適だろう。とてもじゃないが、誰かを率いるようなタイプではないよ。泥船が好みなら考慮するが」
「胸を張っていうことじゃないでしょ……。とはいえ、じゃあアタシかローザか」
「立候補していいならあたしがやるよぉ」
すっと手を挙げたレインウォーターに、ミューアクラウンは目を丸くした。
「……どうかしたぁ?」
「いや、ちょっと意外だったってだけ。ローザはこういうの好きじゃないかと思ってたから」
「好きか嫌いかで言えば嫌いだけどねぇ。――だけど、これは戦争なんでしょぉ? だったら一番適した人がやるべきなんだよぉ」
普段どおりの甘ったるい声音に反して、その瞳はいつになく乾いている。そんな彼女の眼差しに、ミューアクラウンは思わず喉を鳴らした。何の気なしに言った自分の言葉が恥ずかしかった。
この状況下で集団の頭を張るということは、相応の判断を求められる。――仲間の命を切り捨てなければいけない、なんていうことはきっと当たり前にあるだろう。
そのことを正しく理解した上で、彼女は自分がリーダーをやると言ったのだ。
「そんな難しい顔しないでよぉ。――別に義務感でやろうって言ってるわけじゃないよぉ」
「……じゃあ、なんで」
「これでもあたし、結構怒ってるだよねぇ。アズールを殺されたことも。フェニックスまでやられたことも。――だからさぁ。この戦争に勝つためならあたしはなんだってやる、っていうだけだよぉ」
にへら、といつものような笑顔を彼女は向ける。それはルナを気遣っているようにも見えた。
けれどその朗らかな表情の下で、煮えたぎる感情が瞳から漏れ出ていることにミューアクラウンはすぐに気づいた。
きっと彼女が引き下がることなんてない。だから、この場で言うべきは安易な否定や反対ではない。そう彼女は思った。
「……任せていい?」
「もちろん。――ジークもそれでいいよねぇ?」
「あぁ。かつての序列で第三位、いまはフェニックスの次点に君臨する“女王”だ。強者が率いるべき、というのは私たちのありようそのものだしね」
シンクの前で腕を組みながら彼は頷いた。初めからこうなると分かっていたのかもしれないと、根拠があるわけではないが、ミューアクラウンはひとりそう感じていた。
「じゃあ早速リーダー命令だねぇ」
ぱんと袖の余った手を叩き、彼女は二人の注意を集める。
「――この施設の子たち、よそに預けるよぉ」
その言葉に、ミューアクラウンは小さく天を仰いだ。
分かってはいたことだ。この状況で自分たち以外の者の面倒を見ている余裕なんてない。下手をすれば、彼らを人質にでも取られて、より事態を悪化させることだってある。
「……残念だけど、そうするしかないか」
ここは身寄りのない子供たちのよりどころだ。異能力者の諍いのせいで、関係のない子供たちへ不利益を被らせることを、グレンフェルはよしとしなかった。だが、いつまでもそんな甘いことを言っていられる状況ではない。
「一時的に預かってもらうだけだよぉ。――ここはあの子たちにとっても居場所になっているんだからさぁ。守るためには必要なことなんだよぉ」
自分たちが強ければ、そのまま子供たちを抱えていても十分に戦えたはずなのだから、これはある種の敗北宣言でもある。
たとえ合理的な判断であるとしても、それを認めることは屈辱以外の何物でもない。それを分かった上で、彼女は自らリーダーに立候補し、その命令を下したのだ。
だから、彼女へ最上級の敬意を払い、ミューアクラウンは静かにかしずいた。
「仰せのままに」




