第3章 接触 -1-
「――ックソが!」
誰に向けたものでもない罵声と共に、闇雲に振るわれた拳が机上のグラスを粉々に打ち砕く。
振り乱された黒髪の隙間から覗く血のように赤い瞳は、怒りに飲まれて瞳孔が開いたままになっているほどだ。――それが、一時的に神炎を封じられたブレイズ・ミラーの姿であった。
「――なに見てやがる、ヒューズ・ウェストウッド」
ぎろりと睨めつけた視線の先には、一人の男がいた。
燕尾服に身を包んだ、すらりと背の高い三〇代ほどの男。肩まである赤茶色の髪を後ろでくくり、左目には黒い眼帯をしたその男は、肩をすくめるばかりであった。
「被害妄想ですよ、ブレイズ」
「そんなに哀れに見えるかよ、この俺が……ッ」
「話を聞かない男ですね。――私は君に興味なんてない、と言っているでしょうに」
「テメェ――ッ!」
激高し、ブレイズ・ミラーが拳を振り上げその男――ヒューズ・ウェストウッドへ掴みかかる。しかし、呆れたようにヒューズは眼帯をしていない方の目さえつむる。
瞬間、伸びてきた彼の右手を見ることさえなくつかみ取る。どれほどミラーが力を込めようと、その手はびくともせず、まるで岩に縫い付けられたかのように動かない。
あまりにも洗練された、無駄のない動き。ただの喧嘩自慢の素人を武道の達人が往なすような、そんな隔絶した力量の差がその一合だけでさえ見て取れた。
「クソ……ッ」
「動きませんように。私が力を入れなくとも折れてしまいますから」
「ほざけよ……ッ」
言いながら、ミラーはまだ押さえつけられていない左手に業火を灯す。――神炎として物質も現象も問わずに焼き尽くす黒い炎は封じられているが、その分、こと物質に対する破壊力は格段に上昇している。いかなる手段を用いても防ぐことは出来ないほどに。
パッと手を離し、ウェストウッドが距離を取る。その一方でミラーが、その赫々と輝く炎を手に彼を睨み付けていた。
一触即発、という段階は越えてしまっている。
あらゆる物質を焼き尽くす炎を弾丸のように飛ばすミラーに対し、隻眼の男は軽々とその弾道を読み切って紙一重で躱していく。
能力者としての才覚や、その演算能力など二の次だった。いまミラーとウェストウッドの優劣を分かつのは、純然たる戦闘経験の差だった。たとえどれほど強力な武器や能力を持っていたとしても、それを扱うのが同じ人間である限り、その差は決して埋めようがない。
「へらへら笑ってんじゃねぇよ、クソが!」
「怒りで何も見えていないご様子で。――仲間割れなどしている場合ではないでしょう?」
「テメェが仲間って面かよ……ッ」
そんな言い合いをしている間もミラーは攻撃の手を緩めない。しかし、ウェストウッドは肩をすくめるばかりでその全てを躱し続けていた。ミラーの放った全ての業火は、この薄暗い居住空間で質素な家具を灰へと変えるだけだ。
「そろそろ本気で止めますよ」
防戦一方だったウェストウッドがため息交じりに告げると同時だった。
ただ左右へ回避していただけの彼のステップが前へと進む。そう認識できたときには、既に彼はミラーの背後に回っていた。
「な……ッ!?」
驚愕に目を剥いたミラーが裏拳で殴り飛ばそうと体をねじるより先に、ウェストウッドはその手を掴み、そのまま足を払い膝で腰を押さえつけ組み伏せてしまう。
右腕は折りたたまれた状態で押さえつけられている。どうにか振り払おうともがくが、緩むどころか関節から激痛が走るだけだ。
そのまま背中越しにウェストウッドを睨み付けたミラーは、ぞくりと背筋を凍らせた。
「よせよ。――俺もこれ以上は殺さなければいけなくなる」
元の穏やかな口調を排したウェストウッドの声音には、微塵の怒気も込められてはいない。むしろその声は、堪えきれない歓喜さえ滲んで聞こえるほどに。
この男は、今ここで自分を殺すことを望んでいる。
その直感は紛れもない事実であり――皮肉にも、その狂気が彼の行き場のない怒りを静める契機となっていた。
「……チッ」
舌打ち一つでミラーは炎を消し、それ以上の抵抗を諦める。これ以上の衝突には益がないどころではないと否が応でも理解させられたからだ。
「残念」
くすりと笑いながらヒューズは組み伏せていた手を離し、自身の少し乱れたジャケットを整えた。焦げ跡どころか埃一つついていないその様子に、ミラーは苛立たしげに眉根を寄せるばかりであった。
「ともあれ、少しは冷静になっていただけたようで何より」
「嘘くせェこと言ってんじゃねぇよ。――そのまま俺とやり合いたかったって顔に書いてあるじゃねぇか」
「おっと。これは気をつけなければいけませんね」
口元の薄ら笑いを自覚させられ、ウェストウッドは自分の頬を指でこするようにして弛緩を解こうとしていた。
先ほどの一瞬見せた殺気は、紛れもなく本物だった。もしもミラーが引かなければ、それを言い訳にして容赦なくその命を絶っていただろう。
そこまで思い至り、はっとする。
いままで彼がそこまで明確に戦意を剥き出しにしたことなどあったか、と。
「……テメェのご主人様はどうしたよ」
その問いかけに、ウェストウッドは呆れたように首を横に振った。
「本当に話を聞いていらっしゃらないようで。――このご様子では教授の言葉も覚えていませんね?」
「あぁ?」
「このアジトは引き払う、と通達されていたでしょうに。私の主も既にここを発ち、現地へ向かわれていますよ」
「じゃあ俺もそのまま集合すればよかったじゃねぇか」
「このアジトを焼き尽くしていただければ、ね。主も教授も、既にここには戻りませんし、片付けが終わり次第ソル・バレルフォードと合流してあなたも現地へ向かわれるのがよいかと」
超能力開発研究所のような非道な人体実験までは行っていないにしても、この権能という能力の研究にも倫理的な問題は孕んでいる。わざわざ余計な火種を放置しておく必要もない。
「つまり、雑用押しつけられたってことか」
「いい憂さ晴らしになるでしょう?」
素知らぬ顔でウェストウッドはそんなことを言う。そもそも、このアジトを破壊してよいのであればミラーの八つ当たりを止める必要など初めからなかったはずだ。
それにもかかわらずわざわざ割って入り、彼の神経を逆なでするような言葉をウェストウッドは放っていた。その理由など、ただ彼と一戦交えることだけを狙っていたからとしか考えられない。
「……食えねぇ野郎だな」
「褒め言葉として受け取っておきますよ」
そう言って、ウェストウッドは燕尾服の裾を翻す。その様子にミラーは怪訝な顔を向ける。
「どこ行く気だ?」
「せっかく主もいないので、貴重な自由時間を謳歌するだけですよ」
「……余計な真似すんじゃねぇぞ」
「心に留めておきましょう。――ですが、大したことはしませんよ。少し焚きつけてみるだけです」
そう言ってにやりと笑うその姿に、ミラーはよぎった薄気味悪さをごまかすように舌打ちを送り、そのまま背を向けるのだった。