第4章 骸の灰 -5-
その光景を、西條真雪はただ眺めることしか出来なかった。
レベルSの一角、東城の燼滅ノ王と同じイクセプションの名を冠した掃滅ノ姫でありながら、彼女はもはや東城とミラーの戦闘の置き去りにされていた。
次元が違う。
手を出すことはおろか、口を挟むことさえ憚られる。
今まで数多の修羅場を見た。地下都市全土を巻き込む暴動など紛れもなく地獄絵図であったし、燼滅ノ王を手にした林道のもたらした破壊は地図を書き換えるほどの規模であった。
だが、それらと比べてもなお、いま眼前に広がるそれは明らかに異質だった。
世界そのものが灰となって崩れていくような、そんな光景。
だから、それは。
破滅を前に上げられた、世界の悲鳴にも似ていた。
*
びぎり、と、空に亀裂が走る。
その不気味な音に、一手でも過てば命を落としかねない極限の中にいた二人が、全く同時に手を止めていた。
周囲で暴れていた黒い炎は消えて、ただ灰だけが風に乗って舞い上がる。
「な、んだ……っ」
驚愕に顔を染めるだけの東城に対し、ミラーは歓喜と畏怖の入り交じる表情で、その罅割れた空を睨めつけていた。
その亀裂は広がり続ける。
やがて、その向こうから何者かが姿を見せた。
それは――……
「――甲冑……?」
理解が追いつかず、思わず東城は目に映ったそのままを声に出していた。
体躯は二メートル程度で、その全身は鈍い銀色に輝くプレートアーマーに覆われていた。右手には刃幅が三〇センチは越える両刃のロングソード、左手にはしゃがめばその全身すら隠せるほどの円盾を構えている。
紛れもなく西洋の兵士の姿。――それが、空の亀裂を割るように姿を現し、東城たちを見下ろしている。
ミラーの仲間かと警戒する東城であったが、同時にその可能性を自身の中で否定していた。加勢であるならミラーがここで手を止める必要はないし、何よりその甲冑を纏った何者かが、こうして何もせずに様子を見ている理由もない。
そもそも、だ。
「何だ……?」
あの甲冑の下に人間が入っているのか。そこからして疑念を抱くほど、様子がおかしい。殺気や敵意の有無という次元ですらない。およそ気配と呼べるようなものが何もなかった。博物館に展示された鎧を眺めているような気分だ。
あまりにも現実離れした登場だから、だろうか。その姿を確かに目で捕らえているのに、そこにいることを正しく知覚できていないような感覚があった。
まるで、目を閉じているのに見えているような。
あるいは、目を開けているのに見えていないような。
――その違和感に気を取られた、コンマ数秒にも満たない緊張の間隙を縫うように。
はるか上空にいたはずの甲冑が、東城の眼前に立っていた。
「――っ!?」
瞬間、東城は動物が毛を逆立てるかのように反射的にプラズマのコートを生成し、流れるように業火を織った剣で甲冑の右腕を斬り飛ばしていた。それは普段の東城の行動からは明らかに逸脱した、本能に突き動かされた行動だった。
両刃の剣を握った甲冑の右腕が宙を舞う。
――だが。
瞬きをした次の瞬間には、甲冑の右腕は元通りになっていた。
その理解が追いつくよりも、一拍早く。
振り下ろされた斬撃は、容赦なく東城を袈裟に斬り捨てた。
「――っば、ぅ……ッ!?」
東城の身を守るプラズマの外套さえ意味はなく、まるで豆腐でも切るかのように、なんの抵抗もなくその刃は肩から脇腹までを切り裂いていた。一切の無駄をなくしたそのどこか現実離れした所作に、目で見ていても身体は斬られたという事実を理解できず、血液すら数秒遅れて吹き出ていった。
痛みと出血でまともに立つことも出来ず、そのまま東城は崩れ落ちるように膝を折った。プラズマのコートは吹き散り、ばちゃばちゃと夥しい血液だけが零れ落ちて、膝の下に赤黒い水たまりを作っていく。
「大輝くん!」
泣きそうな声で西條が駆け寄ろうとして、ぎょろりと、その方向へ甲冑が動く。
標的が、変わる。
「――退いて」
スイッチを切ったように、西條の声から温度が消える。深い傷を負った東城への心配はおろか、突如として現れた新たな異物に対する驚愕さえ消え失せて――ただ、家族を傷つけられたことへの激情だけが、極低温の冷気となって漏れ出ていた。
直後、まるで津波のように押し寄せた大量の氷壁が正体不明の甲冑を押し潰した。
――そのはずだった。
「な――っ!?」
西條の顔に驚愕が戻る。
彼女の視線の先――幾重にも折り重なったように生み出された氷壁の中央に、その鈍色の甲冑は平然と立っていた。
その質量をもって圧砕する、単純ながらも防ぎようのない西條の必殺だ。万が一その円盾で防ぐことが出来たとしても、その膨大な体積に押し流されて然るべき。
それにもかかわらず、その甲冑は左手に構えた盾で、押し寄せる氷壁の波を割るように防ぎきっていた。ぽっかりと、氷壁の中で高熱の鉄球でも乗せたように、その甲冑の立つ空間だけ穴が開いている。
「退くのはお前だ、掃滅ノ姫」
吐き捨てるような声と共に。
その動かない氷の波に乗るように、ブレイズ・ミラーは血に塗れた東城には一瞥もくれずに、甲冑へと立ち向かう。
荒れ狂う漆黒の炎が甲冑の周囲の氷ごとその一帯を灰へと変え、その甲冑の構えた円盾は、何者にも触れることさえ許さなかった黒炎を真正面から跳ね返していた。
――いや。
正確には、盾に振れた瞬間にその炎が消滅していた。おそらくは西條の氷も全く同様に。
「……あ、れは……っ」
痛みに喘ぎながら、それでも東城はその現象を前に言葉をなくした。
脳の奥底で、ちりと焼け付くように何かがよぎる。
知っている。
いま目の前で起きた事象を、東城は確かに知っている。
「無効化、か……ッ!?」
それはたった一度、超能力を研究していた黒羽根大輔が東城たちを前に見せた、人工的に付与した能力の一つ。あらゆる能力を無力化し、その二次的な慣性までなかったことにする。まさしく全ての能力の天敵とも呼べる力。
権能と呼ばれた炎さえ眼前でなかったことにしたその盾には、間違いなく同質の力が秘められている。
「ハッ。さすがはゼレルってところかよ」
耳慣れない言葉を口にしながら、ミラーは獰猛に嗤う。
まるで東城との戦いはお遊びであったと、そう突きつけるように。
西條の放った大量の氷さえ一瞬で焼き尽くすほどの漆黒の炎を生み出し、その甲冑へと襲いかかる。
だが、四方八方から迫るその死の炎を、甲冑は左手に構えた盾一つで捌いてのけた。もはや感嘆の声すら上げられず、いっそ恐怖すら覚えるほど、完全で、完璧で、一切の無駄が削ぎ落とされた挙動だった。
だからこそ、確信する。
その甲冑の中には、やはり人間はいない。人間の脳と肉体をどれほど鍛え上げようとも、たとえ能力で外部から補助を施そうとも、生体で行える処理の限界を軽々と超越している。
機械か――あるいは、現象と称した方が近い何かだ。
「……本当、何が起きてんだよ……っ」
もはや全てが理解の外で、浅い呼吸を繰り返しどうにか痛みを散らしながら、思わず東城は投げ出すように毒づいていた。
超常現象を操る超能力にも、理は存在する。
たとえどんな能力であろうとも、そこに存在する摂理に抗うことは決して出来ない。それはこの世界がシミュレーテッドリアリティの結果を出力しているという、大前提の上で成り立っているからだ。
だが翻って、いま目の前で戦う甲冑は、明らかにその理の埒外の存在だ。生体でもない何かが甲冑の姿をして、常に最善手を選び取りながら必殺の刃を振るうなど、意味も目的も原理も何もかもが分からない。ただ明らかに、超能力や異能力とは別の次元の作用が働いている。
「しかも、最悪なのは、どっちに転んでも俺たちの劣勢は変わらねぇってとこだ……っ」
甲冑でもブレイズ・ミラーでも、どちらに軍配が上がろうとも、東城たちにとっての利益にはなり得ないだろう。そして、状況を理解できるだけの前提知識からして不足するほど、後れを取っている東城たちだ。
けれど。
「……いいえ、まだチャンスはある」
まだ血の滴る東城の傷を押さえどうにか止血しながら、西條は呟く。その声音は、諦観に飲まれそうになる自らを奮い立たせようとしているようにも聞こえた。
「どちらかが勝負を決めるその瞬間。そこには物理的に必ず隙が出来る。それはブレイズ・ミラーもそうだし、あのおかしな甲冑でも変わらないはず。漁夫の利、って言うと聞こえは悪いけどね」
「言ってる場合じゃねぇだろ……。それ以外に選択肢がないしな……」
それを理解しているから、東城も痛みを堪えてただ目の前で繰り広げられる戦いに、見逃すまいと目を凝らしていた。
そして、戦況は少しずつ、しかし確かに変化する。
常に最善手を選び続ける甲冑の動きを、次第にミラーが捕らえ始めていた。
「……、冗談だろ」
思わず感嘆の声が東城から漏れる。
甲冑がたとえどれほど正解を選び続けようとも、それが必勝とは限らない。ボードゲームですら、後手であれば最善手を選ぼうと必敗となることもあり得る。この自由度の高い現実世界においてどうかなど言わずもがなだ。
だがそれは。
ブレイズ・ミラー自身は、最善手以上の手を打ち続けなければいけないということを意味している。
「ハッ。思ったより分かりやすいじゃねぇか、ゼレル!」
一手の過ちも許されない極限の中で、ミラーは快哉すら叫んでいた。
決してゼレルが攻勢に出る隙を与えない。全てを灰に帰す漆黒の炎は、嵐のように甲冑の周囲で渦を巻き、その身を喰らわんと迫り続ける。
――甲冑の取り得るあらゆる選択肢を潰す。そうすれば、その選択肢の中でどれを選ぼうとも悪手にならざるを得ない瞬間が来る。
そして、その最善手が悪手と等価になる瞬間は目前まで。
「――捕まえた」
ミラーの口角が上がり、瞳がいっそう獰猛に光る。
漆黒の炎が、ゼレルの右肩を抉る。
上段に構えた剣は、そのまま力を伝えられずだらりと垂れ下がる。空っぽの鎧が、その脇のプレートだけでどうにか繋がっているような有様だった。
東城が通常の炎で焼き切った腕は、即座に再生していたにもかかわらず。
「直せねぇだろ。――俺の権能はその為にあるんだからな」
そして。
ミラーの漆黒の炎は、致命的な隙を晒した甲冑の全身を――……
「させると、思いましたか?」
声があった。
同時。
東城たちが狙っていた勝負を決した直後の隙よりも、一拍早く。
見慣れない蒼色の光が、ブレイズ・ミラーの総身を飲み込んだ。
「――ッ!?」
驚愕にミラーの顔が歪む。――だが、外的変化は何もない。痛みの類いもそこにあるようにはとても見えない。
だからこそ、ミラーの操る漆黒の炎はそのまま甲冑を正面から刺し貫いた。
勝敗が決した。
全てを灰に帰す炎だ。肩を抉られたのと同様に、その甲冑は灰になって消える。
そのはずだった。
なのに。
「――ふざけろ……ッ」
ミラーの表情が怒りに染まる。――その眼前で、鈍色の甲冑は平然と、何事もないかのように立っていた。
甲冑はなめらかな動きで左手に剣を持ち替え、そのままミラーへと斬りかかる。――あらゆるものを切り裂く剣。徹底して防戦を強いることでそれを抑え込んでいた彼が、ついに反撃を許した瞬間だった。
舌打ちと共に、彼の胸元で鍵の形をしたネックレスが光る。
瞬間、彼の姿が消え、振り抜かれた甲冑の剣は虚空を裂いて終わった。
「何が、起きて――……」
驚愕する東城をよそに。
標的を見失った甲冑の首が、ぐるんと捻れるように東城たちへ向く。
漁夫の利を狙った東城たちは既に炎と氷を生み出し、刹那の内に勝者を仕留めきれるように構えていた。まるでその殺気を察知したかのようだった。
左に構えられた切っ先が、刹那の内に東城の眼球の前にあった。
「――ッ!?」
周囲の業火すら一刀のもとに斬り捨てられた。――それはどこか、漆黒の炎で灰にされたときと似たものがあった。
あらゆる物質も現象も、その剣閃に触れると同時に消失する。
これはそういう類いのものだと、理解して。
同時に、東城の死が――……
「能力を消して!」
半ば金切り声の叫びと同時、東城は足下で何かのスプレーが転がっていることに気づいた。――そして、何かがそこから吹き出していることにも。
くらり、と視界が揺れた。
(演算が……っ)
何かを吸わされた。そう理解したときには、既に頭は回らなくなっていた。
そもそも皮一枚で致命傷を避けたような、そんな深い傷を負ったままだ。痛みはフリーズを起こす最大の要因。それを意思の力とレベルSの演算能力で上から押さえつけて、どうにか能力を行使していたような状態だ。
何か一つでも外部からそれ以上に阻害があれば、その時点で東城は能力を保てない。
まるで吹き消された蝋燭の火のように、東城の周囲にあった炎が消える。
そして。
「……は?」
思わず、間の抜けた声が漏れる。
文字通りの目の前にまで迫り、あと数ミリで眼球から頭蓋までを刺し貫かれる、その瞬間で切先はぴたりと止まっていた。
それどころか。
今なお眼前に立っているというのに、まるで見失ったかのようにきょろきょろと辺りを見渡すだけだ。
「なんなんだよ、こいつは……」
意味が分からない。
だが、それでも状況が一変したことだけは確かだった。
「くそが……っ」
そして。
瞬間移動で遙か後方にまで飛んだミラーが、今まで絶えることのなかった勝ち誇ったような笑みを捨て、苛立ちと怒りに顔面を歪めて吠えていた。
「何をしやがった……っ!」
その声は東城たちに向けられていなかった。
それは。
東城たちの背後に現れた、一人の少女に向けられたものだ。
「簡単なことですよ」
金に近い栗色をした、腰まである長い髪が風に揺れる。
線の細い、深窓の令嬢然とした少女だった。優しげな微笑みをたたえながら、そのまなざしはしかとブレイズ・ミラーを捕らえて放さない。
「わたしの能力で、あなたの権能を変質させました。『あらゆる事象を灰に帰す』のではなく、『あらゆる物質を灰に帰す』とダウングレードする形に。――ゼレルには実体がありませんからね。それではあれを壊せない」
「ふざけやがって……っ」
怒りに任せて漆黒の炎が滾る。瞬間、ミラーの方へ甲冑の首が動く。
「――ッ」
それに気づき、ミラーは即座にその権能を消した。それに合わせるように、またしても甲冑は標的を見失ったように辺りを見渡していた。
「現状ではもうあなたはゼレルの相手が出来ません。ここは退くのが賢明ですよ」
その言葉に、ミラーの握りしめた拳がわなわなと震える。
はらわたは煮えくり返り、今すぐにでもミラーはこの少女を殺しかねないほどの憤怒に燃えている。だがそれでも、彼に残った理性がそれを咎めているようだった。
この場で怒りに飲まれて権能を振るえば、即座に甲冑の標的になり、為す術もなく切り刻まれることを理解しているのだ。
ぐしゃぐしゃと掻きむしるように髪を握りしめ、ブレイズ・ミラーはぎろりとその歪んだまなざしで少女を睨めつける。
「お前の能力じゃ恒常的な能力の変質は出来ねぇはずだ。保って一週間ってところか」
「……それが何か」
「猶予くらいくれてやるよ。――次はねぇぞ」
吐き捨てるように言って、ミラーは背を向ける。
「……逃げる気かよ」
「似合わねぇ挑発してんなよ、贋作。さっきこの女も言ってたろ。今の俺の神炎は『あらゆる物質を灰に帰す』能力になっただけだ。全部投げ出せば、お前らを殺すことは変わらず出来んだよ」
彼らがゼレルと呼ぶ甲冑の標的になることを許容するなら、ミラーは東城たちの生殺与奪の権を握っている。そしてその選択は、おそらく酷く軽い。
だから、東城は唇を噛んで押し黙るしかない。
「じゃあな。次は贋作を宿したお前のそのふざけた頭、残さず灰にしてやる」
その宣告を残し、ブレイズ・ミラーの姿は消えた。――先ほどから見せていた瞬間移動能力で、遙か遠くへ移動したのだろう。
そして標的を見失った鈍色の甲冑もまた、しばらくは周囲を警戒していたが、対象が見つからないと諦めたように剣を下ろした。
そしてその眼前でまた空間に亀裂が走り、その罅割れへと飛び込むように消えていく。
甲冑がいなくなった後にはその罅も消え失せて、初めからそこには何もいなかったのではないかと、そんな錯覚を抱くほど変わりのない光景だけが広がっていた。
残されたのは東城と西條――そして、見知らぬ栗色の髪の少女だった。
「……助けて、くれたんだよな」
東城の問いかけに、少女は優しく微笑む。
「えぇ。なんとか間に合ってよかった。ゼレルが完全に破壊されてしまったら、もう取り返しの付かないところでした」
そう言って、彼女は東城の足下に転がったスプレー缶を拾う。
「超能力開発研究所が使っていた、催眠ガスに近い成分のものです。屋外では拡散してあまり効果はありませんが、元々がフリーズ寸前であったおかげですね」
それはつまり、彼女が初めから多くの前提を知り、この戦局を予想していたことを意味していた。
ブレイズ・ミラーという謎の襲撃者の存在も。
ゼレルと呼ぶ甲冑の乱入も。
それが能力に反応して襲いかかることも。
だから彼女はこの局面で現れ、東城たちを救うために、あえてその能力を阻害するような真似が出来たのだ。
「……君は、いったい」
東城の問いかけに、彼女はまた微笑みで答える。
「そう言えば、まだ名乗っていませんでしたね」
そして、彼女は告げる。
「わたしの名前はマリー・オリーブ。あなたたちが探している“白イ竜”という能力を得た、異能力者ですよ」
これにて、第14部『ロスト・コネクション』編、完結となります!
続く第15部は鋭意製作中ですので、しばらくの間休載させていただきます。更新再開をお待ちください!!