第4章 骸の灰 -3-
――全てを灰に帰す漆黒の炎が迫る。
とっさに爆発を生み出し、西條を抱えて東城はその危険域から脱する。――だが、正確に言えば、どこが危険かさえもう判別は付かない。
「鬼ごっこが楽しめるほどガキじゃねぇだろ。つまんねぇことしてんなよ」
その声は。
逃げる東城の一歩先から聞こえた。
「――ッ!?」
半ば反射的に身をよじる東城の目の前を掠めるように、漆黒の炎が駆け抜ける。灰となった前髪の数本が視界の端で舞っていた。
関節か腱がねじ切れそうなほとんど曲芸にも近い体勢の中で、それでも東城は眼球だけを動かして声のした方を見る。――だが、既にそこには誰もいない。取り残されたように、黒い炎の残滓がちらちらと燃えているだけだ。
「どこ見てんだよ」
次いで放たれたその声は、東城の向けた顔とは真逆の方向から。
「大輝くん……っ!」
抱きかかえられたままの西條の方が、ブレイズ・ミラーの姿にいち早く気づいていた。崩れた体勢で避けることすら出来ない東城に代わって、西條が生み出した氷柱が押し出すようにして、二人の体を漆黒の炎の支配域から遠ざける。
みしみしと体の内側で嫌な音がした。筋繊維も骨格も無視して、どうにか能力で体の座標だけを動かしているに過ぎない。もはや回避と呼ぶことさえおこがましい。
「どうなってんだよ……っ」
それで事態が変わるはずもないと理解していても、東城は毒づかずにはいられなかった。
ブレイズ・ミラーの扱う漆黒の炎は、触れる物を全て灰に帰す能力だ。かつて同じ能力に手を伸ばした東城だからこそ、それ以外の拡張性がないことを断言できる。
どれほどあの能力を極めたところで、その先には何もない。
「距離っていう概念にまで干渉してる、とか」
「あれは消去する対象を選べるほど便利な能力じゃねぇ。だからブレイズ・ミラーも一定の範囲内で使用しない、なんて制限をかけてるんだ。――もし仮に概念にまで干渉できるとしても、距離なんてものを消せばこの世界が一次元になって終わりだよ」
それはただの破滅でしかない上に、それほどの出力は到底、人の頭の演算で賄えるようなレベルにない。
だからこそ、からくりはある。
どこから現れるとも分からないミラーの漆黒の炎に狙いをつけさせまいと、業火を推進力に縦横無尽に周囲を駆けた。その演算の間隙を縫うように、東城は思考を張り巡らせていた。
――攻防一体の漆黒の炎の唯一の弱点が、その移動性だ。炎を展開できるのはミラーの周囲のみ。そこから浸食するように自在に伸ばすことはできるが、その速力自体に限界がある。そして、東城が操る通常の炎や爆発のように、推進力として扱うことも出来ない。
狙い澄ましたかのように、そのデメリットを埋める瞬間移動をブレイズ・ミラーは獲得している。――異能力のように深層心理に発現する能力が左右されるのであれば、おそらくこうはならない。確実に、意図してその能力を選んでいる。
「考え事してる余裕があるか?」
突如耳元に現れるその声に心臓を掴まれながら、それでも即座に方向を切り替え、東城はどうにか漆黒の炎を躱す。
だが、既に限界は近い。
打開策が見えない中、わずかでも触れるだけで致命傷となり得る炎を前に、ただ逃げ惑い続けるしかないのが現状だ。消耗するのは東城たちばかりで、ミラーは次第に東城たちの動きを的確に読み始め、その牙が喉元に食い込みつつある。
「……悪い、真雪姉」
その事実を受け入れて、東城は西條を抱えていた腕から力を抜く。
「大輝くん、何を」
「説教は後でまとめて聞くから」
そして、彼女を空中に置き去りにしながら、東城自身はあえて後方のミラーへと突進した。
「ハッ。気でも狂ったかよ」
「そう見えたか?」
言って。
眼前にまで迫る漆黒の炎を前に。
東城の右腕から放たれた黒き炎が、ミラーの操る炎さえ焼き尽くした。
「――ッ!?」
ミラーの顔が驚愕に染まる。だがそれと同時に姿は消え、東城が放った漆黒の炎は対象を見失って、周囲で燻るばかりであった。
「――贋作だって言ってたんだ。俺がこの炎を使えることくらい知ってただろ」
右腕で螺旋を描く漆黒の炎を携え、東城大輝は不敵な笑みを浮かべる。――だがそれは、ただの虚勢でしかない。
東城がイクセプションで獲得したこの炎は、彼が扱える範疇を超える。ミラーのように遠隔で操作ができない故に、常にその右手を犠牲にするしかないのだ。
能力の影響を打ち消す作用でどうにか耐えているが、それでも拮抗さえしていない。じわりじわりと、その皮膚が少しずつ灰となって削がれている。――もう猶予はない。
「さっさと決着をつけようぜ、ブレイズ・ミラー……っ」
「さっきも言ったろ。――贋作が本物に敵うかよ」
東城と一〇メートル以上の距離を取り、しかしミラーは雄々しく吠える。――その自信は、紛れもない事実に裏打ちされたものだ。
漆黒の炎は燼滅ノ王の炎すら封殺する。それはかつて、東城自身が林道愛弥と戦ったときに証明してしまっている。
攻撃と防御の要となるその黒き炎は、ブレイズ・ミラーに軍配が上がる。その操作力も出力も、イクセプションで上澄みだけを掠め取った東城には届き得ない。
ミラーと東城の差異は、瞬間移動能力か発火能力かという点。だが、攻防を漆黒の炎に委ねるほかない以上、必然的に移動能力の高低が勝敗を分ける。――そして、どう足掻いてもこと移動の面で瞬間移動能力に敵う能力は存在しない。
どれを取っても、東城大輝の能力はブレイズ・ミラーの下位互換に他ならない。
「だけど、それで負ける訳じゃねぇだろ」
フェニックス・グレンフェルと相対したときだってそうだった。ヒエラルキーの頂点に割り込む彼の能力を相手取る限り、東城がどれほどの研鑽を重ねても“王”は必ずその上を行く。――それでも、東城は諦めずに立ち向かったのだ。
能力の上下など今さら些末な問題だ。その程度で諦めて命を投げ出すのなら、今頃東城はここにいない。
「届くと思うならやってみろよ、贋作」
二つに分かたれた黒い炎が激突する。
東城が操る炎は、せいぜい自身の体と同程度の体積。それを倍以上も上回るミラーの炎に一息に飲まれる。
その勢いのままに自身へ迫る黒い炎に、東城は舌打ちと共に通常の火炎を推進力にして距離を取る。自分が立っていたはずの地面が抉り取られ、灰だけが残った。
「結局はその程度なんだよ、お前はな」
その東城の背後に転移したミラーは、勝ち誇ったように笑う。
「……っ!?」
ほとんどゼロ距離で迫る黒い炎を、東城は自身のそれでどうにか真正面から喰らい相殺する。
空気なのか互いの炎なのか、もはや何が灰になっているのかも分からないほど、夥しい量の灰塵が吹雪のように辺りに立ちこめていた。
東城が反転、攻勢に出ても、ミラーは即座に姿を消す。そして気づけば、また東城の死角から現れる。
今までの戦闘経験がなければその時点で終わっていた。――くぐり抜けた数多の死線、その身に刻まれた無数の傷の記憶。そのおかげで、東城はミラーの行動にどうにか反射で食らいつくことが出来た。
めまぐるしく立ち位置が入れ替わりながら、黒い炎は互いの身を喰らうことはなく、ただ周囲の空間を灰にし続ける。
――どれほど、そんな時間を過ごしただろうか。
有利なのは間違いなくブレイズ・ミラーだ。一瞬でも反応が遅れれば、一手でも手を過てば、東城の体は灰になる。そうでなくとも自身の炎に焼かれたその腕は、皮膚が裂け、血管の下の肉まで浮き上がっているような有様だ。
勝敗は火を見るより明らかで。
それでもなお。
ブレイズ・ミラーの牙は、東城の喉を裂くことが出来ずにいた。
「――ッ。いい加減にくたばれよ、贋作!」
苛立ちは既に臨界に達し、怒りへと変貌していた。先に“白イ竜”の情報を聞き出すという目的さえ、今は失念しているように見えた。
どれほど執拗に攻め立てようと、東城大輝は紙一重で躱し続ける。
「――見えてきた」
右腕はずきずきと痛む。じきに筋肉まで灰になれば動かすことすら出来なくなると理解しながら、それでも、東城大輝の笑みは崩れない。
「お前が『権能』って呼んだ能力と、その瞬間移動は接点がない。だから、それは別の能力じゃなきゃいけない」
「それがどうしたってんだよ」
「深層心理に左右される異能力じゃねぇ。――やっぱりそれは、俺たちのよく知る瞬間移動能力だ。だけど、遺伝子操作が必要な普通の能力は後天的に獲得できない」
だから、それを覆すトリックがあるはずだった。
そして東城の記憶の奥底に、そのヒントは既に眠っていた。
「後天的に獲得する超能力を俺は一つだけ知ってる。――所長の燼滅ノ偽王だ」
かつて東城と戦うためだけに、彼の燼滅ノ王を模倣し、そのデータをマイクロチップとして脳内に埋め込むことで使用を可能にした。それが黒羽根大輔の燼滅ノ偽王だ。
「あれが出来るのは所長だけだろうけど。でも、それに類する研究はきっと山ほどあった。林道の残したノートに書いてあったどれかがきっとそれだ。――お前は、超能力でその権能の弱点をカバーしてる」
「それが分かったから何になるって言うんだ」
「能力を発生させる元が必要になる。所長みたいなマイクロチップなのか、それとももっと別の形なのか。だったら、それは新しいお前の弱点だろ」
つまり、東城たちの勝利条件はその破壊。
その空間転移さえ封じることが出来れば、先ほどと同じく黒い炎の支配域内からミラーを押さえ込める。
「たとえば、そのネックレス。――随分と大事にしてるよな?」
「――ッ」
ミラーの顔が焦燥に歪む。それはもはや肯定に等しかった。
彼の胸元で光る、古めかしい鍵の形をしたアクセサリー。それがどういう理屈か、彼に瞬間移動能力を授ける起点になっているのだろう。
これだけの劣勢の中、東城は度重なる攻防の狭間で、それでもミラーが幾度となくとっさにそのネックレスを庇うシーンを目の当たりにしていた。だからこそ、その推論に辿り着くことが出来た。
――それがどれほどに異常かを、きっと東城は理解していない。
能力の性能では完全に劣っている中で、自身の能力に蝕まれる痛みに耐え、ただ無為に時間ばかりを浪費しながら、それでも諦めることなく逆転の一手を探り続ける。そんな手が本当に存在しているかも定かではない中で、だ。
普通ならとうの昔に心が折れる。どれだけ気丈に振る舞おうと、身体よりも先に心が死ぬ。
だが、東城大輝はそうならなかった。
その不屈が、わずかな勝機を見いだす源になった。
――だからこそ。
彼のイクセプションは、ブレイズ・ミラーの『権能』までをも獲得したのか。
「……うざってぇな」
その東城を前に。
ミラーは心底からの憎悪を込めてそう吐き捨てた。
「その程度で勝ち誇ってんなよ。お前は俺の模造品だろうが」
同時。
ミラーが漆黒の炎を銃弾のように撃ち放った。
全てを灰にする破壊の雨が、東城の真正面から襲いかかる。右腕でどうにか生成できる限界の炎で喰らうが、明らかに物量が違う。小手先の技術はなく、ただの出力の差のみでブレイズ・ミラーは押し潰そうとしていた。
「他人の力の上澄みだけ真似て、対等にでもなったつもりか? 救いようがねぇな。そのさもしい性根ごと灰にしてやるよ」
「……っ」
今までがお遊びであったとでも言うような猛攻に、東城は口を開くことさえままならなかった。火炎を制御し飛び回りながら、迫る黒炎の弾丸を自身の黒き炎で飲み込み灰にし続ける。
夥しい量の灰が、さらにこの一帯に立ちこめた。
世界すら灰にするような、そんな規模だった。
もはや微少量と切り捨てられないほどに、マクロ的に観測可能な質量が確実に地球上から失われていた。
舞い上がった灰に視界すら奪われる中で、それでも東城はミラーに立ち向かい続ける。世界を灰に変えながら、それでも勝利を掴むために。
――その、瞬間だった。
びきり、と。
分厚いガラスに亀裂が走るような音を聞いた。
「……な、んだ……っ」
視界は変わらず灰に覆われている。
なのに。
まるで眼球が割れたかのように、その黒の色彩の上に亀裂が浮かび上がっている。
その異様な光景に、東城大輝は今が戦闘の最中であることさえ忘れた。――ただ本能よりもなお深い部分で、致命的なほどの何かを引き起こしてしまったのだと、そんな悟りにも近い理解があった。
そして、それは。
あれほどの猛攻を繰り広げていたブレイズ・ミラーも同様に。
「……ハッ。おいおい、マジかよ」
ブレイズ・ミラーが震える声で笑うと同時。
その罅割れの向こうから、何者かが姿を見せた――……