第9章 自己犠牲 -7-
――あたたかなひだまりのような空気があった。
重い瞼を押し上げるのと同じように、優斗の意識もまたゆっくりと浮上してくる。
「おはようございます」
そんな優斗を覗きこむように、とびきり可憐な笑顔が待ち受けていた。いっそ心臓が止まってしまうのではと思うほどの笑みの破壊力を前に、優斗は視線を泳がせながら上ずった声で問いかける。
「……瑞姫」
「はい、なんでしょう」
「もしかしてだけど、膝枕されてる?」
「この辺りに私の太ももと間違えられるくらいに柔らかなコンクリート片があったのなら違うかもしれませんね」
そんなものがあったならこめかみをかち割られて気を失ったりはしていないだろう、と言うわけで、どうやらそういうことらしい。
後頭部に感じる柔らかな感触とじわりと広がるあたたかな体温に、優斗の意識はまた沈み込んでしまいそうな心地よさに包まれていた。ことさら痛覚の鈍い優斗にとっては、まだぱっくり割れている額の痛みも忘れてしまいそうなくらいだ。
「……もう少しこのままでもいいかな」
「えぇ。もう少しだけですよ?」
くすりと笑う姫宮を見て、優斗は心の底で安堵する。
確かに彼女は能力を制御できず苦しんでいる、だがそれでも、あのまま無理矢理に救おうとしていればきっとこの笑顔は二度と見ることが出来なかったのだろう。それだけは確かに過ちであったと、今の優斗は素直に認められていた。
「…………あれからどれくらい経った?」
「十五分ほどですね。大輝は他の皆さんと合流して、残党の処理をしてくれています。とはいえ、後詰めの来ない籠城戦で頼みの優斗が落ちましたからね。徹底抗戦されているわけではなく、戦意をなくした能力者を地下都市へ移送しているだけですけど」
本当に、終わったのだ。
この十五年の間日向優斗が生きてきた意味が、最強の能力者の手を借りてたった一晩もかからずに。
その事実に何か感慨を覚えることも、感傷に浸ることもない。そんな感情をまだ優斗は獲得できていない。
だがそれでも、何も感じることがないわけではない。
「敵わないね、本当に」
「……悔しいんですか?」
「少しね」
それは偽らざる優斗の本心だった。
いま東城大輝が行なっている全てのことは、本当なら優斗が担うべきことだったはずなのだから。
「そうですか」
姫宮は短くそう頷く。けれど、それをとても愛おしそうな笑みで眺めてくれていた。
「色々と、ひどいことをしちゃったね」
「私の思いを無碍にした分は、ぱっくり割れた額の傷でおあいこです」
「…………いや、ちょっと僕への罰の方が重い気が――……」
「何か?」
「なんでもないよ。うん、おあいこだね」
ドスの利いた姫宮の声に優斗は自分の意見を即座に引っ込めることにした。傷だらけで動けず、頭を姫宮に預けた状態での迂闊な発言は、ぱっくり頭割れリターンズとなりかねない。
「ですが、謝らなきゃいけない相手が多いのは確かですね」
「うん。大輝たちもそうだけど、一番はるりかな。あんな子に、ナイフを突きつけたんだから。すごく恐い思いをさせちゃったと思う」
姫宮を苦痛から解放するためにはそれしか手段が無いと思い詰めてしまったが、そんなことは言い訳にならない。怜二に知られれば殺されてもおかしくないような中で、優斗の味方をしてくれたのだ。あんなにも小さいのに優斗なんかよりもよっぽど大きな勇気を持った少女を、優斗はその手にかけようとした。
どんな理屈があったとしても、結果的に傷一つないとしても、それが決して許されない行為であることだけは分かる。
「それは本当に、大いに反省してください。そして、二度とあんな真似はしないように」
「そうだね。うん、本当に、言うとおりだ。……ところでさ」
「はい」
「ど、どうやってるりに謝ったらいいかな……?」
犯した罪が大きすぎて、いまさら「ごめんね」なんて一言で済むとはとても思えない。下手をすると、怯えてしまって謝罪の前に会うことすら叶わない可能性もある。
「それはもちろん、誠心誠意、です」
「…………具体的には?」
「るりが何を望むか次第でしょうね。たとえば、一緒に遊んであげるとか」
「それくらいは謝るとか関係なく約束してたよ。今じゃ、そもそも僕の話を聞いてくれるかも分からないけど……って、どうしたの?」
「へぇ、そうですか。遊ぶ約束をしてたんですね。へぇ、そうですか。私とは、一度もそういう約束をしていないのに」
しまった、と気づいたときにはもう遅かった。完全に手を誤った――はずなのだが。
「まぁいいですけど」
「……あれ、やけにあっさりな気が――」
「それより」
咳払いと共に強引に話題を変えられた気がした。――まぁ、実際のところ姫宮自身、優斗を差し置いて東城たちと遊んでいた身なので、いまさら優斗にとやかく言える義理ではないと気づいただけなのだが。
「大事なのは、正解は何かとか、そういうことではないと思いますよ」
「……うん、そうだね。僕に出来ることなら何だってするよ。それでいつか、許してもらえたらいいな」
心なんてどこにもないと思っている優斗だが、それでも、彼女を傷つけた以上は償いが必要だ。差し出せるものがないのに出し渋ったりはしない。彼女が望むのなら、何だって叶えよう。そうしていつか許されてこそ、こうして姫宮と笑顔で語り合える資格があるはずだ。
「――だそうですよ、るり」
「……へ?」
そう言ってまたくすりと笑う姫宮の視線の先を見る。
そこに、困ったような顔をして幼い少女が佇んでいた。
「お、お兄さん……」
「…………ごめん。そんな言葉で済まないとは、思ってる。すごく恐い思いをさせたよね。だから、せめてるりのしてほしいことを――……」
「遊んで、くれますか?」
まだ震える声で、彼女はそう言った。
「…………、」
「そ、それとも、るりのこと、きらいになってしまったんでしょうか……?」
あぁ、と。
なんて愚かだったのだろうと、そう優斗は自らを恥じ入るばかりだった。こんなにも優しく汚れを知らない少女が、自分へ恨みを抱いているのではだなんて、そんな思考自体があまりにも無礼だ。
「そんなことない。全然、そんなことないから」
「じゃ、じゃあ……」
「遊ぼう。何度でも、いつまでも」
そんな優斗の約束に、朝日奈はぱぁっと顔を明るくさせた。
与えてもらってばかりだった優斗だが、それでも、誰かのために何かをしてあげることが出来る。そんなことを、こんな小さな少女に教えてもらえたような気がした。
――そのときだった。
「それがお前の選択か」
怨嗟の滲んだ、けれどほとんどがいつもどおりの冷淡な声だった。
その声に、姫宮の身体が一瞬で強張るのを感じた。けれど、優斗はそんな彼女にほほえみを向けて、そっと頬を撫でる。
そして名残惜しさを感じながらも身体を起こし、姫宮と朝日奈を自身の背に隠すように膝立ちになりながら優斗は声のした方へ見やった。
白衣に身を包んだ、一人の壮年の男――日向怜二だった。
もともと落ちくぼんだ目やこけた頬は、きっとこの数時間の間でさらにひどくなってほとんど骸骨のようですらあった。
「……はい、父さん」
「それが、何を意味しているかは分かっているんだろうな」
「もちろんです。――だけど僕は、瑞姫のこの笑顔を曇らせちゃ駄目だって思えたから。るりの幼い願いに応えていきたいって思えたから」
「それが、お前の母を蘇らせる唯一の手なんだぞ……っ」
まるでそんな情に訴えようとするように、全てを奪われた一人の男の無様な嘆願が灰色の世界に木霊する。
そんな感情をそもそも彼は与えようとはしなかったのに――なんて、そんな言葉は優斗の口から漏れはしない。
優斗がそんな怒りの感情さえないから――ではない。
誰か大切なものを思うあたたかな気持ちも、その為にならなんだって犠牲に出来るという残虐さも、等しく優斗も姫宮から学び得たものだ。
だから、今なら怜二の行動の全てを理解できる。
「……母さんのこと。愛していたんですね」
「当たり前だ」
「なら、分かり合えるでしょう。――その気持ちは、いま僕が瑞姫に抱くものときっと同じものだって」
そんな優斗の言葉に、怜二は目を伏せ唇を噛む。じく、と赤い珠が滲んで滴り落ちる。
「――分かり合えるものか。お前のサクリファイスの完成にこのプロジェクトが必要だ。ここを捨てることは、お前の母も、その娘も、全てを諦めることと同じだ。そんな愚かな子供と、何か一つでも分かち合えるものなどあるものか」
「同じにはしない。たとえそれがどんなに低い可能性の話だとしても。――それでも僕は、瑞姫の選んだ道を選ぶよ」
その言葉に、まるで何かを見限るように日向怜二はうなだれたまま背を翻した。
きっと、今はまだ届かない。
失意にくれた十五年の歳月が、そう簡単に癒やされることなどあろうはずもない。きっとこれからも、彼は彼のやり方で最愛の妻の面影を追い求めるのだろう。
だけど。
それでも。
いつかは届くと信じて。
その白い背中に、優斗は静かに宣言する。
「もう僕は、誰の犠牲の上にも立たないよ」




