第3章 落陽 -4-
それから数週間。
警戒する芽依や雄大たちをよそに、陽輝たちの周辺は静かなものだった。
能力者同士の諍いは増えている。だがそれらは全て、低レベル能力者によるものばかり。氷室冬夜の指示と言うよりは、彼に取り入る方法がそうして暴れて目を付けられること、と広まっているかららしい。――つまり、それらを収めたところで氷室冬夜には繋がらない。
まるで消えてしまったかのように、彼に動きは見えなかった。
「しかも、この前の申請が全部そのまま通るし……」
何人かだけでも合わせられれば、と思っていた自由日の申請は、まさかの六人全員が同日に通るという奇跡を見せていた。
陽輝を護ると言う雄大たちの思惑通り、あるいはそれ以上に事は運んでいる。
――それが。
どうしようもなく、気味が悪い。
そんな不安な様子を感じ取ったのか、晃が顔を覗き込んで首をかしげる。
「どうしたんだよ、陽輝。顔色悪いぞ?」
「ちょっと気がかりだってだけだ。あれから三週間あるかないかくらいか。氷室冬夜の動きが見えないことに違和感がな」
「……考えすぎじゃないの? そもそも、僕たちって研究所に縛られてるわけだし。好き勝手やって来た今までが異常なだけだよ」
連はそう言うが、それは、どこかに希望的観測があるような気がしてならない。
この研究所の監視カメラを全て把握しその死角をつき、その上でクラッキングという技術を普及させることで研究所の内外で自由に能力者が戦闘できる環境を整えたのが、氷室冬夜だ。
自身は精神感応能力者ではないから、彼のシンパがそこまで拡大しているという証左に他ならない。
それでも、何も出来ないのだと思いたい。
連も、そして陽輝も、氷室冬夜自身との接触がある。あの常軌を逸した殺気の嵐をその身に浴びれば、彼との対峙を無意識のうちに考えたくないものとしたくなるのは、当然の生存本能だろう。
だが陽輝はその逃避を押さえつけて、確信めいたものを感じていた。
――氷室冬夜は、必ず来る。
その為に何をすべきなのかすら一切分からないこの状況が、ひどくもどかしい。
「――ま、て」
本当に、分からないのか?
そんな自問が頭を過ぎる。
氷室冬夜の負のカリスマ性は絶対だ。
それこそ、九千もいる能力者の二割近くは彼に頼るかあるいは模倣して、あちこちで戦闘を起こしているとさえ聞く。
その彼が、「またいずれ」と宣言した。
そのまま放置する? ありえない。
だとしたら、彼はどのタイミングを狙って――……
「――ッ、そういうことか」
陽輝たちが氷室冬夜を警戒するなど当たり前だ。それを彼自身が見越さないはずがない。
では、氷室冬夜は何を狙っていた。
六人全員の申請が通った、明日に控えた自由日だ。
研究所員を抱き込んだのだろう。実際、芽依も氷室冬夜が暴れていることを内々で処理するために所員と交渉し、外へ出ている。彼のカリスマがあれば、それくらいの無茶は押し通せてしまうだろう。
だとしたら、罠だ。
明日の自由日に間違いなく氷室冬夜は動く。
「おい、みんな。明日なんだけど――……」
まだ軌道修正が利くタイミングだと、そう思っていた。
――だが。
思い至るべきだった。
陽輝が氷室を警戒し、氷室はそれを見越し、陽輝はそれに感づいた。――ならば、それすら氷室冬夜は計算している可能性を。
音があった。
米袋か、セメントか、それとも土嚢か。所内にいる限りほとんど見たことはないが、そういったものが崩れ落ちるような、そういう音に似ていたと思う。
重く、柔らかく、水気の多くないそんな音。
それは。
宝仙陽輝の眼前で、たった一人の妹が突如意識を失い、倒れ伏した音だった。
「ひ、な……っ!?」
誰も彼も、状況を認識できない。
ただ呆然と、脂汗を浮かべて動かない彼女を見つめるしかない。
「誰か。誰でもいい、所員を呼んでこい!!」
いち早く冷静に戻ったのは、雄大だった。ざわつく談話室の中で、入り口への道を確保するようにかき分け、雄大は叫んでいる。
だが、兄である宝仙陽輝は動けない。
理解がそれより先に進まない。思考回路がそこで停滞し、ループし続けている。何故だとか、誰のせいだとか、そんなことを考える余力さえない。彼女に駆け寄ることすら。
ただ彼は、呆然と所員に抱き抱えられていく陽菜を見ていた。状況の説明を求めてか、複数の所員が陽輝たちの前に残っている。
しかし、その声はガラスの向こうのように遠い。
――代わりに。
その男の声だけが、明瞭に、鮮明に、突き刺さるように鼓膜を震わせる。
「余興は楽しんで貰えたか、双光ノ覇王」
脳が沸騰する。
「――テメェか氷室冬夜ァぁぁああ!!」
絶叫し、背後に立つ少年に掴みかかろうとする。
だがそれは即座に所員に押さえつけられる。
地面に叩き伏せられ、四肢を押さえつけられ、頭すら押し潰すように封じられた状態で、宝仙陽輝は叫声を上げながら、遠ざかる黒い少年の背を睨み付けるしかなかった。




