第4章 慟哭の果て -5-
気が付くと、東城は倒れていたらしい。
血が固まって目を開く事も多少の痛みが走るが、今どんな状況なのかも分からないまま目を閉じ続ける不安の方が勝る。ゆっくりと固まった血を剥がすように目を開く。
その東城の視界に飛び込んできたのは、かなりの至近距離にある柊の顔だった。
「やっと、やっと起きてくれた……ッ」
涙は見せまいとしているらしいが、泣きそうなのが分かるほど頬と目が赤い。それでも彼女の顔は喜びに満ちていた。
神戸が気を失った事で能力は途絶え、結果として柊のGVHDは治ったらしい。熱で真っ赤だった顔も、今では随分と健康そうないつもの色に戻っていた。
「えっと、おはよう?」
「うるさい、ばか……。ホントに、死んだかと思ったんだから……。私の能力で酷い痛みの信号を打ち消したりしたけど全然目覚めないし、一時は心拍数まで下がって、下手したら眠ったまま死んでたのかもしれないのよ?」
「そうか……。色々ありがとな。心配かけちまったみたいだけど、おかげでもう大丈夫だから」
泣きそうな顔を見上げている東城は、ふと気付く。
(……見上げている?)
とりあえず状況を整理しよう。
自分は寝ていて、目の前に柊の顔があって、それもとても近い。
そして後頭部や首が何やら妙に温かい感触に包まれている。
何と言うか、この上なく心地よい。もうこのまま眠れたらどれほど幸せだろうかと思うほど。
「あれ……え? まさか膝枕……?」
「……地面に寝かせたままにするわけにもいかないから、仕方ないでしょ。私に気を使ってスルーするか、もう一発気絶するか、どっちがいい?」
柊は未だに泣き出しそうな顔なのに、パリッと青白い光が散った。心地よさは一瞬で恐怖に変わる。
「……スルーします」
苦笑いしながら、東城はこのまま身を任せる。
こんなにも心地のいいものをわざわざ手放すのが惜しいわけではない。ただ単に気絶したくないというだけだ。柊と離れるのが嫌とか、そんなわけではない。――などと、心の中でまで言い訳をしていた。
「とにかくホントに良かったわ……」
柊は徐々に目尻に溜まる涙を拭うと、太陽のように明るい笑みを浮かべた。
それを見るだけでもう東城には十分だった。これ以上何も望まない。
「ところで、アンタ立てる?」
「立てなきゃ病院にもいけないだろ……。てか痛みが酷過ぎて逆に何も感じねぇし、まぁもうちょい休憩したいってのはあるけど、いつまでもお前の膝を借りるわけにもいかねぇしな」
「仕方ないから、肩貸してあげようか?」
柊の提案は至極まっとうなものだろうし、これが白川みたいな男友達の提案なら東城はもろ手を挙げて乗っかった事だろう。だが。
「……男にはプライドっていうものがあってな」
「見栄を張るのは勝手だけど、そのプライドっていうのは人の膝の上で語るものなの?」
「…………、」
涙目になりながら東城は柊の肩を借りるしかなく、それを見た柊がくすっと笑って東城をゆっくりと抱きかかえながら起こしてくれた。
「うわぁ。やっぱり、相当出血してるわね」
ほとんど歩けない東城を、柊は苦も無く支えていた。いくらか弱く見えても柊も戦いに慣れているからか、その程度でよろめくほどひ弱ではないらしい。
「――とにかく、もう終わったわね」
ため息交じりにいながら、柊はくすりと笑った。
「何言ってんだ。まだ研究所は潰してねぇぞ」
怪訝そうな顔で東城は言うが、柊は微笑んだままだった。
「あぁ、そうか。アンタは聞いてなかったのね。アンタが寝てる間に上の階層から連絡があって、七瀬が能力者を解放してるんだってさ。つまり、もうやることはないわ」
「ンなワケねェだろうがァ」
ぞくりと、背筋を震わせる声がした。
それは人の発する声としての音程さえ狂っているような気がした。東城はこれほどに歪み切った音を、聞いた事が無い。
「誰だ……」
第4階層の薄暗い闇のその更に深淵から、それらを切り裂くようにそいつは姿を現した。
真っ白な白衣に身を包んだその男。見た目から推測するに歳は三十ぐらいだろうか。白衣の下は深夜にコンビニに行く程度のラフな格好だったが、それらの上からでも分かるほど服で隠された肉体からは威圧感が漂っていた。
「オイオイ、良く見りゃ分かンだろォ?」
そいつはそう言いながら、オールバックにした髪を癖なのかさらに掻き上げた。
そこで東城はある物に視線を奪われた。彼の胸に光る、金色のバッジに。
この超能力者の為だけの都市に白衣を着て現れた大人。そして胸に光る金バッジ。それらを統合して導かれるのは、名前を必要としないただ一人の存在。
「研究所の所長か……っ」
東城は柊の肩から腕を外すと、痛みに顔を歪めながらもどうにか一人だけで立った。
「正解だァ。褒美に飴でもやろうかァ?」
ぱちぱちと心ない拍手を送り所長は嗤う。その笑みは神戸が自分の真の姿を隠すために見せた、三日月形に口を吊り上げるあの気味の悪い笑いに似ていた。
「いらねぇよ。だいたい、どうしてここにいる?」
「あァ。今頃研究所は潰されてンだろォ? だから大量の能力者が今この街に流れ込ンでるハズだァ。瞬間移動能力者がロクな確認も無しに地下都市に入れてくれるンでなァ。便乗したってワケだァ」
「訊いてるのはそういう事じゃねぇよ。今さら何しに来たって訊いてんだ」
東城の言葉の裏には、体のダメージなど感じさせない気迫があった。死の一歩手前の満身創痍の体で、一時は終わったのだと気を緩めてさえいたというのに、東城はすぐに現状を受け入れ臨戦態勢に入っていた。
「あァ。気が付かねェのかァ?」
にたにたと気持ちの悪い笑みを浮かべたまま、所長は舐めまわすような一瞥を倒れている神戸にくれた。
「オレにとっちゃ今までの流れなンざどうだっていいンだよォ。そもそもこの流れだってオレが用意したシナリオの一つに過ぎねェンだからなァ」
「だから何を言って――ッ!」
瞬きの一瞬で東城の目の前に所長が立っていた。そしてその拳は、既に東城の腹にめり込んでいた。
「テメェらを殺す。それ以外に所長がテメェらレベルSに会う理由があるかァ? 一年前に出し抜かれた恨み、積もった利子を付けて返してやるよォ」
みしみしと体内で嫌な音が発せられるのを聞きながら、東城はようやく吹き飛ばされて数メートル転がった。
「っぐァ……ッ!」
「大輝!」
「うるせェよ、霹靂ノ女帝よォ。死ンじゃいねェ。その程度で殺せンならオレはわざわざこんな回りくどいやり方を選ンじゃいねェンだからなァ」
ごきごきと拳の骨を鳴らしながら、所長は柊の方を見ようとはしなかった。取るに足らない、とでも思っているのだろう。
「ッたく、寝ぼけてンのかァ? 仮にもオレは生身で九千の能力者を押さえつけて来たンだぜェ。まして死人と変わんねェボロボロの状態で、余裕かましてンじゃねェぞォ」
「あぁ、おかげで目が覚めた……」
口の中の血を吐き捨てて、東城は震える体でどうにか起き上がった。
こうして所長が来た事は、何も驚くような事ではない。むしろもっと早くに気付いて然るべき事だった。
神戸はクローンだということは、以前にも神戸拓海はいた。それも過労で次々と消費されていくのならその数も相当だろう。その全てが今の神戸と同じだとは思わない。だが、中には今の神戸のような計画を考えた者もいたはずだ。それなのに研究所はその対策を何一つとして講じなかった。どころか、こうして東城とぶつかっている。
そこに理由があるとすれば、おのずと答えは導かれる。
「反逆の意志のあった神戸と俺を戦わして、対消滅でも狙ったか」
「どっちだっていいって言わなかったかァ? テメェが勝とォが負けよォが変わンねェンだよォ。どォしたって、テメェを殺せるならオレはそれでいいンだからなァ」
今の戦いも一年前の記憶を失った理由も、何の意味も成さない。初めから結末だけが決められていたシナリオで、それ以前の物語は何一つとして関係ない。たとえ東城が何をどうしようと、この所長は目の前に立ち命を狩りに来る。本当にただそれだけのちっぽけな話だ。
気に入らないのなら、ここで止めればいいという程度の話なのだから。
「なら俺は、お前を殺してでも止めてやる。神戸と違って、テメェを生かす理由なんか欠片もねぇんだからな」
研究を止めさせず、全ての能力者を売りさばく為。そんな狂った理由でこの男はここまで人の心を踏み躙り、自分の思うように計画を進めて来た。七瀬や神戸や東城自身、そして柊が傷付いたのも、全部この男のせいだ。
そう思えば抑え切れない、抑える気にもなれない、焼けつくような怒りが炎へと姿を変えて吹き荒れた。
能力者の最年長が二十歳程度なら、どう足掻いても所長は無能力者で間違いない。遺伝子操作が要る以上それは絶対のはずだ。ならば最強の能力者である東城が負ける道理はない。
右腕に炎を纏い、それを薄く延ばす。それは七瀬の真似をして生み出した炎の刃だ。そしてそれを所長の肩を貫かんと投擲する。
「あァ。残念だったなァ」
言葉と同時、所長には掠りもせずに炎が消えた。まるで脆い硝子でも叩いたかのように、火の粉となって散り散りに消えていく。
「何をした……ッ!」
「オイオイ。人間が自分で考える事を放棄したら、ただの雑草と変わンねェぞォ」
所長は退屈そうに欠伸までしてみせた。理論上最強でそれ故に抹殺せよとまで命じた相手を目の前にして、それだけの余裕を見せたのが強さの証明だろう。
「大輝の能力を消したって事は、薬品でもぶちまけて瞬間的に酸素を奪ったとかそんなところね。なら私の敵じゃない」
柊が東城の前に立って所長を睨んでいた。
「テメェだって神戸との戦いで危険なレベルまで追い込まれてたンだろォ?」
「確かに神戸との戦いで疲れちゃいるけど、アンタが高をくくるほどじゃないわよ」
GVHDで疲弊しきっていたはずなのに、柊の電光は一瞬で所長の喉元へと喰らいつく。
はずが、それすらも砕けて消えた。
「そ、んな……ッ!?」
柊も東城も、驚愕していた。
東城と柊の能力には共通項が無い。つまり、あの白衣の下に隠せるような量の物では二人の能力を掻き消せるはずが無いのだ。
だが実際にそれらは全て霧散した。他の何かに頼ることなく、所長は単純に能力を無効化しているとしか考えられない。
「あンまり馬鹿面下げられてもオレのテンションが下がるから教えてやるがなァ。何も驚く事じゃねェだろォ? 能力を作る方法があンならそれを無効化する方法があったってよォ」
今になって気付いた。所長の笑みは余裕から来るそれではない。それは、ただ人を見下している、蔑みにも似た笑みだ。
「たかだか能力者風情が全部を知ったような気になってンじゃねェよォ。シミュレーテッドリアリティにアクセスする術は一つじゃねェ。遺伝子操作以外にも薬物投与だったり機械だったりでいくらでもアクセス出来ンだよォ」
所長はそう言って、自分の頭を軽く叩いてみせた。
「オレは脳に特殊なマイクロチップを埋め込む事でシミュレーテッドリアリティにアクセスしたァ。それによって可能な事は、正常なエラーの執行だァ」
所長はゆっくりと歩み寄りながら説明する。本来ならそれは馬鹿のする事だ。自分から己の持つ能力を説明するなど、相手に弱点を露呈するだけだから。
だが能力者を生み出し彼らを押さえつづけた彼の頭脳がその程度であるはずもない。
そこに弱点など存在しないからこそ、それを告げる事で東城たちに絶望を植えつけられる。
「テメェらの能力による世界の改竄を、オレが用意したエラープログラムが検知し、シミュレーテッドリアリティそのものがそれらを無かった事にする。オレのはそういう無能力だァ」
ブラフではない。もう既にそれは目の前で見せつけられている。
考えれば分かる事だ。都市を形成できるほどの人数の能力者全員を、ただの人間に押さえつける術などあるはずもない。
まして反逆の意志を示した一年前、七瀬のような十分な強さを持った千七百もの能力者はどうして研究所から逃れられなかったのか。
そこには超能力など関係させない、絶対の力があるからだ。
「さァて、ここでテメェらを殺せば能力者の精神的支柱は完全崩壊。よしんば持ち堪えたところでここを制圧して研究を再開させるのも時間の問題だなァ」
「テメェ……ッ!」
「足掻きたきゃ足掻けよ、実験動物ォ。負ける気はしねェがなァ」
拳を握り構える所長を視界に納めながら、その端で辺りをちらりと見渡す。神戸が数十メートル先に倒れていて、そこにはタングステンの槍が転がっている。だが東城が探していたそれの一部だった短剣は完全に折れて傍にあった。あれではもう使い物にならない。
「――仕方ねぇ。テメェの言う通り、足掻けるだけ足掻いてやろうじゃねぇか」
投げやりになったわけではない。それは、まだ諦めないという東城のまっすぐな意志だ。
「下がりなさい……って、言って下がるわけないわよね。じゃあ仕方ないわ」
少し笑みを浮かべながら、柊が東城の横に立った。
壮観、と言えるだろう。九千も生み出された能力者の中でたった三人しかいない頂点の二人が並び立っているのだ。見えざる気迫が顕現したかのように、二人の放つ無意識の威圧は相当のものだった。
「ここ最近は手加減しっぱなしだったし、暴れさせてもらいましょうか」
空気が叩き割られる轟音と共に、爆発でもするように雷が柊の全身から溢れ出た。
「好きにしろよォ。オレが負けるなンざありえねェンだからなァ」
東城が相対した三人、そして柊が今まで戦ってきたどの能力者とも違う。所長の纏う雰囲気は、異質だった。
それは体を蝕むように広がり、骨をかじるかのように入り込み、奥底から心身を震えさせる、そんな異常な恐怖を内包していた。
だがそんな畏怖など、東城たちには関係なかった。東城も柊もこの程度では気圧されはしない。逆にそれらを喰らう程の、圧倒的な気迫があった。
「やる事、分かってるな?」
「私を誰だと思ってるわけ?」
返された問いに笑みで東城が答えると同時に二人は動いた。
能力による高速移動で一瞬のうちに最高速度に達した二人は左右から所長を挟みこんだ。速度で翻弄し、所長が認識できない内に攻撃をしようという算段だ。仮に上手くいかなかったとしても、惰性の速度があれば十分に所長にダメージを与えられるはずだ。
「甘ェよ」
だが、二人の速度は所長に近づいただけで消えて、不自然な姿勢で止まってバランスを崩しそうになる。
「慣性も消えたのか……ッ!」
「人の話を聞けよォ。オレは能力を消すだなんて言ってねェ。無かった事にする、って言ったンだがなァ」
東城も柊も驚きを隠せなかった。
つまりそれは、どれだけ足掻いたところで、余波すら所長に届かせる事は出来ないということだ。その上、見ての通り所長はそれを認識する以前に無効化しているのだから、完全に自動で発動する能力だろう。
たとえどれだけ翻弄しようと、たとえどれだけの威力をぶつけようと、何も意味を成さない。初めからそんな能力は無かった事になるのだから。
「いつまで呆けてンだァ?」
ごっ、と鈍い衝撃を顔面に感じて東城は後方へ弾かれた。
「さァ愉快な愉快なショータイムだァ。せいぜい鳴いてオレを愉しませなァ!」
所長が腹の底から笑い出す。狂気に満ちたその声が、この灰色の空間に不気味に反響した。
「うるさいわよ」
生身の拳で柊は所長を打った。だが能力補正の無い女子の一撃で、これだけ鍛え上げられている所長の体にダメージを与える事は出来ない。
微動だにしなかった所長は回し蹴り一つで、疲労こそあれほとんど無傷であった柊を軽々と吹き飛ばした。
「柊っ!」
「たかだか蹴りを喰らったくらっただけで、ほぼ無傷よ。心配し過ぎなのよバカ」
空中で磁力を操り姿勢を制御すると、柊は東城の真横に華麗に着地してみせた。
「アンタこそ大丈夫なわけ? 今受けたのはたった一撃でも、アンタに蓄積されてたダメージは相当なはずだし……」
「神戸の攻撃に比べたら大したことはねぇし、アドレナリンが出てんのか少なくとも今はまだ大丈夫だ……。俺の心配なんかより、あの無効化能力をどうするかが大事だな」
所長の動きを観察しながら、東城は早口で言った。余裕を見せるかのように所長はただ立ち、二人が出るのを待っていた。
「その能力無効化だけど、アイツ武器を使ってないのよ。無効化能力があるなら普通の武器でも能力者相手に十分な殺傷能力があるのにね。だから使わないって事は、たぶん武器を使えない理由があるんだと思う。例えば、無効化は常には発動できないとか」
東城や柊を相手に金属類の武器は相性が悪いなんていうものではない。神戸のような再生能力が無ければそれを握ったが最後、腕が溶けるか感電するか、そこを起点に体を破壊されかねないからだ。
所長があえてそれらを持っていないのだとすれば、彼が能力の無効化に全幅の信頼をおいてはいない事が分かる。
「つまり穴があるかもって事か。なら、全力でぶつかるしかねぇよな」
東城は全身から火の粉を散らした。不利な状況にもかかわらず、その瞳は輝いているようにさえ見えた。
「……出来るの? その体で」
「出来ねぇと思うんなら話を持ちかけてねぇだろ」
笑って答えて、東城は炎を推進力にして飛び上がった。
「オイ、ガキが大人を見下ろしてンじゃねェぞォ」
所長は悪態を吐きながらしかし東城を見はしなかった。どうやら東城は囮で柊の攻撃が本命だ、とでも思われたのだろう。
「舐めんじゃねぇぞ」
所長の頭上からプラズマの雨を降らせる。しかしそのどれもが所長に触れる五十センチほど手前で無かった事になり、消え去る。
「これなら……ッ」
東城がプラズマを撃ち終えると同時、柊の放つさながら龍の顎のような落雷が八方から所長を襲った。
しかしそれも、紙に書かれた絵のように容易く破られ消え去った。
「いくらやっても無駄だって分かンねェかァ?」
「まだだ」
そして柊の放電にかぶせるように、東城は爆発を起こした。凄まじい爆燃と爆風が辺りの瓦礫を巻き上げる。これを受けて無事でいられる人間など――
「無駄だっつってンだろうがァ」
しかし嵐でも吹き荒れるかのように、所長が腕を払うだけでそれらは全て掻き消された。
(無効化は近距離に限られてるみてぇだけど、無効化範囲に隙間もねぇ上に連続使用に制限もねぇ……ッ!)
「考え事かァ? 呑気なモンだなァ」
考えていた東城に一瞬で近づくと、所長は東城の腹に拳を叩きこんだ。東城の口から、鉄臭いものの混じった唾液が散った。
「舐めんじゃねェよ、このオレをよォ。テメェは最強の能力者だが、能力者がオレより上だなんて言った覚えはねェぞォ」
倒れ伏した東城の顔面を、所長は踏みつける。思わず呻き声が漏れた。
「やめて!」
リニアで加速した柊が、所長にその蹴りを繰り出す。
だが届かない。それは所長に触れる手前で電池でも切れたかのように速度を失ってしまう。
所長は気だるそうに、柊の蹴りを右手で掴んでいた。わざわざ体を半回転させてまでだ。しかしどうして、と浮かんだ疑問が所長のため息で掻き消された。
「別にオレにはガキの下着を見て喜ぶ趣味はねェよォ。まァ、燼滅ノ王が死んでくれンならテメェみてェなガキを相手にしてもいいンだがなァ」
「放して……ッ!」
雷雲のようにバチバチと放電する柊だが、それらも全て消えていく
「あんまり暴れンじゃねェよォ。じゃねェと、この綺麗な脚が折れちまうぜェ?」
言葉と同時だっただろう。その瞬間を踏みつけられていた東城はビデオのスロー再生のように、その光景を眺めるしかなかった。
所長の右手の指が柊の脚へと食い込み、更に力がこもる。その状態で所長が軽くひじを曲げたのまで鮮明に見えた。
べぎり、と少し重みのある耳障りな音が東城の鼓膜を震わせた。
「―――――ッァァァあああああ!!」
喉が裂けそうな叫びをあげて、倒れた柊がコンクリートの上で脚を押さえてもがく。
「そこを退け!」
自分を踏み躙る所長の脚を渾身の力で振り払うと東城はすぐに柊を抱きかかえた。
思わず目をそむけたくなるものが、そこにあった。
柊の右脚の脛骨が完全に折られ、それは肉を突き破って血に濡れた頭を見せていた。
「っぁぁ……。大、丈夫よ、たかだか脚の一本で……ッ!」
彼女の言う通りだ。脚の一本、東城の肩に比べれば酷い怪我ではない。失血死もしないし、現代医学でも数カ月で完治するだろう。
落ち着け。まずは冷静に――……
「ざ、けんなよ……ッ!」
冷静になど、なれるわけが無かった。
ぷつん、と頭の奥で何かが切れる音がした。
「護るって、約束したんだ……」
ゆらりと、陽炎が揺れるように彼は立ち上がった。
そして、腹の底で何かが弾けた。
「テメェは絶対に許さねぇ!!」
「吠えンなガキがァ」
そんな挑発など既に激高している東城には意味を成さず、東城が放った特大のプラズマ球は所長に襲い掛かった。しかし、それすらも触れる前に消え去った。
「たった三人しか居なかろォがここは戦場だぞォ。誰かが傷付くなンざ、当たり前だろォがァ」
「うるせぇ!」
既に満身創痍の身体だ。ただ動くだけでも骨が軋み、筋肉が千切れるような音が内側から聞こえた。
それでも東城は右の掌からロケットのように炎を噴き出して、所長に猛然と突進する。
しかし、止まる。
彼の半径五十センチに身体が入った瞬間に、東城の噴き出す炎は消えてしまう。
「目障りなンだよォ」
彼の頭突きが東城の顔面を潰した。後方へ仰け反るように吹き飛ばされる。鼻血が出ているのか、鉄のような臭いが鼻の奥を満たしているし呼吸もしづらく感じた。
だが東城はそれでも立ち止れなかった。
所長が憎い。確かにそれはある。しかしそれ以上に、自分が許せなかった。
護ると豪語した。二度と彼女が泣かないように、他の誰にも傷つけさせないと、そう誓った。
それでも、護りきれなかった。
彼女は脚を抑えて痛みに耐えている。眼に溜まる涙は、その激痛を物語っている。
「くそ……ッ!」
だから、せめて所長はこの場で叩きのめす。
もう一度加速し東城は所長にぶつかりに行く。
しかし、また動きが止まる。その瞬間にカウンターが顎を打った。
「学習しろよォ。テメェの能力じゃオレには届かねェ」
「黙れ!!」
視界がぶれても吐き気がしても、それすら怒りで覆い隠した。
東城は細いプラズマをガトリングのように撃ち出す。空気が熱で歪み、何かが弾ける音が辺りを埋め尽くす。だがそれらも、やはり何も無かったかのように消え去る。
それでもまだ撃ち続ける。目の前がプラズマのオレンジだけに染まり、あまりの熱量でコンクリートが所長の無効化の効果範囲を残して焼け焦げ始めても、まだ止めない。
どれだけの時間、それを続けただろう。
徐々にプラズマは速度を増し、数を増やし、熱量を上げ、所長を喰らおうとする。
そこで、一本の橙の閃光が所長の頬を掠めるのを見た。
「――ッ!」
確かに見た。
たった一本の細いプラズマだが、間違いなく能力無効化という絶対防御を食い破った。
「チッ。一瞬とは言え処理落ちかよォ。理論上はレベルSの演算速度にも対応出来るはずなンだがなァ……ッ!」
「うるせぇ。これでテメェの能力無効化は完全じゃねぇって分かったんだ! ここからは、全力でテメェを――」
「うるせェのはテメェだ燼滅ノ王よォ。処理落ちなンざ一瞬の事だし、まさかオレの無効化が能力を打ち消すだけだとでも思ったかァ?」
更に飛んできたプラズマの一つが、所長とはほど遠く、上空へと飛んでいった。
「!?」
「驚く事じゃねェだろォ。エラーのレベルを上げて、シミュレーテッドリアリティの改竄を掻き消すンじゃなく変更するように仕様を変えただけだァ。エラートラップってヤツだなァ」
「それで何を――」
「オイオイ、頭上は死角だぜェ? 注意を怠るンじゃねェよォ」
所長がにやりと笑った。その瞬間、根源的な恐怖を煽るような途轍もなく嫌な響きを持つ音が、頭上から聞こえた。
確認の為に東城が見上げたのとほぼ同時に、それは降って来た。けたたましい金属音と共にそれらはコンクリートに衝突する。
「何だ――」
東城がその衝撃で閉じていた目を開くと、辺りに転がっているのは工事現場でよく見かけるようなあの太い鉄柱だった。
そこで東城は愕然とした。
体が前屈みになった体勢のまま、何かに縫い付けられたかのように動けなかった。訳が分からずそっと手を動かしたとき、腹の下で何かにぶつかった。
それを認識した瞬間、口から鉄臭く熱い液体が溢れだした。
鉄柱が、東城の腹を貫いていた。
声も出ない。何も、反応が出来なかった。
「建設中の階層なンだからその程度の事は気を付けとけよなァ。地形の把握は戦場じゃ必須だぜェ」
所長の言葉のほとんどが、既に東城の耳には届いていなかった。
痛みなどもう感じなかった。代わりに、ただ何か冷たい感覚が東城を襲っていた。命を構成する何かが失われていく感覚。目が霞むほどの寒気さえ感じた。
「さて、トドメと――」
「もうやめて!」
東城と所長の間に、電撃の槍が落ちる。
「これ以上大輝に触ったら、私はクラッシュしてでもアンタを殺す……ッ!」
「……まァ、いい。ほっといてもどォせ出血多量で燼滅ノ王は死ぬ。俺はそれが分かっててわざわざクラッシュを誘うようなマゾでもねェしなァ」
所長はあっさりとそう言った。
もうまるで、彼らへの興味は失せていたのだ。
それこそが、その変化こそが、もはや彼の勝利の証だ。
駆け抜けるような速さで、レベルS二人を所長は倒した。
その為に一体どれだけの状況を想定したのか。それも考えられないほど所長の策は万全で、隙など微塵も無かった。
ただあまりに圧倒的だった。能力を無効化にするだけで、神戸のように肉体のポテンシャルを底上げしているわけでもない。だというのに、東城と所長の間にはもう歴然とした力の差があった。
届かない。東城も柊も、この男には手も足も出ない。
「……ヒロインの為に体張れば誰でもヒーローになれるとでも思ってんのかァ?」
小さく、所長の声がした。
「ンなわねェだろォがァ。ンな感情論だけで勝てるンだったら、オレは能力者なンざ開発してねェンだよォ」
所長は独り言のように呟くと、この地下都市を掌握する為にどこかへ向かった。
その所長を東城は止める事が出来ない。
どころか一言たりとも発する事が出来なかった。
もう彼に、意識は無かった。
あまりにもあっけなく、この瞬間に全ては終焉を迎えた。