第1章 再燃 -2-
「はぁ……」
街灯だけが照らす夜の道を、東城大輝は一人で歩いていた。冬を感じさせる冷たい風に身を震わせながら、呑気に家へと向かう。
七瀬と神戸は地下都市の自宅へ帰り、西條と美桜とは駅で別れている。――万が一、異能力者が東城に接触を図るのなら今かもしれないな、などと考えながら、ほとんどそれを本気にもしないで東城は腹をさすっていた。
もちろん腹痛がある訳でも、怪我をした訳でもない。
ぐぅ、と腹の虫が鳴る。
柊による感電で気絶していたせいで、夕食を取るタイミングを完全に逃していたのだ。柊の件はまだ余裕があると分かってからは、空腹感がかなり酷くなっている。
「どうせオッサンは夜勤だし、外で食べて帰るか……」
独りごちながら、ポケットの中に突っ込んであった財布を開く。――が、中身はほとんど空っぽだった。
そんな馬鹿な、と思ってもう一度開いてみるが、どれだけ確認してもコンビニでおにぎりが買えるかどうかくらいのものだ。
一瞬すられたかとも考えた東城だが、すぐに思い出した。
「そうか、昼間に美桜と出かけてたから……」
チョコドリンクに始まり、散々っぱら菓子類を奢らされたせいで、手持ちの金が尽きていたらしい。外で食べるにしても自炊するにしても、一度家に帰らなければいけない状況だ。
となれば、夕食は更に遅くなる。今の空腹具合からして、それは非常に困る話だ。いくら最強の超能力者、なんていう肩書があったところで所詮は人の身。腹が減ってはどうしようもないし、それを解決できる便利な能力でもない。
そんな所帯じみたことを考えていた東城は、しかしそこでピタリと脚を止めた。
その後ろで、足音が一歩遅れて途絶える。
――誰かに、つけられていた。
「……誰だよ」
くるりと後ろを向く。
タイミングを考えれば、やはり異能力者か。
だが彼らがこんな杜撰な尾行などするとは、とても思えない。少なくとも一か月ほど東城の動向を監視していた間は、東城自身に気取られることなどなかった。
いぶかる東城の鋭い視線は、疑いではなく確信だ。
しばらく誰もいない体を装っていたが、それが無意味と知ったか、それとも視線に怖気づいたか。その尾行者はそっと電柱の陰から顔を出した。
その姿を見て、東城はがくっとこけそうになった。急に虚脱感に包まれ、東城は深いため息をつく。
「え、えへへ……」
「何してんだ、お前……」
そこにいたのは、異能力者でも何でもない。紫がかった黒髪を編み込んだ可憐な少女――林道愛弥だった。
「いやー。実は、私、帰るところないんだよね」
「……なぜそれを今になって言い出してんだ」
唐突な告白に、東城の視線は力こそ抜けているが一層訝しんでいた。
言われてみれば今まで異能力者側にいたのだから、家などある訳がない。地下都市が出来る前に研究所からリースされていた以上、地下都市に家が用意されるはずもない。
解散と言い出したときに素直に言うか、そのまま病院に残っていればそれなりに対応策は考えられたのだが。
「だって、言わなかったら大輝の家に泊まれるでしょ?」
けろりと、平然と彼女はそんなことを言う。
事前にバレてしまえば、あの女性陣の中の誰かの家に放り込まれることは確実だ。少なくとも柊か七瀬が絶対に東城の家に泊まるのは阻止していたはずだ。
それを理解して、それは困ると黙っていたらしい。
「策士め」
恨みがましくそう言う東城に、林道は悪びれる様子もなく笑顔を向ける。
「ね、もうこんな時間だしさ」
潤んだ瞳で上目遣いになり、東城の手をきゅっと握る。――完全に東城に断らせない気だ。
「泊めて――」
「駄目に決まってるだろ。今から七瀬の家に強制連行だ」
「そんな!?」
が、そんな手に東城が引っ掛かるはずもなく、あっさりと断られた林道は涙目になる。
この手は七瀬の十八番で、流石に学習した。それと、対処を間違うと後日柊に半殺しにされると言うことも。
「……何か、冷たいね」
ぼそりと、零すように林道が言った。
不平を言うのとは、少し違う。どちらかと言えば、不安だろうか。
記憶のあった頃と同じように、彼女は接しているのかもしれない。だが、帰ってくる東城のリアクションは、突き放すようなものだ。
迷惑がられているのか、とか、自分の知っている東城大輝という人格とはかけ離れているのか、とか、彼女なりに思うところはあるのだろう。
「――冷たく感じるなら、悪かったよ。ただ、どう接したらいいか分かんねぇんだ」
上手く林道の顔を見ることが出来ず、東城は視線を逸らすように先だけを見て歩き始めた。
「お前と俺は、昔付き合ってたって言うし。でも、俺はそれを覚えてねぇんだ」
「……つまり、引け目を感じてるの?」
「引け目、か。そうだな。たぶん、それが一番近い」
林道の言葉は、確かに胸に落ちた。
どうしたって、東城には林道と過ごした時間を思い出せない。
記憶を失ったことに関しては、ある程度区切りを付けた。だがそれは自分の中でだけの話だ。記憶を失ったことで悲しむ人たちに、今の東城はどうすることも出来ない。
柊に関してはそれでもいいと区切りをつけてはいるが、思い返せば、それ以外の知り合いと仲良くしようとした覚えはない。神戸は彼自身が記憶を失くす前には自身を偽っていたせいで、むしろ今の方に新鮮味を感じるし、青葉和樹もいるが、性格の不一致だなんだで進んで会ったりはしていない。
どこかで、避けているのかもしれない。だがそれは、今の東城としては正しい選択だ。記憶を失くし忘れた連中全員にあいさつ回りをして、無理やりに仲良くなる方が間違っている気がする。
そうは思っていても、相手に対し罪悪感を抱いてしまうことはどうしたって拭えない。
「だから、出来れば新しい友人、くらいのスタンスで近づいてくれると助かる」
「……それは、お断りかな」
「は……?」
林道の言った意味が分からなくて立ち止った東城の腕に、彼女はさっと自分の腕を絡めた。やけに柔らかな感触が、左の肘に当たる。
「だってさ。記憶がないっていうことは、私を振ったことも覚えてないんでしょう?」
「まぁ、そうだけど」
「じゃあ、もう一回、初めからやり直せるかもしれないよね」
何でもないように、彼女はそう言って笑っていた。
その笑顔が、東城の胸をざわつかせる。
きっとそれは、彼女の言うように引け目なのだろう。
彼女が自分に好意を寄せてくれているのは、もう十分に伝わっている。だけど、それでも東城にはそれを受け取る資格がない。それがあったのは、記憶を失う前の自分なのだから。
それが分かっていて、しかし、彼女を拒絶できない。それをすれば、いま以上に彼女を傷つけることになるから。
だから、どうしたって真っ直ぐに彼女を見ることが出来ない。
「……どうかした?」
「何でもねぇよ」
東城は、まだ林道とどう向き合えばいいのかが分からない。
柊のときは、それでも折り合いは着けた。自分勝手なエゴの塊だと開き直って、それでもいつか、かつての自分を乗り越えようと決めた。
だが、どうしてか、東城には林道に対してそんな想いを持てない。記憶がないにしても、柊に対しては何か感情の残滓のようなものが残っていたのに対し、林道にはそれがまったく存在しない。
そのことが少し不思議ではある。しかし林道にそんなことを言える訳がない。それをすれば、優柔不断だとか普段の不名誉以前に、ただのろくでなしだ。
自分の胸の内を誤魔化すように、東城はさっさと歩いていく。
「……ねぇ。本気で七海ちゃんの家に行くの?」
「当たり前だろ。柊は病院だし、神戸は男だし。真雪姉の家でもいいけど、能力者なら地下都市の方が安全だ。いくら真雪姉でも、万が一のときに二人を護って戦うのは厳しいだろうし」
「大輝の家っていう選択肢は?」
「さっきやり直す云々の話してた人間を泊められる訳ないだろ。身の危険を感じる」
「……それ、性別が逆じゃない?」
「残念ながら鍵をかけなければ風呂に突撃しかけた人間に心当たりがあるもので」
頬を膨らませて抗議する林道ではあるが、東城からしてみればかつて柊や七瀬を家に泊めたときに精神的に酷く疲弊した覚えがある。林道を家に泊めるという選択肢はあり得ない。
「諦めて七瀬の家に泊まらせてもらえよ」
「――まぁ、今の大輝の恥ずかしい話とか聞かせてもらうからいいかな」
「そんな話ねぇ、よ……」
否定しかけた東城の脳裏に、何かがフラッシュバックするように掠めていく。
思い出したくもなくてとっくに記憶の底に封じ込めたはずだが、あの白と黒の衣装が嘲笑うように視界に蘇る。
――……そう、あれは確か、九月の末のこと。
――学校。
――文化祭。
――クラスの出し物。
――執事&メイド喫茶。
「うぉぁああ……ッ」
湧き上がる羞恥の記憶に、東城がその場でうずくまるように身もだえる。『猫耳ニーソメイドの愛情たっぷりオムライス』の件を思い出していないおかげで、ギリギリ自我を保てているような危うい状態だ。
「……何かあったの?」
「ななな、何もない! 絶対に何もない!!」
女装させられメイドでご奉仕させられたことは、即座に鎖でがんじがらめにして記憶の奥底へと埋め直す。
必死に取り繕った笑みを浮かべて、林道にこれ以上突っ込ませないように東城はぶんぶんと首を振った。
「冷や汗凄いけど……。これは、ちょっと楽しみかも」
「勘弁してくれ……」
半ば本気で泣きそうになりながら、東城と林道は瞬間移動能力者の手を借りて、地下都市へと消えた。




