第4章 慟哭の果て -3-
柊は神戸と戦う。おそらく、自分の記憶を取り戻させる為に。
そう確信に近い予想を持った東城も第4階層に来ていた。神戸がどこにいるかは別として、柊ならばそこで戦うと考えたからだ。
昨日の内に柊に全ての階層を案内されたのだが、この階層だけは異常な広さの割に人はいない。戦う事に何も支障が無いのだ。まして周りは電流から派生した磁力で操れる鉄骨に囲まれている。柊にとってこれほどの好条件がそろう場所は他にない。ならば、柊はどうしてもそこで戦うはずだ。
そしてその予想は、結果としては的中していた。
鉄骨しか存在しないこの空間では音を遮る者が無い。東城が戦場へ追いつくまでに、神戸と柊の戦闘の様子や会話はとぎれとぎれではあるが聞いていた。
神戸の真意も、そして、自身の記憶が戻らないという事も。
そしてそれらの音が小さく微かなものへと変わった後、青白い閃光の爆発がこの空間を埋め尽くした。それはつまり、柊が本気を出したと言う事だ。
まずい、とそう思った。こんな結末で終わらせてはいけないと。
息を切らしてどうにかその場の手前までには駆けつけた東城は、目の前に映る光景に言葉を失った。
立っているのは一人だけだった。そして、嗤っている。
三日月形に口を吊り上げた、神戸拓海が。
「どう、なってんだ……っ?」
今の一撃は、おそらく柊の全身全霊を込めた必殺の一撃だ。それがどうなれば、このように状況が一変してしまうのか。
思わず駆け寄ろうとした東城だが、最悪な事に今の一撃で砕け散った鉄骨が尖った断面をぎらつかせ、帯電した状態で散乱していた。
「くそ……ッ!」
とても直線的に突っ切る事はできず、仕方なく様子を見ながら遠回りするしかなかった。
「あーあ。やっぱり柊先輩も優し過ぎますね。直前で僕から照準をずらしてしまうなんて」
どこまでも冷たい笑みを、横たわっている柊に投げかけていた。当然その四肢を縛りつけていた鉄筋など身体の方を引き千切って抜け出し、それも既に再生している。
「アンタ、何をしたの……ッ?」
倒れ伏して苦しげに呟く柊の声に、力はまるで無かった。痛みを堪えるのとはまるで違う。もっと別の苦しみ方だ。
「『GVHD』って言って分かりますかね。日本語にするなら『移植片対宿主反応病』ってやつですけど」
柊は神戸にまともに焦点を合わせられていないらしく、視線がずれていた。それを見てか、神戸は余裕の笑みを浮かべている。
「まぁ拒絶反応みたいなものですよ。正確に言うなら、普通の拒絶反応が『宿主が異物を殺す』反応なのに対して、GVHDは『異物が宿主を殺す』反応ですね」
「そんな事、どうやってあの一瞬で――」
「一瞬じゃないですよ。GVHDを起こさせようとするには、相手の体内に一定量のリンパ球を送り込んで、それを体内で活性化させないといけませんからね。だから始めに先輩へ素手で攻撃した時点で、僕はそれを送り込んでいました」
神戸の言葉には愉悦も何も感じられない。ここまで優勢に立っていながら、神戸から感じるのは諦めにも似た覚悟だけだった。
「気を付けてください。GVHDは酷く症状が重く、致死率が高いですから」
その言葉に秘められた意味は、東城にもおそらく柊にも、既に分かっていた。
助かりたいのなら殺せ。
当然、柊もそんな事をしたくはないだろうしする気も無いはずだ。
だがGVHDでまともな戦闘法を奪われた柊が生き延びるには、その道しかない。
無論、柊に限っての話だが。
「そんな事、俺がさせるわけねぇだろ」
ざっ、と東城が硬いコンクリートを踏み締める。
ようやく迂回した東城が、戦場に足を踏み入れたのだ。
「あぁ、東城先輩ですか」
まるで東城がここに来る事を分かっているかのような口ぶりだった。ひょっとするとそう願っていただけなのかもしれない。柊でさえ殺してくれない事に絶望した彼は、東城が立ち上がる事を望んでいたのではないだろうか。
「このタイミングで来たっていう事は、話は駄々漏れだったみたいですね。ならもう分かってますよね。柊先輩を助けたいなら僕を殺すしかないです。その為に、僕は今日まで惨めに生きて来たんですから」
神戸の声からは、何の感情も感ぜられない。ただ、冷たく暗い笑みだけを浮かべていた。
「そんな理由で、お前はこれ以上柊を傷つけるのか……っ!」
「そうですよ。だって僕は“悪”なんだから」
神戸は笑みを崩さなかった。
「九千もの悲劇を生み出した僕は今さら正義になろうとする気も無いし、そんなものにすがる気もさらさら無いんです。だって人一人傷つける事なんかどうでもいいと、僕は思えてしまうんですから」
「――っぁ……」と、柊が更に苦しそうな声を上げた。神戸が柊の体内に送り込んだリンパ球を制御しているのだろう。
「だったら、止めなきゃいけねぇよな」
笑う。
これだけの最悪の状況を前にして、それでもなお誰かを救える事に心の奥底が歓喜に震える。
あれほど絶望に打ちひしがれていた少年は、もうどこにもいなかった。
「それは僕を殺すって事ですか? それとも――」
「柊を護る事に決まってんだろ。お前を殺す気なんかねぇよ」
即座に東城は切り捨てる。
「分かって言ってるんですか? そうして先輩が立つ度に、柊先輩は涙を流すんですよ」
「あぁ、分かってる。そんな事はお前に言われるまでもなくな。だから、俺は逃げ出したんだ」
耐えられなかった。柊の涙を見る事が、自分を認めてくれない事が。だがしかし、そんな事は元よりどうでもいい事だったのだ。
東城がしたかった事は柊に認められる事ではない。彼女をただひたすらに守り抜く事だ。
「何も分かってませんよ。だって柊先輩に泣かせない為に、東城先輩が泣かせるんですよ?」
「だから、俺は選んだんだ」
彼女を絶対に泣かせない方法を、東城は知らない。そもそも、そんな方法があるのかどうかも分からない。
だから選んだ。自分が泣かせるという道を。その代わりに、他の全てから柊を護ると。
「これ以上、他の誰にも柊は傷つけさせねぇよ。柊を泣かせるのは、俺一人で十分だ」
その選択がどれほど高慢かなど理解している。そんなものはただの独りよがりの自己満足だ。しかしそれでも、確かに何かを救えるはずだ。
小さな事かもしれない。他の誰かから見ればそれは決して正義には映らないかもしれない。だが少なくとも、他の誰かのせいで流す柊の涙くらいは止められる。
「お前を倒して、俺は柊を護ってみせる」
東城の身体から、真紅の火柱が立ち上る。
自身の記憶が戻らない事を告げられていて、それでも東城は揺らがなかった。東城にとって大事なのはそんなちっぽけなものではなく、故にそれが戻らなくとも構わないとさえ思った。
記憶も正義も何もかもを失おうと、東城に在る真実はそのただ一つだけだ。
「ここで待ってろよ、柊」
目の前にしゃがみ、東城は柊にそっと微笑みかけた。あれほど辛い言葉を放った彼女に対して、東城の声はどこまでもやさしいものだった。
柊の口から、思わず小さな声が漏れた。
東城はおそらく気付いていない。これが、今のこの姿こそが、柊美里が涙を枯らして待ち焦がれた、かつての姿だ。
「た、いき……っ」
GVHDでろくに動けないというのに、精一杯の声を振り絞って柊はその名で呼びかけた。
「負けておいて、私を気にするな、とかカッコつけた事は言えないけど……。あれだけ酷い事を言っておいて、私を助けろ、なんて自己中な事は言えないけど……」
柊は東城に手を伸ばし、その手を握った。弱々しいのにその手はとても温かく、東城には力が流れてくるような気がした。
「私、耐えられるから」
何を、などと問う必要は無かった。その言葉が聞けるだけでもう十分だ。
炎が滾る。
「――駄目なんですよ。そういう甘い考えじゃ、研究は壊れない。七瀬先輩だって言っていたでしょう。研究はそういう善意を食い潰して肥え太る、醜い悪意の塊ですよ」
ぞっと、背筋が凍る。感情が見えないのに、神戸から放たれる殺気は東城の心臓を握りつぶしそうなほど禍々しいものだった。
「研究を潰すには、それを超える悪意が要るんですよ。そして僕は、それになる」
「させねぇよ。お前にこれ以上柊を傷つけさせるわけにはいかねぇんだ」
神戸はおそらく、引き下がらない。彼なりに最大限の譲歩はしたはずだ。記憶を奪うというのが、最後の砦だったのかもしれない。
それを壊したのは東城で、壊してもまだ神戸を救えるのは東城だけだ。
「始めますよ」
神戸の声が合図だった。
言い終えるとほぼ同時に、神戸の体が跳ね上がった。圧倒的な膂力の下で繰り出される神戸の蹴りを、東城はどうにか見極めて炎を推進力にして避ける。
だが膂力以上に超人的な動体視力を持つ神戸は、東城の動きに合わせて蛇が這うように東城の脚に腕をからみつかせると、そのまま地面に叩きつけた。
衝突する寸前で爆発を起こし緩衝した東城は、神戸に蹴りを入れて吹き飛ばして間合いを取り直す。
しかし神戸も間髪いれずに猛然と東城に突進する。
あまりの速度に東城は防御の姿勢も取れず、まして回避しようにも既に周囲は鉄骨に囲まれていた。だから、東城は神戸を爆風で吹き飛ばした。
くるりと空中で一回転した神戸は、そこからの突進はやめたらしく何か考えていた。
(第0階層での戦いは僕の圧勝、ここでは一撃目はギリギリで回避され、ここぞという一撃は緩衝してる。今に至ってはその場から動きもせずに防ぎましたか)
そのあまりの成長速度に、神戸はただ感嘆しているようだった。そしてギリギリの攻防に冷や汗を流しながら、それでもなおうっすらと気味悪く笑みを浮かべていた。
「どうやら、本気で先輩を殺しにかかっても大丈夫みたいですね」
神戸が放っていたのは殺気でも、威圧感ですらない。
それは狂喜。
それだけの純粋に感情に、東城の全身は肌が粟立った。
神戸が本気になる。それはつまり、今の膂力ですら制限をかけていたという事だ。どうにか躱すのが精一杯で反撃もまともにできない東城にとって、それに恐怖以外を感じられない。
「どうかしましたか?」
「……なんでもねぇよ」
だが、東城はすぐにその震えを覚悟で塗りつぶす。
相手が強い事など分かっていた。自分が弱い事など七瀬に嫌というほど思い知らされた。
それでもここに来たのだ。
たかだか神戸の力の一つを見せられた程度で、絶望するには早過ぎる。
「負けないと思うのは自由ですけどね。先輩が今どれほど不利な状況にいるかくらいは分かっていますよね?」
神戸の選択は、二つある。
一つは東城を柊の目の前で殺す事だ。そうする事で柊の精神を完全に崩壊させ、暴風雨の様な能力の塊を一身に受けて望み通りの死を手に入れる。
もう一つは、東城を殺せないと判断した場合に先に柊を殺す事。こうなれば前者の柊のように東城の心は壊れ、これもまた神戸は死を手に入れてしまう。
神戸はどちらの結末でも構わず、二人を本気で殺そうとしている。
だから東城に出来る事はたった一つ。神戸を圧倒し、柊を殺す隙さえ与えずに勝利する。これだけ不利な状況でそれを成功させる事がどれほど困難か、分からないわけではない。
「だからって、諦められるわけねぇよな」
「甘いんですよ。そういう温いヒーローマンガじみた事がしたいんなら、生まれ変わってからにしてください」
神戸は凍った笑みを浮かべて、東城に果敢に挑みかかった。だが当然ながら先程の二の舞となり、攻撃する前にはるか後方へと吹き飛ばされる。
神戸の背が鉄骨に打ちつけられ、そのままずりずりと滑りながら地面に座り込む。
攻撃を防がれ反撃さえ喰らったのだ。普通なら、痛みや小さな悔しさが見えるべきだ。
なのに、神戸のその凍りついた笑みは歓喜に変わった。
手をそっと鉄骨の裏に回すのがかろうじて見えた。
そこから、影が駆け抜けた。
何が起きたのか、理解する余裕など無い。それは失くした記憶とは別の、体に染みついた本能のようだった。ただ東城は自身を爆発で吹き飛ばすと勢いを損なわないまま柊を抱え上げ、そのまま神戸と数十メートルの距離を取った。
見れば東城のいた位置には、神戸が立っていた。もしもとっさに動いていなければ――などと考えれば、嫌でも汗が滲んだ。ただしそれは、神戸の速さに恐怖していた訳ではない。
神戸の手には禍々しいほど純粋に光り輝く、銀色の槍があったからだ。
長さは五メートル近いだろうか。本来それを槍と表現していいのかさえ分からないほど、異常な長さだ。その上、そのうちの一メートル弱を分かれた二本の槍頭が占めている。
すると神戸が槍頭を上にして、それをコンクリートに突き立てた。
爆発音にも似た重い金属音が、東城の鼓膜を激しく揺さぶる。
それはあまりに異常な音だった。単純な音量の問題ではない。あれだけの音を放つ程の力で五メートルもの金属棒を突き立てれば、鉄程度の棒なら間違いなくへし折れる。だがあれは歪んだ気配など欠片もなく、刺さったのだ。
「しかし硬いのは良いんですが重い槍ですね。仮に避けられても柊先輩の方を殺そうとか思っていたんですけど、まさか本気で駆け抜けたのに東城先輩が柊先輩を抱えて逃げるまでの時間を与えるなんて、ちょっとショックですよ」
残念そうに言いながら神戸はそれを引き抜き、斜めに振った。
それだけで、空気が割れた。
ビリビリと大気が震えるのを感じて、東城はより気を引き締める。
あれだけの重さの槍を一撃でも喰らえば――いや、掠っただけでも致命傷だ。そして神戸はあれを丸めた新聞紙のように容易く振り回している。その速度での槍の威力など、もはや想像もつかないだろう。
「……悪い、柊。巻き込まない保証は出来なさそうだ」
先程から更に症状は悪化しているようで、抱えているだけでも柊の体が驚くほど熱を持っていて、汗が滲んでいるのがじっとりと伝わる。その上無理やり東城が動かしたせいで柊の呼吸は更に荒く、体を起こす事も困難な様子だった。
「まだもう少しだけ頑張ってくれ」
「耐えられるって、言わなかった……?」
だというのに、柊はうっすらと笑みすら浮かべていた。
「――ありがとな」
小さく呟いて、東城は炎の爆発的加速で更に百メートルほど離れた位置に移動すると、鉄骨の裏にそっと柊を寝かせた。
そしてまた東城は爆発で神戸の前に戻った。傍から見る分には、東城が瞬間移動でもしたかのように思えるほどの速さだろう。
「彼女を傷つけさせない為に遠ざけた、とかですか。かっこいいですね、先輩」
神戸は東城に対し左側を向けた半身になると、右手だけでその異常な長さの槍の柄尻を握った。モーメントを考えれば一人で支えられるはずもないのだが、そこはレベルSの肉体操作能力者だ。全く狂いなくそれを水平に構えていた。
切先のその一点に反射する光は、まるで悪魔の眼光の如き禍々しさで東城を射抜いている。
「そういう所が、大嫌いなんだ」
空気を引き裂いて、その槍が高速で突き出される。
全神経を注ぎ込みその一撃の防御に徹した東城は、その槍に高温の火炎をぶつけて溶かそうとした。どんな材料や形状であろうと、最上位の発火能力者である東城は何ら変わらず全てを溶かし尽くす。
はずなのに、その槍は柊の電撃と同様に容易く炎の壁に突き破った。
「――ッ!?」
腹へと真っ直ぐ突き出されたそれをとっさに身を捩って躱そうとする。
だが動体視力も反射神経も圧倒的な神戸は、そこから横薙ぎの攻撃に変換した。五メートルもの長さの遠心力とその異常なまでの重さが合わさった一撃は、もう致命傷では済まない。
爆風を起こし、緩衝ではなく薙ぎ払われる方向に飛んで相対速度を殺そうとした東城だが、それでもなお腹にその槍はめり込んだ。
「っがぁ!」
軽々と吹き飛ばされ背中から鉄骨に激突した。がぁん! と乾いた音は鉄骨から響いたのか頭蓋から響いたのか、朦朧とする東城には判断できなかった。吐き気に抗わないでいれば口から出るのは吐瀉物ではなく、赤黒くて熱い、気味悪く粘ついた液体だった。
「蒸発なんてしませんし、溶けるなんてあり得ない。それどころか軟化もするかどうかってところですよ」
ざっざっ、と神戸がめくれ上がったコンクリートの破片を踏みながら近づいてくる。
「金属を溶かすのと水を蒸発させるのとでは必要な熱量が文字通り桁違いです。まして、これは僕が本気で振るったり先輩に攻撃されたりしても破壊されないように、全て余すところなくタングステン鋼で作られています」
神戸はその自慢の槍を振るってみせた。その重さから空気が割れた。
「これを破壊しようと思ったらどれだけの熱量が要るんでしょうね。そっち方面は僕の能力範囲外なので詳しくないですけど、三千五百度の融点と同じ程度じゃ済まないですよね」
神戸はにやにやと粘ついた笑みを浮かべていた。
だがいくら神戸が勝ち誇ろうと、東城の能力も神戸と同じ無制限《レベルS》だ。三千五百度だろうと、たとえ千五百万度であろうと、なんら問題も無く生み出し操る事ができる。あの槍の融点・沸点がどんなに高かろうとも関係なく破壊できる。
しかしそれはあくまで可能かどうかという話だ。実際にそんな事はできるはずがない。
熱は拡散するものでありその媒体は空気である。つまりこの場でそれだけの熱を生み出せばこの場の空気全てが凶器と化してしまう。それは神戸も柊も死ぬということだ。
(なら斬るか折るかの二択か……)
熱を研ぎ澄まし最小の体積の炎であの槍を破壊する。既に七瀬の時にもやった手で十分に有効だろう。折るにしても、あれほど長い槍であるならいかに硬くとも、東城が爆発で加重をかければそう難しくはないはずだ。
だが最悪なのはその武器としての性質だ。槍という性質上、あれは基本的に東城に先端を向け続けている。つまり東城からはあれは常に点に見えてしまい距離感が掴めず、折る事も斬る事も相当に難度を引き上げている。
しかし東城に一撃を決めてからの神戸は油断からかその槍を構えず、だらりと下げていた。
その隙を突いて槍を破壊しようと爆発を生み出す。だがしかし、爆発を生み出した時点でそこにタングステンの槍は無かった。
「なっ……!」
「無理ですよ。レベルSの肉体操作能力者である僕からすれば、眼球運動一つからでも十分に攻撃を予測できます。試しに今度はプラズマで八方から斬ってみますか? 全部回避して先輩を貫く自信がありますけどね」
頭上でタングステンの槍を振り回す神戸はべらべらとその舌を動かし、三日月の様に口を歪めて嗤っていた。
「それともさっきまでのように僕の体ごと爆発で弾いて防ぎますか? でもこれだけのリーチがあればそれも無意味ですよ。あれが有効だったのはほぼ密着状態で僕に躱しようが無かったからですし、この槍がある限り僕は先輩と常に五メートルの距離を取りますから」
事態は最悪だった。東城の能力のほとんどが、神戸に対して意味を成さない。どうにか役に立つのは東城自身の加速程度だが、それでも動体視力は神戸の方が圧倒的に上である以上、それだけでは気休めにもならないだろう。
そして本当に最悪なのは、そうなったのではなくそうさせられたという事だ。
「最強の能力者を相手に真っ向勝負なんて誰もしませんよ。その能力をあらゆる手段を以ってして封じるのは、もはや対燼滅ノ王戦では常識ですよ」
同じレベルSだから、と東城はどこか思っていた。だが違う。神戸のそれは東城が同じ場に立つ事さえ許さない。
「まぁそれでもこんな戦法を選べるのは僕だけでしょうけどね。溶かせないとはいえ金属のこの槍を先輩に向けて振るったら、熱伝導率がすごく良いせいで槍の前に腕が溶けますからね。僕の再生能力が無いとただの拷問道具だ」
ただ一つ東城でさえ防げない武器を持った神戸の存在は、それだけで遥か高みにあった。
あれは神の領域を土足で汚す、圧倒的で理不尽で冒涜的な力だ。
「これでもまだ、僕を殺さずに戦うと?」
「当たり前だろ……」
口の血を拭って、東城はふらふらと立ち上がる。
「なぜですか? 東城先輩は柊先輩を護りたい。ただそれだけの目的なら、僕を生かす必要なんて――」
「確かに必要ないかもしれねぇ。でも、お前が生きてたっていいはずだろ……」
東城は気がついたときには拳を握り締めていた。それは心の奥底では、今でもその事実を受け止めたくないと思っているからか。
「俺には絶対に柊を泣かせない、なんて事は出来ねぇし、それはもう諦めた。だから代わりに、もう他に何も諦めねぇ。俺は柊を泣かせる事で、俺の欲する他の全てを手に入れる。だから俺は、お前を見捨てたりは絶対にしねぇぞ」
それはあまりに幼稚で、しかし壮絶な覚悟だった。
天秤にかかってすらいない。そんなちっぽけなものを捨てた程度で、得られるものなど限られている。
だが東城にとってはそうではなかった。いや、そうさせないというただの気概かもしれない。
他の何よりも大切なそれを捨てた以上、その残った他のものは一つも残さずこの手に掴む。
それが、今の東城大輝の在り方だ。
「そうですか……」
神戸は目を細めて言った。神戸は最強の肉体操作能力者だ。どれほど痛めつければ立ち上がれないか、くらいは嫌というほど知っているはずだ。そしてそれだけのダメージを与えたに違いない。それでも立ち上がる東城に、不快感とは別の感情を抱いているように見えた。
「なら、もう死んでください」
神戸が地面を蹴る。それだけの動作で距離は消えた。
体を弓のようにしならせ突き出す神戸の槍を、既に満身創痍の東城が避けきれるはずもない。その槍は空気を引き裂き、どうにか躱そうと動いた東城の左の肩を容赦なく貫通した。
遅れて、血が噴き出した。
「――――っごぁぁぁああああああ!?」
頭の中で熱が這い回る感覚があった。眼球が飛び出すかと思うほど、訳の分からない力が体の内側で爆発する。
「仮に槍を攻略できたところで、僕を傷つける事を拒むうちは先輩に勝利などあり得ない。先輩のその能力は、破壊する以外にできる事はないんですから」
一メートルはある分かたれた二つの穂先は肩と二の腕の中央に半ばまで突き刺さり、更にその状態で槍をねじ込まれる。その度に血飛沫が舞い、体内で熱が爆発する。
だがまだ東城は諦めない。必死に思考を繋ぎとめて、フリーズを意志の力だけで阻止する。これだけのダメージを負ってそれでも神戸を殺さずに済ます方法があるのか、ただそれだけを考える。
視線で先読みされる以上、実質的に武器は破壊不可能。東城の能力で神戸を傷つける事は論外。もちろん柊の助力は借りられず、それどころか柊の体力が尽きるよりも早く神戸を倒さなければならないという制限時間まである。
この不利な状況をどれか一つでも覆せないか……――
(いや、出来る……ッ!)
思いつく前に、神戸に表情から心理状態を悟られないように僅かにうつむく。それから右手をゆっくりと伸ばし、左肩に突き刺さっている槍に触れた。その些細な衝撃で神経が更に焼き切れそうな信号を発するが、それでも東城は槍を掴んだ。
「無駄ですよ。先輩程度の力じゃこの槍を引き抜く事は――ッ!」
神戸はそこでようやく気付いた。これほど痛めつけられて東城がそれでも笑っている事に。
そして、槍に触れるその手から細いオレンジ色の光が出ている事に。
神戸は舌打ちと共に槍を引き抜いた。東城はその痛みに顔を歪め、その場にうずくまる。だがそれでも東城の狙いは成功だった。
二本あった槍頭は一本だけになっていた。もう一本は、東城の肩に残ったままだ。
破壊不能と言われた槍を、東城は切断していた。
「槍を壊せなかった理由は攻撃を視線で予測されるからだったろ……。だったら、刺さっちまったのを直接触って斬る分には、何の問題もねぇ。別に見る必要はどこにもねぇんだからな」
東城は言いながら肩に刺さった刃に触れ、一気に引き抜いた。血がぼたぼたと左腕を伝ってコンクリートに染みていくが、東城は傷口を縛りもせず手で触れただけだった。
「どうするつもりですか? 漫画じゃあるまいし、肩くらいなら貫かれても平気だと思ってるんですか。言っておきますけど、その出血じゃ戦う間もなく失血死――」
じゅっと、嫌な音がした。
東城の顔が酷く歪み、うっすらと傷口から白い煙が漂う。同時に人体の焼ける独特の嫌な臭いも、鼻の奥を刺激する。
「な、にを――」
「焼いて、出血を止めた……ッ」
粘つく汗を額に滲ませながら、それでも東城は笑おうとしてみせた。
高位の超能力者が自身の能力の影響を無意識に打ち消せると言っても、それは常に無条件で発動するものではない。柊や東城の高速移動などは意識的に影響を受けて発動しているし、今の東城の止血も同様だ。
そしてそれらを意識的に受ける際は、痛みだけを打ち消す、などという事は不可能なのだ。意識的に影響を受ければ、痛みは確実に伴う。東城や柊の高速移動でさえ緻密に計算し、熱や反動といったものを最大限まで抑え衝撃だけを利用してようやく使えるような代物だ。今の東城の止血は、なんら苦痛を和らげるものが介在しない。
それでも東城は意識を保っていた。まだその二本の足で立ち、あまつさえ笑っている。そこにはもう理由も理屈も無い。あるのはただ、恐るべき覚悟だけだった。
「――なるほど、僕も自分を犠牲にするタイプですが、先輩も大概ですよ。それでも先輩の失敗ですね。僕の槍は生きてます。次は突き刺さってから先輩が触れる間も無く引き抜くか、この重量で薙ぎ払うかに専念しますよ」
「あぁそうだな……。お前の槍は生きてる。俺が握っている、この槍頭もな」
東城が握る刃の一部が解けて潰れた。東城が握りやすいように。
「これで、ようやく俺も戦える」
その刃はとても重かった。長さは六十センチほどだが片手で持つのが精一杯で、能力の火炎で支えなければろくに扱えないような物だ。
だがこれさえあれば東城と神戸は同等になる。少なくとも、東城はそう確信していた。
「何を言って――」
神戸にこれ以上喋る余裕すら与えず、東城は神戸との十メートルほどの間合いを爆発による加速で詰めると、切断した槍の刃を振り下ろした。
自身の速度にさらに上乗せして、爆発で刃自体を更に加速させる。それだけの速度を与えられた禍々しい金属の剣は、神戸が防御の為に掲げたタングステンの槍の柄と激突し、互いが烈しい金属音と火花を撒き散らした。
(重い……ッ!)
そう思った神戸は僅かに退こうとする。だが東城は止まらず追撃した。
左腕はもう使えないのだから左半身は隙だらけ。右手で槍から奪った短剣を振るうが、剣術の経験など無い東城の太刀筋はめちゃくちゃだ。
だが、圧倒する。
鬼神の如き形相で、気が狂ったかと思うほどただひたすらに刃を振るう。
東城が本気で能力を使い加速させてもこの刃は壊れない。本気で叩きつけても刃毀れ一つしない。故に迷いも何もかもを捨てて東城はただそれを振り回す。
眼球運動から動きを予測する神戸だが、爆発による圧倒的加速とそもそもの間合いの近さのせいで、槍を以って受け止めるのがせいぜいだ。この場から一度離れるどころか躱す事さえままならない。
東城の攻撃は神戸の予測を無視してその回避に反射だけで喰らいつき、神戸が反撃しようとする方向にも尽く滑り込み防ぐ。
筋肉による動きとは違い、東城の刃は爆発によって動きを決める。つまり理論上はどうとでも曲がるしどこまでも速くなる。もちろんそれを振るう東城の筋肉や関節は途轍もなく痛むのだろうが、そもそも自身の傷を焼いて止めている時点でその程度の痛みなど無いに等しい。
(まさか、たったあれだけでここまで変わりますか……っ!)
東城が能力を使って本気で戦えば間違いなく神戸を殺してしまう結果になる。だから東城はまともに戦う事が絶対に出来ない。そう神戸は確信していたし、東城でさえそう思っていた。だが、武器という枷を手に入れた事でそれは覆された。
「うぉぉおおお!!」
獅子の如き咆哮を上げ、東城はがむしゃらに刃を振り下ろす。だがその全てを神戸は防ぎ切り、僅かな隙に反撃する。それも東城はぎりぎりで防ぐとそのまま反撃し攻撃に戻る。
圧倒的な速度の中でどれほどの時間が経っただろうか。
そこにあったのは異常な光景だった。
凄絶な斬撃の嵐の中で、互いに一撃たりとも浴びせる事が出来なかった。絶え間なく火花は散り続け、それが二人の攻防の軌跡と化して薄暗い空間の中で二人の間を照らしていた。
だが永遠に続くとさえ思った攻防は、唐突に終わりを迎える。
東城の渾身の一撃によって神戸が弾き飛ばされたのだ。
失敗した、と東城は思った。神戸に距離を取らせてはいけない。神戸の脚力による加速をあの槍に上乗せされれば、いくら武器を手に入れたと言っても片手で防げるものではない。
だが神戸は東城と二十メートルほど離れて、止まった。
(おかしい……)
先程までなら着地と同時に反撃に転じたはずなのに、なぜ立ち止まる必要があるのか。そもそも爆発による威力の増加があるとはいえ、脚力にも力を振り分けていれば東城の一撃ごときで神戸が弾き飛ばされるわけがない。
見れば神戸は肩で息をしているし、その額から汗が髪を伝って地面に落ちた。同じだけの動きに対応してきた東城よりも、明らかに疲弊していた。
「あぁ、もう時間ですか……」
神戸は小さく舌打ちして、汗が滴る前髪を掻き上げた。その指先も微かに震えるほどに、神戸は疲労困憊だった。
「――っ。そうか、お前の能力は、細胞を操ることだったな」
東城は気付く。
肉体は本来まとまりのある物じゃなく、細胞一つ一つからして違う。そして神戸はその全てを操って、全身の動きを底上げしている。体中の六十兆個、その一つ一つを全てだ。そんな事をすれば当然演算は膨大で細かなものになる。共通のアルゴリズムがあるとしても東城の数十、数百倍の演算が必要であろう神戸の脳も、それを実現するだけの尋常ではない膂力を手に入れた体も、それらに見合うだけの膨大な分のエネルギーを欲する。
対して東城のそれは最強の能力と言っても所詮はただの発火能力の延長線上にある。必要なカロリーなど高が知れている。
つまりこの必要なエネルギーの差が、現状での力の拮抗を僅かに崩し、その優劣を決めていた。エネルギーが尽きれば、神戸はたったそれだけで確実に負けるのだ。
圧倒的な膂力を振りかざし、緻密な策略を幾重にも張り巡らせ、無敵のような振る舞いすら見せていた神戸の、僅かな綻び。そしてそれは足掻き続けた事でようやく見つけた、唯一の勝利の可能性でもある。
どれだけの絶望を前にしても諦めなかったからこそ得た、最後の希望だ。
「――いい加減に、終わらせようぜ」
「そうですね。僕が戦える時間はあとほんの僅か、おそらく柊先輩がGVHDで死ぬよりも早いでしょうね。でも、忘れている」
神戸はその槍を握り締めた。そして、水平ではなく素早くどの動きにもつなげられるような隙のない構えを取った。
「その僅かな時間で、先輩が負けるという可能性を」
神戸の姿が、陽炎のようにぶれる。
その瞬間には神戸の握る槍が東城の頭蓋に向かって突き出されていた。
視界にそれを捉えると同時に、避けきることは不可能だと判断した東城は握った剣でその槍の軌跡をどうにか逸らす。
烈しく火花が散り、目の前で線香花火でもばら撒いたかのような光量が眼球の奥を衝く。
どうにか槍は軌道が逸れ、東城の頬を掠めながらも後方へと抜けていった。しかし神戸はその状態から横に薙ぎ払った。
自分の握ったタングステンの短剣が、神戸のそれを抑えきれずに額に激突し脳を揺さぶる。踏ん張る事も出来ず吹き飛ばされ、破壊され尽くした鉄骨やコンクリートの破片が皮膚を削り、むき出しになった鉄筋が肉を引き裂き、信じられない量の血が辺りに飛び散る。
それでも東城は叫び声を上げなかった。それどころか脳が揺れまともに視界も定まらないというのに、それでもまた東城は立ち上がっていた。
激痛が全ての感覚を揺さぶる中で、砕けそうなほどに必死に歯を食いしばって、焼き切れそうなほどの信号に脳を支配されないように必死に耐える。
「――……これで、終わりか……。それで俺を、殺せるなんて、思ってんじゃねぇよ」
吐息となんら変わらないほどの小さな声しか出なかった。それなのに、それでも東城の口元は緩んでいた。
もう立てないと思えるほどの体を、覚悟を言葉にする事で支える。
「俺は負けない」
誰かを殺すのではなく、誰かを護る為に。
その力の在り様を、今ここで東城は証明する。
「――……たとえ先輩がどんな信念で生きようとも……っ」
神戸の顔に多くの感情が堰を切ったように溢れ出す。それは激怒であり、歓喜であり、絶望であり、感動でもあった。
「それでも僕は救われちゃいけない存在なんだ! 赦されていいはずが無いんだ!!」
神戸は怒鳴っていた。それは今の東城が始めて見る、そしておそらくは過去の東城でさえも見た事のない神戸の感情の大きなぶれだった。
「僕のせいで、他の誰でもない今までの僕のせいで! この研究はここまで肥大化し九千もの犠牲者を生み出したんだ! だから僕は死ななきゃいけない! 死で罪を償って、研究を止める。それを先輩が邪魔すると言うなら。何度でも立ち上がると言うのなら! 僕は何度だって修羅になる!!」
喉が裂けてしまいそうなほど声の限りを尽くして、神戸拓海は叫んでいた。もう彼に残された選択は残さず東城に奪われた。だから、怒鳴るしか出来ないのかもしれない。
「いい加減に、しろよ。お前だって本当は気付いてんだろ?」
それほどの覚悟で、そこまで口に出して、それでも彼は自分で死ぬ道を選べなかった。
神戸は言ったのだ。『死にたい』ではなく『死ななきゃいけない』と。それはもう、生きる事にしがみついているということではないのか。
ならばそんな人間は死ぬべきじゃない。
生きたいと思う限り、神戸は生きなければいけない。
「……何の、事ですか……っ」
その隙のない東城に、神戸は何の策も用意せず、ただ槍を構えて突っ込んだ。だがもう力は残っていないらしく、その速度は人間のそれに肩を並べている。
「救ってやる。柊だけじゃねぇ。残された能力者だけでもねぇ。俺はお前を救ってやる」
その先程よりも明らかに遅い一撃を躱し、神戸の体を切り裂くように薙ぎ払い弾き飛ばす。
だが神戸は着地と同時にまた猛然と突撃する。それを東城が受け止めると、そこから流れるように二人の攻撃と防御が繰り返される。
既に疲弊しきった二人に、先程までの鬼神と修羅の戦のような圧倒的速度は無かった。ただ代わりに、それすらも凌駕する気迫があった。
もう東城の体も限界だった。エネルギー云々の前に、東城の体に蓄積されたダメージは普通なら歩くこともままならないようなものだ。
だがそんな満身創痍、疲労困憊の二人の攻撃は決して止まない。そこにあるのは、理屈ではない。本当にちっぽけな、ただの意地だ。
攻撃と防御に分かれる事なく二人の攻撃同士がぶつかり合う。凄まじい衝撃波が生まれ、二人共の体が弾かれ合う。
「だったら救って見せろよ……。そんなにずたずたの体で。こんなにぼろぼろに負けていて! それでも僕を打ち負かしてみせろよ!!」
もうエネルギーなど残っていない神戸だが、それでも刹那も止まらず、弓矢のように槍を真っ直ぐに突き出した。
「やってやるさ! 俺の力は、その為に在る!!」
そして東城はそれを、今度は爆発を以って迎撃した。もう東城にはそれ以上の手段はなかった。衝撃の速度と火力を徹底的に抑制しているそれは、おそらく神戸の回復力がある限り死ぬ事はあり得ない。一撃で吹き飛ばしてそれで終わりにする。出来なければ、もう後はない。
だというのにその圧倒的な火力でさえ、神戸は押し返していく。
(エネルギー、が……ッ!)
絶え間なく燃える全身の皮膚。呼吸のたびに焼かれる気道。奪われる周囲の酸素。
神戸の残り少ないエネルギーは、神戸が最も嫌悪しているであろう、無意識の自己再生に消費されていく。
しかしまだ残っている。ならばまだ戦える。まだ突き進める。
「僕は、死ななきゃいけないんだ!!」
その炎をとうとう神戸は突き破った。
負けたと、殺されたと、東城は思った。今の東城にこれを弾くだけの力は残っていない。残っていたとしても、それだけの気力が無い。
神戸の力は、既に東城を超えている。神戸の一撃一撃を見せられる度に心は砕かれ、もう東城は拳を握る事も出来ない。これはもう完全に東城の敗北であり、神戸の勝利だ。
だが東城は悔しさなど感じていなかった。ただ、これほどの戦いに身を投じた充足感に包まれていた。
ここで、全ては完結したのだ。それが勝利ではなく敗北でも、それを悔いる気はない。
これでもいいと、そう思えたのだ。
なのに。
「大、輝――――ッ!!」
柊の声が聞こえた。
そうだ。
まだ諦めるに早い。何も満足などできない。
神戸の神の領域すら冒す速度に、東城は喰らいつく。
この手で柊を護ると誓ったのは自分だ。二度と彼女を泣かせる事の無いように、彼女の前では最強で在り続ける。それが今の東城の闘う理由であり、存在意義だ。
ならばここで這いつくばるのが、柊の望む最強の姿なのか。
違う。そんなわけが無い。
どれほどの力を前にしても、幾度となく立ち上がる。それが、彼女の望む東城大輝のはずだ。
元々は槍の一部だった剣で神戸の槍を斬り上げた。眼も眩むような火花を撒き散らし、東城の握る刃が悲鳴を上げる。
「ら……ぁぁああ!!」
咆哮と共に、神戸の槍がその軌道を大きく逸らされる。それは右の額を掠め、僅かに肉と髪を抉っただけだった。
もはや執念のぶつかり合いだ。だからこそ、それでもまだ神戸は引き下がらない。自分が死ぬ為だけに何年もの歳月を積み上げてきた彼の執念は、この程度では終われない。
神戸は弾かれたタングステンの槍をあっさりと捨て、ただ拳を握り締める。元より槍の長さは五メートル近くある。躱されてもそれを手放せば間合いは通常の格闘と変わらない。
だが、間に合わない。
(そ、んな……ッ!?)
神戸の腕が動くよりも遥かに速く、東城の拳は既に神戸に迫っていた。
これだけ密着した状態でそれでもなお貪欲に勝利を掴もうと加速した東城に、如何に筋力値を操作したところで神戸は追いつけなかった。
「うぉぉぉおお!!」
刃を放り捨てて、東城は神戸の顎に渾身の一撃を叩きこむ。
神戸の体が砲弾のように打ち出される。
絶対に死ぬんだという神戸の意志を、東城は欠片も残さずに打ち砕いた。




