第2章 漣の中 -1-
木枯らしのように冷たい風が吹き、七瀬七海はカーディガンの袖に手を引っ込めた。昼前の日差しの温かさも、流石に冬の冷気には勝てないらしい。
あれから一夜明けた月曜日の午前十一時、七瀬は一人で地下都市の街を歩いていた。
目的があるわけではない。もともと、彼女は街に興味があるほうではないのだ。
オシャレやスイーツなどは好きだが、それを求めるには地下都市の施設はいささか陳腐だ。七瀬がそういうものを欲したときはわざわざ地上に足を運ぶし、必然的に地下都市の第0階層の街を訪れる機会は減っている。
それでもわざわざその場所を選んだのは、目的がそれらとは関係ないからだ。
可憐な顔立ちの中央の眉間に深くしわを刻み、すれ違う者すべてを威嚇する獰猛な獣のように、地下都市の街並みを闊歩する。
ただの気分転換のつもりの散歩だったが、まるで効果はない。心の奥底に溜まった泥のような感情は、時間が経つごとに体積と重みを増しているような気がする。朝も何も食べていないというのに、未だに食欲はない。
しかし、食欲はなくとも空腹さはある。そのことが余計に神経をピリピリさせて、いら立ちの悪循環を引き起こしている。
「……帰りますか」
結局気分は微塵も晴れない中、七瀬は諦めて踵を返すことにする。
こんなときは東城にでも会えば一瞬で晴れやかな気持ちになるのだろうが、今はその気も起きない。彼女は東城のことを愛しているからこそ、今のように怒りで醜い顔をさらしているうちには会いたくなかった。彼の眼には、常に最高の自分を映していてほしいのだ。
その代わりに今日は耳にチタンのイヤリング――初めて会った頃の東城に無理やりせがんだ、思い出の品――を付けて少しでも彼の温かさを思い出そうとしていた。しかし外気で冷え切ったそのイヤリングは、ピリピリと耳たぶの辺りを刺し、七瀬の心を余計にささくれさせる。
心を落ち着かせようとゆっくりと呼吸をしながら、七瀬は自分の家を目指して歩き始める。
だが。
いら立ちが募るときというのは、それが重なるのか。
七瀬はふと視界の端に映った路地裏の様子を見て、心の底から舌打ちした。
そこにあったのは、三人ばかりの男が、十三歳程度のたった一人の少女を取り囲んでいる様子だった。
年齢の割には小柄なようだが、着ているのはセーラー服だ。まだ地下都市に教育施設はないから、わざわざ地上の学校にでも通っているのだろう。もしくは、いつぞやの柊美里のように『なんちゃって制服』なのかもしれないが。
どちらにせよ、一目見ただけで、か弱い少女を多数で取り囲んでいることは分かる。それは善悪で言えば、間違いなく悪に見える行いだ。
(……わたくししか気付いていないわけではないでしょうに)
そう思ってちらりと周囲を見渡せば、明らかに路地裏から視線を逸らし、早歩きで去っていく者たちばかりだった。ひそひそと「どうする?」という声が聞こえもするが、何か行動に移る気配はない。
だが、それもある程度は仕方のないことだ。
この地下都市に住まう者は、全員が漏れなく超能力者だ。
彼らの根底にあるのは、研究所に閉じ込められていたころの記憶だ。自らよりも上位の能力者に逆らえば酷い目に合わされていた研究所では、他者が困っている様を見ていても見過ごすことが自身の平穏を貫く唯一の方法だ。
その上、研究所の眼がない場所――たとえば、月に一度の自由の日――は、高レベル能力者が支配する世界だ。完全なる才能主義により弱者は虐げられ、強者が全てを貪り食らう。
そんな場所で暮らしてきた超能力者に、正義感を期待しろという方が無理なのだろう。それは彼らが薄情だとか、そういう話ではない。彼らに構成された常識というものが、そういう風に形作られてしまっているのだ。それを正したければ教育の場を整えるしかない。
分かってはいる。だが、納得できるかどうかは別問題だ。
(こういう傍から見るだけという行為は、かつての自分を見ているようで反吐が出ますわね)
また深く眉間にしわを寄せ、七瀬はため息をつく。
かつて彼女は、暗黒期と呼ばれる時代を傍観者というスタンスで過ごしていた。戦闘に興じる能力者とそれらから弱者を守る為の能力者が戦いを繰り広げた中で、七瀬は見て見ぬふりをし、自身に降りかかる火の粉以外に一切手を触れなかった。
単純に、それを労力の無駄のように思っていた。
だが、それは違うと知った。
たった一人の少年のおかげで、誰かを救う為に差し伸べる手は何よりも尊く、そして、何よりも美しいものだと気付かされた。
だから。
「――やめなさいな」
路地裏に一歩を踏み込んで、七瀬はその凛とした声を響かせた。
その声に反応して、男三人の六つの目が七瀬の方をぎろりと睨むと、「あぁ?」とわざとらしくドスを利かせた声で脅して来た。
その態度に辟易しながら、七瀬は一度ため息をついて、今のあまりに不躾なリアクションは見なかったことにする。
「やめなさいな、と申しているのですが」
「テメェにゃ関係ねぇだろうが」
「……そう」
すっと、感情が冷えていく。
それは冷静になるのとは真逆だ。目の前の何かに対して、一切の興味が失せたのだ。傷つけることに些少の躊躇いすら存在しない。
元々、これは正義感で助けに入った訳ではない。
ただ見ていて目障りだから、いら立ちが止まらなくなるから、やめろと命令しているに過ぎない。
「だいたい、俺らが何したって言うんだよ? 襲おうとしたとでも言うのかよ? それとも恐喝か? 自警団でも何でも呼べばいいがどっちにしたって証拠がねぇだろ、証拠が。推定無罪って言葉も知らねぇのかよ」
「……子供のように覚えたての言葉を使って論破をしたいのであれば、ご自由にどうぞ。わたくしはそんな頭の悪い真似に付き合う気はありませんので」
わざわざする必要もない挑発が、口を衝いて出る。よほど自分はいらついているらしい、と思ったときには、もう既に相手を完全に怒らせた後だった。
「何だと、テメェ……っ」
「聞き返されるようなことを言ったつもりはありませんが。それに、三下相手にこれ以上貴重な時間を潰されるのは我慢なりませんわ。さっさと失せなさい」
「うるせぇ!」
男の一人が拳を振り上げる。
だが、七瀬はそれをひらりと躱し、相手の動きを受け流しながら足を引っ掛けることで、簡単に転ばせてのけた。
「言い返せもせず、相手の口を塞ぐ以外に自身の意志を押し通せない分際で、偉そうに人語を話すのは止めなさいな。――惨めですわよ」
ため息交じりに言った瞬間、残った二人も激昂する。
その両手に現れたのは、金属製の剣のようなものだ。おそらくは金属操作能力者なのだろうが、アルカナである錬金ノ悪魔のものに比べれば些か以上にチャチだ。
錬金ノ悪魔であれば鍛造したレベルの鋼を生み出せるが、彼らの場合はただの金属原子の集合体を生み出しているに過ぎない。硬度もじん性もあったものではないだろう。
だが、それでも直接凶器を生み出す能力者だ。仮にも兵器として生み出されている以上、それでも殺傷能力は十二分に高い。
――ただし、それは七瀬が相手でなければの話だ。
「鬱陶しいですわね」
言葉の直後。
彼らが生み出した金属の剣は、木っ端微塵に砕け散った。
そして、代わりに。
七瀬の背後を囲むように、無数の透明なランスがあった。
「な――っ」
三人の男が、揃いも揃って言葉を失っていた。
彼らの眼前にあるのは、水を生み出し、それを渦として高速回転させることで生み出した七瀬の最強の矛だ。その操作数に際限はなく、その気になれば、いまのように目にもとまらぬ速さでランスを投げ飛ばし、相手の武器を粉々に破壊することも出来る。
「……わたくしは今、途轍もなく機嫌が悪いのです。えぇ、尋常じゃなく。それこそ、無関係な方に八つ当たりをしてしまいそうになるくらい。――醜い貴方がたがこれ以上わたくしの視界を一ミリでも穢すおつもりなら、覚悟は出来ていますわね?」
水のランスの一つを掴み、大地へ叩きつける。
瞬間、ランスは高圧水流へと姿を変え、その分厚いアスファルトを豆腐のように容易く切り裂いていた。
「この、波涛ノ監視者の七瀬七海の喧嘩を買う覚悟が」
その名を聞いた瞬間、男たちはみっともなく背を向けて逃げ出した。あれほど粋がっていたくせに情けない、と独りごちながら、七瀬は殺気と共に水のランスたちも消した。
結局、八つ当たりでストレスを発散することも出来ず、七瀬としてはただ時間を浪費させられた形になる。それが余計腹立たしく、ほんの一呼吸分だが鼻息を荒くして背を翻す。
こういうときは、さっさと家に帰って風呂に入った方がすっきりするだろう。
昨日の夜はそれでもダメだったのだが、もうそれ以外に気分転換の方法は思いつかない。液体操作能力者という性質が影響しているのか、水につかることは大好きだ。風呂に入れば、大概のことは忘れられる。一日置いてある程度冷めた熱なら、あるいは上手く頭から追い出せるかもしれない。
そうして歩き出そうとしたときだった。
がしっ、と裾を何かに掴まれ、七瀬は思わずこけそうになった。
「……何のおつもりで?」
いら立ちを隠しながら、七瀬は振り返る。
そこにいたのは、先程からまれていた少女だ。
「あの、助けていただいてありがとうございました」
「助けたつもりはありませんわ。あれは、わたくしのただのストレス発散です。礼は不要ですから、さっさとその手を放して下さいませんか?」
七瀬は言うが、しかし、彼女の手は離れない。
「……まだ何か?」
「なんて――」
瞳を潤ませ、彼女は言う。
しまった、と七瀬は遅れて後悔する。
歳をとればあの程度の年齢差はどうでもよくなるだろうし、七瀬には能力のレベルが低かった時代もほとんどない。だが一般的に考えれば、たった三歳程度とは言え年上の男、それも、そこそこ高位の能力者に取り囲まれるということは、かなりの恐怖と苦痛を感じたはずだ。
そんな状況から解放された彼女に、七瀬は義理でも何でも多少の慰めの言葉をかけるべきだったのだろう。たとえ自分が憤懣に苛まれていたとしても、それは彼女には関係ないことだ。
だから、七瀬は「なんて薄情な」などというセリフに繋がるのかと思っていた。それくらいのそしりは、今の精神状態でも甘んじて受けねば、と覚悟した。
だが。
「なんて格好いいんですか!」
感嘆と尊敬の意を込めて、感情いっぱいの声と共に彼女は七瀬に詰め寄っていた。潤んだ瞳は、羨望で輝いていただけだった。
「……は?」
予想していた方向とまるで違い、七瀬は拍子抜けする。あのような事態の直後にもかかわらずそんな風に思えるというのは、豪胆と言うべきか図太いと言うべきか。
「惚れました! 聖はあなたに惚れました!」
「えぇ……?」
頬を紅潮させて七瀬の手を握り締めるその様は、言葉通りの意味で惚れているようで、七瀬としても軽い危機感を覚える。
「貴女の言い分は分かりましたが、わたくしにその気はありませんので。さっさと手を放してくださいませ」
「嫌です」
まさかの即答だった。
仮にも助けた相手にここまで明確に拒絶できるとは、自分も大概な性格をしていると自覚のある七瀬でも驚きだった。
「どうか、もう少し聖の話を聞いてください」
「嫌ですわ」
仕返しとばかりに七瀬は一言で切り捨て、無理やり手を振りほどいて先に歩こうとする。
だが、すぐに伸びてきた彼女の手に腕を絡めとられ、七瀬はつんのめりそうになった。
「……いい加減にしなさい」
「そこを何とか」
そのまっすぐな黒い瞳に射抜かれて、七瀬は「うっ」と言葉を詰まらせる。その迫力を見てしまえば、これ以上彼女を拒絶することは時間と体力の浪費のように思えた。
「……ほんの少しだけですわよ」
諦めてそう言った瞬間、彼女の顔がぱぁっと明るくなる。
「なんてお優しいんでしょう! 強い上に優しいなんて、完璧すぎます!」
この優しさは半ば強引に引き出された気がするが、七瀬は辟易して特にこれ以上文句を言う気にはなれなかった。
「これからはぜひ、お姉さまと呼ばせてください!」
「丁重にお断り申し上げます」
「そんな!?」
驚愕している彼女を放っておいて、七瀬はさっさと歩き始める。腕に絡みついたままの彼女を引きずるような形だが、気にしない。
「お姉さまぁ……」
「いいから、さっさと喫茶店にでも案内しなさいな。貴女に割いて差し上げる時間はほんの僅かだと申したでしょう? 話を聞く前に帰ることになりますわよ」
「はい! 聖、とびきりのお店に案内します!」
にぱーっと明るい笑顔で先頭を歩き始める彼女に、七瀬は疲れたようにため息をつく。
先ほどまでの気持ちが悪いほどの憤懣は、気付けばほとんど感じられなくなっていた。